打ち合わせ

 四時十分前に奥田書店に行くと、亮が一人で店番をしていた。浜口さんという人はまだ来ていないらしい。


「よう。撮影どうだった?」


 顔を上げた亮に、無言で一眼レフの電源を入れて渡す。データを見る亮の眉がくいっと上がった。


「これ、洋子さんだよな?」


「お前もそう思うか」


 ため息まじりに言うと、俺は肩を落とした。


「ポートレートとしてはいいけど、でもなんか違和感があるな。俺、あの人の化粧した顔なんて初めて見た気がするぞ」


 そう言って一眼レフを返してきた亮に、深く頷いてみせた。


「そうなんだ、俺の知ってる洋子さんじゃない」


 客に向かって微笑む洋子さんは、いい顔をしていた。けれど、よそゆきの顔だって商店街の人間ならすぐにわかってしまう。


「俺が悪かったんだよ。普段通りの洋子さんを撮りますって打ち合わせのときに説明すればよかったんだ。俺の段取りミスだ」


 詰めが甘かったんだ。失敗しないための下準備を怠った俺が悪い。

 人を撮るのは物を撮るのは違って、コンディションや緊張、天気でイメージ通りにいかない。その一瞬はもう二度とない。それを逃さないために、段取りをしなきゃいけない。


 多分、美月さんが今の俺を見たら叱りとばすかもしれない。今思えば、美月さんはお客さんとの打ち合わせやアプローチが念入りだった。それはその日、そのときの最高の一瞬を捉えるためであり、プロなら当然のこと。つまり、俺はプロ失格だ。


「納得いかないなら、もう一度撮影させてもらうか?」


 黙って下を向いてしまった。再撮影なんて、よほどのことがない限りできない。そう思ったけれど、よほどのことをしでかしたのは自分だ。

 亮はそんな俺の肩をぽんと叩き、落ち着き払った声で言った。


「とりあえず、写真そのものはいいんだから、そんなに落ち込むなよ」


「そう言われてもなぁ。洋子さんは写真を気に入ったみたいだから、なおのこと心苦しいよ」


「どれを気に入ったの?」


 包みを手に微笑む写真を見せると、亮が「へぇ」と目を細めた。


「ずいぶんおしとやかに笑ってるじゃないか。これを気にいるってことは、彼女にとっての理想の自分がどんなものかわかっちゃうな」


「これを見て商店街に買い物に来た人が『あれ、写真と違う』ってなると思うんだけどな」


「理想と現実とは、ときに残酷なもんだ」


「哲学ぶってる場合じゃないだろ。明日写真届けに行くの、憂鬱だぞ」


「明日の夜、理事会があるから、そのときに渡しておこうか?」


「あぁ、頼むよ。またボヌールの件か?」


 ふと、亮が声を落として呟くように言った。


「今回は別件だ」


「なんだか、役員も大変そうだな」


 亮は小さくため息を漏らし、何かを言おうとした。だが、ちょうどそのとき店の自動ドアが開く音が響いて、彼は話すのを止めた。


「こんにちは」


 入ってきたのは、スーツ姿の女性だった。大きな目と口をした美人で、三十代半ばに見えた。栗色に染めた髪を綺麗に結い上げ、青いフレームの眼鏡をかけている。女性にしては背が高く、細い体に黒のパンツスーツがよく似合っていた。


