馬鹿の飲み薬

第1話

時刻は午後七時。苦しいネクタイを緩めて第一ボタンを外したまま知らない道を歩く。


 何回目か数えたくもない面接は相変わらず手ごたえが無かった。就活疲れの体を引き摺って電車に乗り込んだまでは良かったが知らず知らずの内に眠っていたらしい。起きた時には下りたことのない駅まで電車は進んでいた。

 駅近という知らない駅の構内には誰も居なかった。利用者はおろか駅員もいない。腕時計を確認すると午後六時を指していた。


「まいったな…。どこだここ?」


 次の電車の時間を確認しようとしたけれど時刻表がない。廃れた駅だから電光時刻表の存在なんかは期待していなかったが、紙の時刻表さえないとはどういうことだ。このままいつ来るか分からない電車を待つのは不安なので、タクシーを拾うことに決めた。

 

 そうして見知らぬ町を彷徨うこと一時間。血の色をした夕陽を背中に受けたのは随分前に思える。太陽は少し前に沈んで、空はもう群青色になってしまった。知らない町を一人で歩いているせいもあるのだろうがそれを除いても、この町は妙に薄気味悪い。一時間も歩いているというのに住民の誰一人とも出会わないのだ。国道㊧と標識の出ていた大通りを沿っても車が全く通らない。自転車の影も見当たらない。

 駅は寂れていたけれど町はそこそこ新しい。家も建ち並んでいるし、病院やコンビニだってある。問題はその建物の中にも人がいないことだ。まるでジオラマの中に迷い込んでしまった気分になる。人工的に見繕った町に放り出された感覚。「ここは駄目だ」 頭の中で俺が根拠のない警告をした。


 更に三十分ほど歩いた時、ふとビルに挟まれた小さな飲み屋を見つけた。赤茶色の無地の暖簾と赤提灯を提げたステレオタイプの飲み屋。店の名前は書いていない。また無人かと一瞬思ったがそれは違うようだ。


「食いもんの匂いがする……」


 そういえば面接の前におにぎりを一個を食ったきり、何も口に入れてないんだった。急に空腹を認識した俺はこれまでの疲れを忘れてその飲み屋の引き戸をこじ開けた。



「いらっしゃいませ」


 飲み屋の中は想像以上に狭かった。四脚の椅子がカウンターに並んでいるのと、他は机が一卓あるだけだった。満席になっても頑張って十人入れるのが限度だろう。他に確認できるのは古臭いブラウン管のテレビ。よくよく見ると摘みでチャンネルを変える大昔の代物のようだ。映し出されているのはまだ生まれたばかりの赤ん坊で、何かのドキュメンタリー番組だと思われる。手垢で汚れたカウンターの向こうにはミイラのような爺さんが一人。人の良さそうな顔を俺に向けていた。この町に迷い込んで初めて人間に出会えたことに安堵する。


「やあ、久しぶりのお客様ですねえ。どうぞお好きな席にかけてください。今お冷を用意しますから」


 爺さんに促され、カウンターの左端に腰掛けた。とりあえず何か頼もうと壁に掛かっているメニューを見る……けど


「おでんしか無いの?」


 メニューの中で食えそうだと確認できたのはおでんだけだった。他に掛けられていたのは二つしかないし、意味がわからない。


「『馬鹿の飲み薬』と『解毒剤』って……」


 どんなリアクションをすればいいのか分からず言葉を失っていると、冷とおしぼりをカウンターに置きながら爺さんが笑った。


「試してみますかい?」


 

 『馬鹿の飲み薬』とは酒の名前だそうだ。知る人ぞ知る幻の銘酒だという。その美味さもさることながら、この酒に纏わる伝説が『馬鹿の飲み薬』を幻にしている所以。


「この酒を飲むとねえ、飲んだ人の一番の願いが叶うって言われてるんですよ」


 伝説というより都市伝説並みの信憑性だ。しかし飲み屋にはビールなどは無く、酒は胡散臭い『薬』しかなかった。銘酒である上にそんなありがたい効能があるというなら、就活学生の俺では手の出ない値段だろうと問うと一杯五百円だと言われた。久しぶりの客だからサービスしてくれるらしい。それなら、とその日俺はおでんと『馬鹿の飲み薬』を飲み食いして帰った。


 そしてそれから数日経った今日、手応えが無いと思っていた会社から内定の通知がきた。酒を飲んだあの日に受けた会社だ。まぐれかもしれない。けれど少しだけあの薬の伝説を信じてしまいそうになった。

 内定通知を実家の母親に連絡し携帯電話の電源ボタンを押した時、爺さんが言った薬の伝説の続きを思い出した。



――願いを一つ叶える代わりに、不幸が三つ訪れるとか……。あたしはその不幸のことを『副作用』と呼んでいますが、お客さんには何が起きるんでしょうねえ

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