第3話 ⚪好きの反対は嫌いではない

● 好きの反対は嫌いではない

【中尾徹】一か月と六日前


 取引先の近所に新しく出来た定食屋で、上司の川副忠がカツ丼をご飯とカツのセパレートで注文している。毎度の事なので分かってはいるが面倒臭い。店員も次回来店の時には良い顔をしないだろう。中尾徹は諦めに似たタメ息を吐いてから呟いた。

「カツとご飯を分けるなら、初めからカツ丼とか選ばない方が良くないですか?」

 中尾の問いに、いまだメニューを睨み付けている川副が視線の先にある柔らかそうな玉子で閉じられたカツの写真を指し示す。

 「あのね、嫌いなら頼まないのよ。好きだからこそ注文してるの。ただ、俺は汁の混ざった白飯をグチャグチャと撹拌しながら食べるのが苦手なの」

 指先で数回押し付けたカツ丼の写真が店の照明によって薄く光る。中尾は、差し出されたその写真を眺めたまま続けた。

「何でも、口に入れてしまえば同じですよ」

 中尾の言葉に頭を振る川副。割り箸をテーブルの上のケースから取り出し指し棒のように中尾に向ける。

「分かってないな。『『正解がはっきりしなくて、重要な問題』ほど、人は他人の答えを真似する』つまり、自分らしさを追究するならカツと、白飯は分けて食べるべきなんだ」

「それ、伊坂孝太郎のマリアビートルですよね。読みました。でも、こんな場面で使う台詞じゃないですよね。全然読めてないじゃないですか」 

「おっ! 中尾に小説の事でディスられるとはな」

 中尾は両手を目の前で広げて『分からない』とジェスチャーする。そもそも、川副の小説感は他者とは少しズレていると感じる。川副には物語の牽引力よりも一つ一つの言葉の選択や接続が気になるらしい。だから、言葉のリズムの話を事ある毎に持ち出す。確かに小説好きの人間の思考ならそれもアリなのかも知れないと思う。だが、それにしても、面倒臭い。物事全てを湾曲した見方でしか捉えることの出来ない人種。やっぱり、面倒臭い。

「そう言えば、川副さん。小説は? 書いてるんですか? 芥川賞を獲るって鼻息を荒くしてたのが僕が入社した年だから、もう三年経ちますけど」

 やっと出てきた熱めのお茶が注がれた湯呑みの上部を吹いてから話の水を変える。川副と既存作品の批評で同意見になる筈もない。ただ、湯呑みから立ち上る湯気にもならない熱気と同じで吹き飛ばしてしまえば口触りを害することはない。中尾は、然も興味深そうに川副の目を覗き込む。

「書いてるよ。でも、俺の小説は超絶に長篇なのよ。なにせ、毎夜の夢がアイデアの根元だから尽きることもない」

 嬉々として答える川副は自分のアイデアこそが世界を変えると考えているかのように定食屋の油にまみれた天井を感慨深げに見上げる。その光景に中尾は吹き出したくなるのを必死に堪えた。努力や才能無くして作家などと言う特別な存在になれる筈もない。夢を書き綴るだけでベストセラーが生まれるなら自分はアメリカの大統領にさえなれる。そんな感情が溢れでないように注意しながら言葉を選ぶ。

「そして、書き終わることもない」

 納得したように中尾が呟くと、それに深く頷いてから川副は答えた。

「そうだ。芥川賞なんて大したことない。今狙ってるのは…」 

 言って、川副が中尾を見詰める。真っ直ぐに見据える黒い瞳を見返しながら中尾はその部分から昨夜の夢で見た軽薄なピンク色の液体が溢れ出ててくるような気がした。恐怖も興奮もない平坦な夢だった。体液なのか他の液体なのか判別出来ないピンクの液体が身体の至るところから噴き出す。ただ、それだけの夢。中尾は奇妙な感覚を取り戻したまま続ける。

「聖書に替わる発行部数の物語でしょ? 漫画でありますよ、聖書のその行」

「あっ! お前な、上司の話を折るのは出世に影響するぞ? ここは知ってても知らない振りをだな…」

「気を付けます! それより夢の物語が川副さんの小説の軸になってるなら昨夜見た僕の夢も役に立つかも知れませんよ?」

 身体の中を、奇妙な浮遊感が駆け巡っている。現実味の無い焦燥感に背中を押されるように、中尾は昨夜の夢の話を持ち出した。

「カツ丼が出てくるまでだぞ。聞いてやるから話してみろ」

 川副が握り締めていた割り箸を割ってから答えた。


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