「お世話になります」


 亮が歩み寄って、軽くお辞儀をした。


「紹介します。こいつが例の甲斐憲史です」


 おいおい、こいつ呼ばわりかよ。しかも『例の』って何を話したんだ。かすかに眉をしかめた俺を、亮は浜口さんに引き合わせた。


「憲史、こちらが浜口麻美さん」


 浜口さんが名刺を手に進み出て、微笑んだ。


「どうも、生活情報紙『たかせっこ』編集部の浜口です」


 驚くほどのんびりした口調だった。見た目は凛とした美人なのに、声はほわんと可愛らしく、戸惑うほどギャップが激しい。

 名刺を差し出す手もほっそりとして綺麗だ。もう名刺はあるけど、とも言い出せず、「あ、どうも」と口ごもりながら受け取った。


「初めまして、甲斐憲史です。よろしくお願いします」


「じゃあ、早速ですけど打ち合わせしましょうか」


 俺たちはカウンターのそばにパイプ椅子を持ち寄り、腰を下ろした。


「まずはこれを」


 浜口さんがバッグから取り出したのは、広告掲載料金表と書かれたプリントだった。掲載スペースやサイズごとの料金が表になっている。ざっと目を走らせて、意外と値段が高いことに驚いた。数万は覚悟していたけれど、場所や大きさによっては数十万単位だ。


「すごいな、こんなにすると思わなかった。ちょっとしたレンズが買えちゃう値段ですね」


 思わず呟くと、浜口さんは「正直ですね」と、白い歯を見せて笑った。


「うちの情報紙は毎週木曜に無料配布されるんですけど、収入源はこの料金なんです。一面か中面か終面かでも料金は変わりますが、今回は中面でお願いしたいと考えてます」


 呑気な口調だが、テキパキとしている。


「商店街の店舗紹介ってことでお話をいただいたんですけど、広告ってなると料金が発生するんですよね。掲載料の他にうちで記事を書くと制作料金もかかるんです」


「はぁ」


 生返事の俺に、浜口さんは亮のほうをちらっと見て言う。


「亮君からの依頼ですからね、私も是非力になりたいと思ってます」


 彼女が『亮君』と呼んでいることに、思わず眉根を寄せてしまった。知り合いなんだろうか。そうでなかったら、ちょっと馴れ馴れしい。

 でも、亮は気を悪くした様子もなく、微笑んで「ありがとうございます」とお辞儀をした。人見知りはどこへやら、すっかり気を許した顔をしている。

 ずいぶん親しげだなと訝しんでいると、彼女が急に話をふってきた。


「それで、今日撮った写真ってどんな?」


 慌ててカメラを渡すと、データをチェックした浜口さんは「なるほど」と低く呟いた。こんな写真使えないと言われたらどうしようと身を縮める。

 彼女は俺たちの顔を交互に見てから、こう切り出した。


「提案なんですけど、うちから甲斐さんに連載を依頼するって形にすれば掲載料はいただかなくて済むかなって思うんです」


「へっ、そうなんですか?」


「ただし、あくまで広告ではない形をとらないといけないんですけどね。たとえば甲斐さんが写真館の三代目として写真撮影のコツを教えるコーナーとかどうかなって。一眼レフだけじゃなく、一般の人がスマートフォンやデジカメで撮影するときにも使えるような知恵をね」


「コツ?」


「そう。人物を撮るコツとか、屋外で撮るコツとかたくさんあるでしょう?」


「まぁ、そりゃあ」


「それで商店街の人を撮った写真を例として載せて、ついでに『今回被写体になってくれた方はこのお店のこんな方です』ってさりげなく紹介する形にするのはどうでしょう」


 なるほど、あくまで宣伝がメインではないけれど、結果的に宣伝になる形にすればいいってわけか。掲載料がかからないのは嬉しいが、問題は俺にその連載を書ける知識や技術があるかってことだ。

 不安が顔に出たらしく、浜口さんが励ますような口調で言った。


「気負わなくていいんですよ。たとえばこの写真でいえば構図の取り方を教えるとか、そんな感じでいいんです。今回は三店舗の紹介なので三回の連載になりますが、もしそれを見た他の店がうちもやりたいって言ってきたら、追加で書いてもいいかなって思うんです」


「はぁ」


「ちなみに、この写真の女性は、どこの店の方ですか?」


「本多精肉店です」


「セールスポイントは?」


「お店としては、新鮮なものを安心してお召し上がりいただけるようお届けしますってことを強調してくれれば、あとは任せるそうですよ」


 すると、浜口さんは少し険しい顔になって、考え込んでしまった。そして「もう一つ、これは私が特に提案したいことなんですけど」と、姿勢を正した。


「被写体を紹介するときに、ぜひ、商店街の人だけが知っていることを突っ込んで書いて欲しいんです」


「というと?」


「今までたくさんのお店を紹介してきましたけど、ほとんどの人が取り繕ったような宣伝文句ばかりなんです。でも、それを打破するような、思い切った記事を載せたいなって、ずっと思ってたんですよ。だって、面白みがないと心に残らないでしょう」


