第9話 ⚪坂道で林檎落として恋の予感

⚪坂道で林檎落として恋の予感


【中尾徹】二週間と三日後(マリアビートル)


「不貞腐れても、仕方ないでしょ?」

 東京から来ている研究員の大原美憂が窓の外ばかり見詰めているので、中尾はカーステレオのボリュームを下げてから訊いた。窓の外の景色は味気ない海岸線の繰り返しで、感慨深いなんてことは無い筈だった。

「仕方ない?」

 尖った声で、美憂が答える。中尾は左手で後頭部を掻きながら押し黙る。元々、美憂を設備の整った大学病院に送り届ける役割は上司の川副の筈だった。だが、川副は昨夜から連絡が取れなくなっている。社内では、既に川副ピンキー説が流れている。だが、中尾は二日前の大量失踪事件に川副は巻き込まれていなかったのだからその可能性は低いと考えていた。

「あの時、帰るべきだった」

 暫く続いていた沈黙を、美憂が窓の外の気色を眺めたまま破る。

「あの時?」

「二週間前の、あの日以外にないでしょ? 私が‥」

「俺達は……俺達は、大原さんのお陰で助かった。大原さんが教えてくれなかったら」

 再度尖りかけた声に被せるように中尾が言葉を発する。

「私は、別に何も……」

 そう言って押し黙る美憂を、視界の端に捕らえたまま長く続く海岸沿いの真っ直ぐな道を見据える中尾。騒動初日に続く二日前の大量失踪。美憂は、その数日前からその事を予見していた。正確には中尾自身も夢と云う形で知っていたのだが、それは剰りに漠然とした情報でしか無く。美憂が説いた新薬の話が無ければ想像を絶する被害者が出ていたに違いない。

「いや。大原さんの助言のお陰で、俺は生きてる。俺の好きな小説の中に『世の中には、正しいとされていることは存在しているけど、それが本当に正しいかどうかは分からない。だから、『これが正しいことだよ』と思わせる人が一番強い』って行があるんだ。そして、二週間前の大原さんが、正にそれなんだ」

「それって……」

「本当は川副さんに、読め読めって言われた本なんだけどね。って、普通の上司なら自己啓発本の類いや、ハウツー物を読めって言うんだろうけど……川副さん、変わってるから。いや、あれは殆んど変態の類いだな」

 言葉に詰まり、考え込む様子の美憂を気遣いながら中尾が漏らす。

「違うの……私も知人に小説を読むように強く勧められて……」

「似てるね。好きなものに夢中になってる人は、社会的地位やパワーバランスを使ってでも共感が欲しいみたいだな」

 言って中尾が見詰める岬の先にある大学病院の巨大な白い壁が朧気に見える。

「あそこが、大学病院」

 中指差すそれを見詰めて美憂が上の空に頷く。中尾は「見える?」と再度訊いて美憂の横顔を見詰めた。決して女優のような端正な顔立ちではないが、真っ直ぐに生きてきた事を証明するような凛とした表情に吸い込まれる。

「私が……正しいのか間違っているのか……調べてみれば答えは出る」

 血を吐くように苦しみながら呟く美憂を見詰めて、中尾は現実感の無い切なさにハンドルを握り締めた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る