依頼
その夜、父親と亮は店を閉めてから連れ立って出かけて行った。
「急な集まりって、珍しくない?」
テレビを観ながら煎餅にかじりつく母親に話しかけると、「ああ」と、腑抜けた声で答えが返ってきた。
「どうせボヌールのことでワアワア言ってるんでしょ」
母親は「はぁ」と深いため息を漏らし、急須にお湯を入れた。
「スーパーができたときも対策をどうするって散々話し合ってさ、結局何もなし。なくなるときも、同じだろうにねぇ。今夜は遅くなるってさ」
「何かすればいいのに」
「何かって何よ?」
ふんと鼻で笑い、母親が言い捨てた。
「みんな守りに入っちゃってるからね。自分が生きている間、細々とでも店を開けていられればいい。そんな高齢の店主ばっかりだもの」
なんか嫌だな。そんな思いがこみ上げ、うつむいた。俺が嫌なのは、無気力な人々だったはずなのに、なぜか今こうしてそんな人々をけなす母親も嫌なのだった。
父親は亮のワゴンで送ってもらったらしい。時計の針が十一時を過ぎた頃、二人は疲れた顔をして戻ってきた。
「すまないな、先に休ませてくれ。ちょっと疲れた」
父親はそう言うと、さっさと自分の部屋にこもってしまった。母親が亮に優しく声をかける。
「亮ちゃん、送ってくれてありがとうね。晩御飯食べた?」
「いいえ、まだなんです」
「あら、やだ。じゃあ、お腹すいたでしょ。残り物だけど食べて行って」
「いやいや、もう遅いんで」
「平気よ、私も先に休ませてもらうから、食べ終わったらそのままにしておいてね。憲史、玄関の鍵、よろしくね」
「お、おう」
亮が食卓テーブルにつくと、母親は冷蔵庫からひじきの煮物や作り置きのマリネ、レンジで温めた生姜焼きとご飯を並べ、手際よく味噌汁を作った。ふわりと漂う味噌の匂いに、なんだか俺まで腹が減ってくる。
「おばさんの作った煮物、最高なんだよね」
「あらやだ、亮ちゃんってば。ビールもあるわよ」
亮はうちの母親の性格をよくわかっている。褒められれば褒められるだけ舞い上がるんだ。でも、「いただきます」と手を合わせて真っ先に煮物に箸を伸ばすところを見ると、お世辞というわけでもないらしい。
母親が自分の部屋に切り上げると、俺は亮の真向かいでビールを開けた。
「お疲れさん」
「おう、どうもな」
二人で軽く缶を鳴らした。喉が渇いていたのか、亮はものすごい勢いで喉を鳴らすと、顔をくしゃくしゃにして「かぁ、美味い」と声を漏らした。
「今日はボヌールのことで集まってたのか?」
「あぁ。撤退の話、聞いたの?」
「うん。吉川さんが言ってた。ますます人がいなくなるな」
「そうなんだ。この辺りに住む人には痛手だよ。特に車に乗れないお年寄りが増えてるから、そういう人たちは困ってるみたいだな」
「でも、この商店街にだって店はあるのに」
「確かに魚屋も肉屋もあるし、八百屋も日用雑貨を扱う薬局もある。でも、スーパーみたいな品揃えができるわけじゃない」
「そりゃ、そうだけど」
「客も少ないし場所もないから一気に仕入れて原価を安く抑える手が使えない。そうするとどうしても単価が上がる。で、売れない。返品不可の商品が日焼けして色あせていくだけ。そして店主はもっと臆病になって守りに入り、仕入れに慎重になって、原価は高いまま。その悪循環だなぁ」
「でも、何かしなくちゃならないだろ」
亮は生姜焼きの豚肉と玉ねぎを飲み込んでから言った。
「そうなんだ。とりあえずスーパーがなくなっても商店街があるって思ってもらえるようにしとこうって話になってだな」
「うん、それで?」
「それで、商店街の店を特集した記事を、地元のフリーペーパーに連載してもらったらどうだってことになって」
「うん」
「反応がよければ、商店街のガイドブックでも作って配布したりな」
「へぇ。一応、案は出たんだな」
「まぁな。でも、フリーペーパーに記事を載せるには、金がかかる」
「はあ」
「商店街の全部の店を出せるわけじゃないし、乗り気じゃない人もいる。なのに、それを組合員の会費で出すのもいかがなものかってなってな」
「どうすんの?」
「まずは希望者が自腹を切って、宣伝してみることになった」
