第5話 思い出を塗り替えてはダメですか?

「俺の昔の担当は、廣田といってな、一回り年下の男だった。入社して二年目で俺の担当をさせられたせいもあって、いっつも俺に怒られてばっかりだった。俺のこの性格だからな、すぐに担当が変わったり、辞めたりするケースが多かったが、あいつは物は知らないが、根性だけは本当にある男だった」


 男の目が遠い昔を懐かしむように優しい目になる。口元から漏れる吐息が、思い出を吐き出しているようで、瀬里花には心地好く感じられた。


「廣田に会うと、俺は何かにつけて怒鳴ってしまってな。だからあいつはいつも、何処か畏縮したように、人の顔色ばかり窺うようにな人間になってしまった」


 可哀想な廣田さん。でも、彼の前ではみんな同じ反応をしてしまうだろう。


「確かにお客様に怒られたら、私でも逃げ出してしまうかもですね。だってお客様のお顔は、映画に出てきそうなくらい男らしくて、またお声にも迫力がありますから」


 突っ込まれないように、瀬里花は髪の毛先を弄り、女らしさをアピールする。こうすることで弱さを見せ、防衛ラインを張るのだ。


「はははっ、そうかそうか、それは悪かったな。だがな、たまにあいつにこちらから何かをお願いすると、飛んで喜ぶように破顔して笑うんだ」


 それを聞いて、お腹を抱えるように笑う瀬里花。


「あははっ、ワンちゃんみたいで可愛らしいですね」


「そうだろう? だから俺はいつしかあいつの笑顔見たさに、色々無理難題を押しつけるようになった」


「えーっ、お客様って見た目は硬派なのに、性格はドSなんですね。本当に意外です」


 男は女がSやらMやらの話題を振ると、大抵は喜んでくれる。自ずと性の嗜好と重ねてしまうのだろう。本当に単純な生き物だ。だからこそ、扱いやすい。


「ただな、俺があいつに感心したのは、最初は何も知らなかったくせに、次会った時には物凄く詳しくなってるんだ。一つの質問をしたのに、二つ以上の答えが返ってくるんだから、また質問を考えたくなるだろ? だからある意味あいつを育てたのは、俺だったんだなと思うぜ」


 余程、彼に怒られたくなかったのだろう。それを彼に言うと、男性は「間違いねえ」と可笑しそうに笑うのだった。


「それだけじゃなくてな。あいつは本当に良く調子伺いの電話もくれたし、何かのついでといって家にも寄ってくれた。それに一番嬉しかったのは、あいつが仕事で失敗した時にな、わざわざ俺の家に来たんだ。俺の顔を見ると、昔を思い出して頑張ろうって元気になるんだと。あれは嬉しかったなあ。だから俺も良く飯をご馳走したりした。だからあいつはもう息子みたいなもんだった……」


 幸せそうな目に、突如陰りが出る。何かを思い出してしまったからだろう。声を詰まらせる彼に、瀬里花は意を決して、言葉を投げかけた。


「だけど、お亡くなりなられたんですね?」


「ああ……、あいつと会って十五年目の春だったかな。朝刊を見てるとな、おくやみ欄に、思いもよらないあいつの名前を見つけてしまったんだ」


「そんな……急にだったんですね」


「ああ、それを見て、俺は息が出来なくてな。家内にも新聞を見返して貰ったが、やはり同じ名前でな。店に問い合わせたら、店長が電話を替わってくれて、改めて廣田の死を聞かされたよ。病死だったそうだ」


 胸が窮屈なまでに締めつけられていく。まるで他人のことには思えなかった。


「お通夜に顔を出してな、俺は怒ったよ。『馬鹿野郎、客より先に死ぬ奴があるか!』ってな。すぐ追い出されちまったが、俺の涙に両親や家族は泣いてくれていたよ。それだけ俺は、あいつをただの営業担当とは思っていなかったんだって、あいつがいなくなって初めて気づかされたよ」


