伊坂孝太郎が好き
@carifa
第1話 ⚪人生は時に小説よりも面白い
【新澤圭吾】三か月前
九州の某市街地中心部に建つ古くも新しくもない十二階建のビルの霞んだ茶色のタイルが、鈍く遠慮がちに昼間の陽光を跳ね返していた。そのビルの八階、エレベータから降りて一番奥の部屋に嘲るような声が静かに染み渡っていた。
「あのね……ウチは、そういうのやってないのよ。それに、普通の人が書いた私小説なんて誰が読むの?」
黒いアームカバーを右手だけに着けた初老の男が金縁の眼鏡を指先で押し上げながら言った。いんげん豆のような丸く細長い顔の中心で、クチッと僅かに眼鏡が軋んで無機質な音を発する。予想はしていたが、地方紙の編集部長など程度が知れている。新澤圭吾はたタメ息に似た浅い深呼吸をしてから一気に捲し立てた。
「もう古い映画になりますが、伊坂孝太郎原作の陽気なギャングが地球を回すは、ご覧になりましたか? あの映画の中で『昨夜のアナタの夢が、目が覚めた瞬間に違う誰かの夢と成り、世界中で今この瞬間も繋がっている』と主演の俳優が演説しています。正に、僕の書いたこの物語がそれで、夢で世界を繋ぐ男の話なんです。そして、その男が僕なんです。つまり、僕の書いたこの話が夢の中では既に世界中で配信されてる。宣伝も何もしていないのにありとあらゆる人種や国境も宗教すら越えて人々の頭の中に既にあるのです。分かります? それが、どんなことなのか?」
地方グルメ雑誌のゲラが積み上げられた事務机に両手を着いて身を乗り出す新澤に、気圧されて仰け反るように椅子の背もたれに身体を預ける編集部長。
「と、とりあえず。一度、読んでみますから」
言って原稿が入った茶封筒を引き寄せる編集部長の手を取り、新澤がもう一度挑むようにその瞳を覗き込む。
「これは、絶対に世に出すべき作品なんです」
金縁眼鏡の中に反射する自分の顔を眺めながら更に念を押す。
「世界中で、ベストセラーになります」
言った瞬間に両腕を掴まれて新澤は左右にゆっくりと顔を振った。一見して警備員と分かる服に身を包んだ逞しい体躯の二人組の男に挟まれて、両脇から押さえ込まれるように圧力を掛けられている。新澤は腕を抱え込まれている不快な体制を直したくて身体を動かした。
「騒動は困ります。許可なく面談は出来ないんですよ。とりあえず警備室に来て下さい。私達が先ずは話を聞きますから」
言いながら圧力を強める警備員の緊張した表情に新澤は諦めるように呟いた。
「あまり、時間は残されて無い筈なんですよね……」
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