 思わず化粧をした洋子さんを思い出していた。そう言われると、やっぱり自分のミスが恨めしい。

 浜口さんに撮影の様子を話すと、彼女は「わかります、それ」と苦笑した。


「よくありますよ。取材に行ったら、いつもより着飾ってることなんて。でも、女性としてはよく思われたい気持ちもわかるし、カメラを扱う者としては甲斐さんの気持ちもわかります」


 そう言って、彼女は眼鏡の奥で目を細めた。


「今回はよそゆきの顔をした写真でも、その分、文章で差をつけてくれればいいと思います。ただ、できれば甲斐さんだからこそ知る顔を写して欲しいし、商店街を知らない人がこの写真の人に会いに行こうって思わせる情報をください」


「俺だからこそ?」


「そう。この商店街で生まれ育った甲斐さんだからこそ知っているものです。焦らず形にしていきましょう。いい記事を作りましょうね」


 そう言うと、彼女は「よし!」と膝を叩いた。


「それじゃ、打ち合わせはこれにておしまい」


 そう言った途端、腕と足を組み、背もたれに身を預けてリラックスした顔になった。


「亮君、面白くなりそうね」


「麻美さん、楽しんでるでしょう?」


「まぁね。だってどの広告も同じに見えて鬱憤たまっていたというか、マンネリ感じてたのよね。いつもは依頼主優先であれこれ提案なんてしないけど、今回はせっかくこうして打ち解けて話せる依頼主なんだから、ちょっと冒険したいじゃない」


「しょうがない人だなぁ」


 思わずぽかんと口が開いてしまった。人見知りの亮が、しかも女性相手に素の顔を見せている。それに、浜口さんもほわんとした口調はそのままなのに、率直な物言いになっていた。

 驚いた俺に気づいたらしく、亮がにっと笑った。


「麻美さんは、オケの仲間なんだ」


「じゃあ、前から知り合いなの?」


「おまけに高校の先輩だぞ」


「えっ、そうだったのか」


 浜口さんが白い歯を見せた。


「奥田君とは同時期に入団したのよね。もっとも、高校ではすれ違ってもいないけど」


「麻美さんは俺らより六つ上なんだ」


 ということは三十四らしい。


「浜口さんはオケで何を弾いてるんですか?」


「名前でいいわよ。苗字は堅苦しいし」


「あ、はい。じゃあ麻美さん、でいいですか?」


「うん。私はヴァイオリンを弾いてるの。実は奥田君のお父さんが私の最初の師匠だったのよ」


 思わず「あぁ、それでか」と声を上げてしまった。亮の亡くなった父親が書店を経営する傍ら、母屋で細々とヴァイオリンを教えていたのを思い出し、腑に落ちた。どおりで二人が親しげなわけだ。


「いつも亮君から君の話はよく聞いていたのよね。私も憲史君って呼んでいい?」


「あ、えぇ」


 この人懐こさなら、亮も打ち解けるわけだ。一人納得しながら、麻美さんとオケの話をし始めた亮を見やった。

 亮は表情が乏しいほうだと思う。よほど感情が動かされない限り、達観した顔をしているのだ。よく言えば冷静沈着で、悪く言えば可愛げがない。

 俺や英知のように付き合いが長いと、ちょっとした仕草で胸の内が読み取れるときがあるけれど、それでも何を考えているかわからないことが多かった。


 それなのに、麻美さんといるときの顔はすごく素直だ。彼女のテンポがいい話にいちいち反応し、よく笑っている。自分の死んだ父親を知る昔馴染みと話すのは、嬉しいものなのかもしれない。

 二十八年一緒にいても、知らない顔はあるってことだ。そう思った。

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