 目を潤ませながら、うんうんと何度も頷いてみせる瀬里花。これは演技ではなく、心からのものだった。


「後で聞いた話ではな、脳梗塞だったらしい。客の車の調子ばかり気にして、自分の病気には一切気づかないなんて、医者の不養生じゃないが、本当に大馬鹿野郎だったよ」


 きっと忙し過ぎて、健康診断で精密検査の通知が来ても、後回しにしていたのだろう。人間が良く出来た人ほど、結果的に、生き急いでしまうのは、よく聞く話だ。


「廣田さんは、いい人だったんですね。お客様が惚れていたのもわかります」


「まあ、俺の若い頃ほどじゃねえけどな。あいつはあんたの結婚相手に薦めたくなるほどいい男だったんだぜ?」


 もし今も生きていたとしたら、三十八歳くらいか。男性は落ち着いた方が好みではある。残念だなと思いながらも、何処か心の中では安堵する瀬里花だった。


「なあ、ネエちゃん。あんたが見た目に似合わず真面目な子だってのはわかる。だからなあ、ひと言これだけは言わせてくれ。人はなあ、精神にしても肉体にしても許容量というのがある。だからな、あいつみたいに頑張りすぎるなよ?そして、もし本当に辛い時は、うちに遊びに来るといい」


 ――えっ?


 何だろう。この告白をされたように、胸にじーんと来る感覚は。


「俺はもう二度と、自分の担当が俺より先に死んでしまうのは嫌だ」


 彼の憂いに満ちた眼差し。それが瀬里花の心さえ射るようだ。


「私は……私は死にませんよ?」


 不意に漏らした言葉。いや、そうとしか瀬里花にはいえなかった。


「ああ……そうだといいな」


 しかし、瀬里花は思い知っている。人がいつ死ぬかなんて、どれだけ長く生きられるかなんて、誰にもわからないことを。


 ――だから。


「そして今日、四月一日が廣田の命日なんだ。だから、あいつへの手向けになるかわからんが、車を買い替えようと思ってな」


 彼が無理矢理に瀬里花に声をかけたのは、そんな理由があったのだ。


「どうだ、俺に車を売る気をなくしたか?」


 ずるいと思う。自分の駄目なところを先に許容させ、その上で自分のして欲しいことを瀬里花に伝えてきたのだ。


 ――本当にずるいよ。


「私は廣田さんではありませんし、ましてや男性でもありません。だから出来ないことばかりだと思います」


「やっぱり駄目なのか……」


 ――でも。


「ですが! 私は私ですし、女であることを誇りに思っています。そして、女だからこそ出来ることがあると思います。私はあなたが白いカティアラに乗って、私に会いに来てくれる姿をもう想像しています。いつも険しい顔のお客様も、私の前だけは笑顔なのです。そしてあなたは何回か車検を受けてまた別の車に買い替えて下さるのです」


「何だ、その決まり事は……俺に自由はないのかい?」


「あなたが私にして欲しいことを先に伝えたように、私ももう決めたんです。ずるいと言われても、お互い様です。聞く耳持ちません。だからお客様。どうか私、許斐瀬里花から、カティアラを買って下さい!」


 その瞬間、吹き出すように大袈裟に笑い出す男性。胸の鼓動がドクンドクンと大きく高鳴る。その高鳴りを、瀬里花は止めることが出来なかった。


「かっはっはっはっはっ、あんた、本当に面白えなあ、おい」


 ――ドクン、ドクン。


 敗北から逃げるように、瀬里花は目を瞑った。


 ――ドクン、ドクン!


「あんたみたいな子にお願いされて、だろう?」


 ――えっ?


「逆にこっちからお願いするぜ。俺、一ノ瀬茂市の新しい車の担当になってくれ。瀬里花ちゃんよ」


 ――ああ。


「はい、喜んで」


 何故か泣いてしまう瀬里花。一ノ瀬はそんな瀬里花に、まるで父親のように微笑んでくれた。


「さあ、注文書を出してくれ」


 その瞬間、瀬里花の思考は止まる。感激に包まれていたはずの脳を、一気に疑問が襲う。


「あれ、注文書ってどうやって作るんでしょうね……?」


 そして瀬里花は、その後しばらく一ノ瀬に笑われっぱなしになるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る