「その希望者って?」
「発案者の肉屋の洋子さん、それに俺とお前の親父さん」
「希望者って、それだけ?」
味噌汁に浮いた油揚げを箸でつつき、亮が頷いた。
「年寄りが多いから、しょうがない。気力体力がないのさ」
「相変わらずだな」
「で、お前に話があるんだがな」
「うん?」
「写真を依頼するって言ってただろ? もともと、ガイドブックを作ったらどうだろうとは思ってたんだ。いい機会だから、お前に写真と記事に載せる文章をお願いしたくてな」
「文章も?」
「お前、作文得意だったじゃん。嫌なら俺が書くけど。フリーペーパーの担当者との打ち合わせも俺がするからさ」
「お前ね、小学校の作文と記事を一緒にするなよ。第一、俺は文才があるんじゃなくて、大人が望む文章ってこういうのなんだろうって勘がはたらく可愛げのないガキだっただけだ。そもそも、なんで俺なんだよ?」
「商店街に所縁のある人に頼みたいんだ。だけど、お前の親父さんは店があるからな。嫌か?」
「嫌じゃないけど、自信はない」
ビール缶にまとわりついた水滴をぬぐいながら、正直に言う。スタジオでプロとして働いていたといっても、俺の写真はまだまだ未熟だって、自分でもわかってる。美月さんや先輩カメラマンの写真を見るたびに、それは痛感していたんだから。
そんな俺に、亮は笑って言った。
「お前に自信はなくていい。その代わり、俺がお前を推薦した自分に自信を持ってるから」
「なんだ、そりゃ。意味がわからないよ」
「だから、お前はいい写真を撮る。俺はそれを知ってるってことだよ。引き受けてくれるか?」
断れはしない。だって、俺も母親に似て、褒められるとすぐ舞い上がっちゃうんだから。
「わかった。やってみるよ」
「ありがとう」
そう言って笑った亮の顔に『しめしめ』って書いてあった気がしたけれど、気付かない振りをした。
翌日、俺は真っ先に本多精肉店に出向いた。まず、どんな写真を撮りたいか話し合おうと思ったのだ。
洋子さんは六十という年齢を感じさせない、しゃきっとした立ち姿だった。顔はスッピンでも、服の趣味は派手だ。肉の並んだガラスケース越しにはカラフルなTシャツとエプロンしか見えないが、その下はヒョウ柄のスパッツだったりする。
「憲ちゃん、おはようさん」
「おはようございます。洋子さん、写真のことで少しお話していいですか?」
「あぁ。こっちにどうぞ」
店の奥にある休憩室に通され、パイプ椅子をすすめられた。
「商店街の宣伝の話っしょ?」
洋子さんは俺の真向かいに座ると、テーブルの上に出しっぱなしになっていた煙草に手を伸ばした。今日のスパッツはゼブラ柄だった。
「はい。どういう写真にしたらいいかなって思って」
「記念に残るのがいいなぁ」
「えぇ?」
思わず目を丸くした。
「記念って、宣伝が?」
「うん。あのね、一応私も役員じゃない?」
「あ、はい」
「でも、私の役職の理事って、正直なところ、問題さえなければ、あんまり仕事ないのね。でも、ボヌールがなくなるってときに何もしないわけにいかないし」
それじゃ示しがつかないんで、形だけでも提案してみたというわけか。そう合点がいった俺に、洋子さんが照れたように笑う。
「それに、うちの孫に見て欲しくてさ」
「孫? あれ、洋子さんってお孫さんいました?」
「うん。三歳の男の子。そうか、憲ちゃんは知らなかったか」
俺が東京に行っている間に生まれたらしい。洋子さんの自宅はここから車で十五分ほどの住宅街にあるから、見たことがないのも道理だ。
「今まではさ、宣伝なんかしてもどうにもならないって思ってたのね」
「はぁ」
「でもさ、いつ店がダメになっても、記事を見れば『あぁ、おばあちゃんはこんな仕事してたんだ』って思い出してもらえるじゃない?」
「それで記念に残る写真ですか」
「そう」
「店がダメになっても、なんて考えないで済むための宣伝じゃないですか。頑張りましょうよ」
しかし、洋子さんはちょっと眉を下げ、珍しく弱気な調子で言った。
「あのボヌールでさえ潰れるのに、うちみたいな小さい肉屋が残れるのかって思うとね、自信なくなるって」
