きっとまだ見ぬ空の下
ARKS
第1話プロローグ
「はぁ、はぁ、はぁ」
肺を通って出し入れされる空気は僕の体を害意をもって徐々に凍り付けて行くようだった。
口から吐き出される白く濁った空気は、口元で広がった後、すべからく僕のメガネを曇らせていった。
それはまるで世界という大きな一つの単位が僕に対して意地悪をしているようで、どこか懐かしさと共に寂しさを覚えた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
もうどれくらい腕を振って足を太ももを動かしたのか。
いったいいつまでこんなことを続ければいいんだと猜疑心に駆られる。
この永遠に思える重く辛い時間はいつまで続くのか、もしかしたらあとほんの少しなのかもしれないし、ひょっとしたらそれこそ永遠のように続くのかもしれない。
「はぁ、はぁ、はぁ」
視界がぶれる。どうやら気づかない内に、木の根元に太い、それこそ幹を彷彿とさせるような根っこに足を引っかけたようだった。
苦しい。辛い。気持ち悪い。
何で自分がこんなことになっているのか。
何で自分がこんな目に合わなくてはいけないのか。
そんなことが頭をよぎる。あはっ、今更そんなことを考えても意味がないのに、どうして人間ってやつは…いや、僕ってやつはこんなしょうもないんだろうか。
あーあ、バカだな。
目の前に迫る、黒く濁った地面は唐突にやってきて、走っていた時はあんなにも滑りやすくて柔らかい厄介な代物だと思っていたのに、すごく、すごく硬かった。
「*****!」
意識が途切れる間際、何語か分からないけれど、小刻みに揺れる視界の中からこっちに向かって叫んでいるように聞こえた。
それはとても滑稽な景色に思えて、なんだか何かのコントを見ているかの様だった。
けどそれは、こっちに向かって怒鳴りつけると言うより、仲間に向かって何かを伝えている。
そんな風に聞こえた気がした。
不意に視界がぶれる。
誰かが地面に手を着いている様子が見えた。
額から垂れた汗が冷えて本当は寒いはずなのに、なぜだか少し涼しいと感じた。
「っく‼」
また、視界がぶれる。
誰かが僕の体を揺さぶっているようだ。
っは、なんだ。すぐに殺されるのかと思ったんだけどな。
いたぶる趣味でもあったのかもしれない。
だったらもう十分だろうに、全身が薄い翠で覆われたこいつらは僕が想像していたものよりも残虐だったのかもしれない。
段々と黒く染まっていく視界の中でそんなことを思う。
しかし、それは後ろから突然やってきた強烈な衝撃によって阻まれることとなる。
何度も何度も視界が地面と空を行き来する。
そしてそれが何度目か分からなくなったころ、薄暗い木と木の合間からチラチラと見える空が視界に映った。
―ガサッガサッ
こちらに近づいてくる音がいくつも聞こえる。
そこでふと、あぁこれは夢なんだとそう思うことにした。そして段々と視界は真っ黒に狭まって行った。
*****
―ピリリリリッ
次第に明らかになっていく意識の中でこのうるさく目障りな音の現況である目覚ましを必死に手繰り寄せる。その際、手が盛大に壁にぶつかり、じくじくと手の甲を痛みが広がっていく。
「はぁ。今日も朝が来た」
僕はそのことにイラつきながらも目覚ましのスイッチを切ると、一度目を閉じて、目覚ましの隣に置いてあったメガネを手に取る。
ぼやけていた視界がクリアになると、メガネに汚れが付いていないか視界の異変を探すことで確認し、部屋の電気を切る。
「くそだな」
その一言をきっかけに暖かく心地よいぬくもりの残った布団を払いよけて、足を地面に下す。
その重たい重力を感じながら僕は顔を洗うために洗面所に向かった。
階段を下りていくと、朝の光を浴びた廊下や玄関が目に入ってくる。
まったく、なぜ太陽は毎日上るのか。
ときどき触れる、見える、会えるからこそ、ありがたみというのは感じられるのだ。まったくもって理不尽だと思うが、思ってしまうのもはしょうがない。
そこではたと気づく。
もし太陽が昇らない日があったとして、本当にその日は学校や仕事は無くなるのかと。
いやそんな事はないと思う。
そしてそのことにうんざりするんだろうなと容易に想像ついてしまうのはご愛敬だよね。
女の子はここにすごく時間をかけるのだろうが、手早く寝癖を直し顔を洗うと朝食もそこそこに学校へと向かった。
優雅なブレックファーストというものにも一縷の憧れは持っているが、そんなことに時間をかけるなら少しでも寝ていたいというのが僕の心情だ。
しかし、低血圧な僕にとっては朝というものほど悩みの尽きないものはない。はっきり言って災厄の部類に入る。
少し先に駅から来たのだろうと思われる女子グループの話し声が聞こえて来る。
まったく朝から何をそんなに話すことがあるのだろうか。
