車に恋をしたらダメですか?
lablabo
第一部 夢を見ても良いですか?
序章 きっかけ
第1話 本当のことは何も知らない
どうしてこうなった。
フロントガラスの割れた車内で、
――痛っ。
シートベルトのせいだろう。微かに膨らんだ胸にはベルトのラインに沿って激痛が走り、冷静に息をしようにも呼吸がうまくいかない。声を出そうにも掠れ声にもならなかった。
――やばい、私、死ぬのかな。
暗闇の中、車のヘッドライトはぶつかった木の太い幹を照らしている。割れたフロントガラスには、ぶつかった衝撃で飛散した葉っぱと枝とが、怒りを露にするように襲いかかっている。
――悪いことしちゃったな。
運転技術には自信があった。道だって走り慣れた県道で、十分把握しているつもりだった。でも、まさかこんな夜の山道で、子猫が飛び出してくるなんて思いもしなかった。
ステアリングをお気に入りの社外ブランドの物に交換していたから、エアバッグはついていなかった。いや、そもそも車が古すぎてエアバッグなんて純正でも装着されていなかった。もし、瀬里花が生まれ変わるようなことがあれば、次は無理やりにでもエアバッグをつけようと思う。もちろん次があればの話だけれど。
――電話しなくちゃ。
母にである。本当は110や119に電話しないといけないのだけれど、人は死の間際まで追い詰められた時、最初に求める他人は、恋人でも父親でもなく、母親なのである。少なくとも今それがわかった。
ベージュのトートバッグは前のめりに倒れ、化粧ポーチや手鏡が事故の衝撃を物語るように飛び出し、フロアマットの上に転がっている。瀬里花は震える左手を助手席に伸ばし、バッグの中からスマホを取り出す。愛用の手帳型のスマホケースは、瀬里花が掴むと血で真っ赤に染まってしまった。もう駄目だと思った。
「おい、大丈夫か?」
運転席側のドアガラスを叩く音が聞こえる。
「おい、君、意識はあるかい?」
どうやら男の人のようだ。瀬里花の長い髪が邪魔して、その人を目で捉えられない。瀬里花は何とか首を縦に振った。
――その瞬間。
勢いよくドアが開けられようとしたが、フェンダーにドアが干渉しているのか、三十センチ程しか開かなかった。リフトバックの赤いボディが血を流しているようにも見えた。
「クソっ」
男の声が瀬里花の耳元で響く。彼の息遣いが、静まり返った空間に微かに聞こえてくる。
「車はもう駄目か」
車が駄目? この男は何を言っているのだろう。
――早く動かさなくちゃ。
車も痛がっている。瀬里花は慌てて鍵を回すが、車はエンジンを停止したまま微動だにしなかった。
――そんな。
右目から涙が頬を伝っていった。瀬里花と同じ名前の大切な車が今、彼女と共に息を引き取ろうとしている。
「車を早く……車を助けて……」
瀬里花は痛みに耐えながら、何とか声を絞り出した。
「車だって? 君は何を言ってる?」
男が瀬里花のシートベルトをゆっくり外す。黒いスーツの袖が、彼女の目の前を何度も横切る。
「私なんてどうなってもいいから……早く車を助けて……」
それは辛うじて出せた瀬里花の心からの言葉だった。
「君は自分の言っていることがわかっているのか?」
意味がわからなかった。瀬里花にとってこの車は命よりも大切なのに。家族が一つであっとことを証明してくれる唯一のものだったのに。
「わかっています。だから早く……」
「馬鹿野郎! 君が死んだら、車をまた生き返らせることも出来ないだろう?」
――生き返らせる?
「そんなにこの車が好きなら、全てを諦めるな!」
――諦めるな、か。
そっか。瀬里花がいなくなれば、車は間違いなく廃車だろう。でも瀬里花が諦めなければ、まだ救えるかもしれない。そう、まだ何も終わっていないのだ。
「もうすぐ救急車が来る。だからもう少しだけ頑張ってくれ」
男の顔が見えた。髪が少し長いサラリーマン風の綺麗な顔をした男性だった。
「はぃ……」
瀬里花が頷くと、男は嬉しそうに目を細めた。黒いスーツに細く白い毛がたくさんついていたのが、何故か瀬里花の目に留まって離れなかった。
「大丈夫、君も車も僕が死なせないから」
――えっ?
「うちの会社は、かつてこのセリカを取り扱っていたディーラーなんだ。だから安心して。ちゃんと治せるよ」
その優しい言葉に、瀬里花の空っぽだった心は満たされていった。
「良かった……」
「それにしても、今時珍しいね。こんなに車が好きな女の子がいるなんて」
普段からよく瀬里花が言われている言葉だ。彼女は痛みを堪えながらも、ゆっくりと口許を緩め、いつも決まって言い返す言葉を投げ掛けた。
「ねえ、車に恋をしたら駄目ですか?」
そう、許斐瀬里花は、異性にでもなく、ただずっと車に恋をしているのだ。
遠くで救急車のサイレンの音が響いている。その音は瀬里花を安堵させてくれる。そして営業マンらしきスーツの男が、いつのまにか白い子猫を抱き抱えていて、瀬里花に見せてくれる。
「お前を避けたのかな? ほら、ちゃーんと、この可愛いお姉さんに謝って」
子猫が「みゃあっ」と瀬里花に口を開ける。その表情が愛らしくてたまらなかった。
――ああ。
――君も生きていたんだね。
「本当に良かった……」
子猫のように目を細めると、瀬里花の細い身体からは力が抜け、そのまま静かに意識を失った。
「嫌いじゃないよ」
何に対する答えかわからなかったが、薄れ行く意識の中、瀬里花の耳に確かにそう聞こえた気がした。
そう、この日から全てが始まったのだ。
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