思うことは一緒だ。多分、俺が不安になったように、いや、俺なんかよりもっと、商店街の人々のほうが不安なのだろう。
「とりあえず、何枚か写真を撮ってみましょうか。早速、明日にでも」
「いいよ。どんな写真にするの?」
「そうですねぇ、店の前で店員が並んでる写真も親しみやすくていいけど、まずは店頭での洋子さんの写真を撮らせてほしいかな」
「了解よ」
「じゃ、今日はこれで」
立ち上がって、ふと思い出す。
「洋子さん、メンチカツ五個、持ち帰りでお願いしていい?」
「あれ、そんな気を遣わなくても」
「いやいや、そういうんじゃなくて。だって、いい匂いしてんだもん」
辺りに充満する揚げたての匂いに食欲が逆らえない。
明日は店が落ち着く午後二時に撮影することになり、俺は熱々のメンチカツを持って帰路についた。
帰り道、精肉店を振り返ると、洋子さんと常連が店頭で笑いあっているのが聞こえた。
記念に残る宣伝って、何も意見を出さない組合員よりも、ある意味ではもっと後ろ向きな気がする。そう思ったけれど、彼女を責める気にはなれなかった。
だって、どうすればこれ以上客を減らさなくてすむか、何をすれば昔の賑わいが戻って来るのか、俺にだって皆目見当もつかなかった。そして、うっすらと、いつかみんな店をたたんでしまう日がくるんだっていう諦めが生まれていたからだ。
足取り重く歩いていると、携帯電話のバイブが鳴った。
こういうとき、心のどこかでまだ『美月さんかな』と期待してしまう自分がいる。けれど、さすがに最近では、違う人からの連絡でもそれほどガッカリしなくなってきた。
画面に表示された名前はやっぱり美月さんではなく、英知だった。
昼前になると、俺は亮の弁当を手に、奥田書店に向かった。
母親は俺が買ってきたメンチカツを見るなり、二個を抜き取った。本日の亮の昼飯は洋子さんのメンチカツを挟んだサンドイッチになったらしい。
「よう、弁当だぞ」
「どうもな」
亮は弁当をのぞき込んで「おおう」と目を輝かせている。
「洋子さんのところには、明日撮影に行ってみるよ。とりあえず、夕方には見せにくるから」
「おう、楽しみにしてる」
「じゃあな」
「もう行くのか。もうそろそろ里緒さん来るぞ」
「いや、別に待ってまで会わなくても」
「そうか?」
「お前、なんでそんなに彼女が俺の好みだと思うの?」
「だって、そうだろ?」
「うん、まぁ、可愛いとは思うけど、舞い上がるほどでもない」
子どもがいるというのも、正直言って踏み込むには勇気がいるし、それを抜きにしても、一緒にいるとほんわかするが燃えはしないのは確かだった。
「まぁ、いいや。俺、これから英知の店に行かないと」
「こんな時間から飲みに行くのか?」
「違うよ、衣装合わせと飯食いに行ってくる」
さっきの電話は、バーテンダーの衣装のサイズを確認しに店に来てくれというものだった。そのあとで一緒に昼飯でも、という話になっていた。
「そうか」
亮はふと、顔を上げた。
「なぁ、英知に美月さんの話をあまりするなよ」
「なんだよ、いきなり」
「というより、恋愛の話っていうべきかな。実はちょっと前から思ってたんだけど、あいつ、その手の話が苦手そうだから」
「そうなの?」
「昔からそういう話、俺たちにもしたことがないだろ」
「確かに。でも、それはお前もだろ」
「俺はいちいち話すのが面倒なだけ」
そう言いながら、顔が赤くなっている。柄にもなく単にシャイなんだな。
「でもさ、あいつ、誰と付き合っても、その報告すらしなかっただろ。多分、俺より苦手だと思うからさ」
確かに、女と連れ立って歩いているのを見てからかっても、英知は黙って笑っているだけだった。
「わかったよ」
「お前はすぐのろけるからな」
「今はのろけないぞ」
「わからんぞ、そのうち懲りずにのろけるかもしれない」
どうも、亮は俺が里緒さんに惚れると睨んでいるらしい。
一体、亮は俺の好みはどんなんだと思っているのだろう。なんだか訊くのも面倒になって、肩をすくめて店を出た。
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