昨日のテレビ?新作のアクセサリー?新しくできたケーキ屋?え?そんなこと話してどうするの?というのが正直なところ。
でも、そんな女子グループは見ていて楽しい。
それはまるでバラエティーみたいだった。
例えるならそう、テレビの話を振ったら、天気の話で返ってきたみたいな。
そんなあべこべな話でも女子グループの会話はコロコロと移り変わっていく。
違いは液晶という名の画面を隔てているかそうでないかの違いだけだ。
それはある意味でたとえ現実で同じ学校で同じクラスでさえも一つの恋や出会い、きっかけさえもないという世界からの暗示なのかもしれない。
僕はそんな世界に対して、音楽を聴くことによって少しだけ反抗してみる。
きっと僕の周りではこうしている今も彼女とイチャイチャしている輩がいるのかもしれない。
けれど、半年もしない内につまらない喧嘩でもして別れるんだろうなと考えれば僕の心は静まってくれる。
お気に入りの歌手のシングルも完全に聞き終わらない内に僕の通う北奥高校の校門が見えて来た。
「やべ、今日なべかん立ってんじゃん」
僕はなべかんがこっちを向く前に急いでイヤホンを外し、鞄の中へと突っ込んだ。
そして、控えめな声で挨拶を適当に流し、目を付けられないようにそそくさと昇降口へと向かう。
風紀を正すためと大義名分を打っているが、音楽も満足に聞けないなんて理不尽だと思う。
教師たちは勉強に必要ないと本気で思っているのだろうか。
なべかんはたまにこういう風に抜き打ちで風紀をという大義名分を掲げて来る。
きっと今日の学校の門を開いたのはなべかんだろう。
本当にそんな暇があるなら、少しでも寝ていたほうがいくらか建設的だと思う。
ぶつぶつと言いながら階段を一つ上ると、二年生のフロアになる。
僕の教室は階段から二つ目、席は窓側の後ろから三つ目。
僕は机に鞄を引っかけると、机に突っ伏した。
周りはいろんな声が聞こえて来る。
その中に僕に関して話している人はいない。
そんな単純なことでも分かっているはずなのに、誰かがクスッと笑うだけで僕に対して笑っているのではないかと勘ぐってしまう。
だから僕はそんなクズな僕に自己嫌悪してイヤホンを填める。
やる気のない教師のやる気のない確認事項が終わると、少しの時間を置いて一時限目が始まる。
一時限目は年季の入ったおじいさんによる古典の授業だ。
朝からだるいことこの上ない。
けど、このおじいさんに対しては好印象だった。
その貧弱な体力から盛大に寝ていたりこっそりとゲームをやっている輩を叱るようなことはしないし、そのか細い口から出るこれまたか細い声はもはや子守歌と言って相違ないが、話している内容自体は教科書に載っていないことばかりで、その時代背景や小ネタもあって本当に古典という分野が好きなんだなと伝わってくる。
だからというわけではないけど、僕は出来るだけこの授業は寝ないようにしている。
ただ、やはり低血圧な僕に朝からこの授業は耐えがたいものがあった。
恨むならこの時間割にしたどこかの誰かさんを恨んでくれ。そう遺言を残して僕は力尽きた。
一限目の終了を告げるチャイムで目が覚める。
硬い机に寝たせいで凝り固まった体をほぐしているとき、それは起こった。
最初は目の錯覚だと思った。
しかしそれはだんだんと広がっていく。未だクラスの奴らは気づかない。
おそらくクラスの中央から生まれた黒い点はその周りにビビッドな青でサークル状に線が描かれてから明確にその線が描かれる速度が早くなった。
いや、この教室の中だけが時間から取り残されたように進みが遅くなっている。
そのことに気づけたのは僕が外を見たからかもしれない。
落ちていく葉の速度や飛び立つ鳥の速度が異常だった。
その青い線はサークル状に加速度的に広がっていく。
そして、線が教室の端に到達すると、発光し始めた。
ほぼ一瞬にして僕の視界を白一色で埋め尽くされ、体感時間にして十秒間。
その間に僕の見ている世界はガラリと変わった。
*****
「…ッツ⁉」
ここは…、どこだ?
周りは草木に覆われていて、独特の香りと雰囲気を醸し出している。
どことなく前に一度だけサングラスが特徴の森田さんが出ているテレビ番組で見た富士の樹海に似ているなと思った。
地面が所々隆起しているのだ。その上に苔やら根やらが蔓延っている。
耳を澄ましてみると、鳥や草木の擦れる音、何かの獣の鳴き声が聞こえて来る。
クマの対処法として自分の位置を知らせるために音を鳴らしながら歩くというのが定法だけど、もちろん音を鳴らすものなんて一つも持ち歩いていない。
右は太い幹、左は果ての見えない翠、正面も果ての見ない翠、後ろは…、はい、森しかないです。
……つまり、絶賛迷子なう‼。
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