美しい彼。

@itigobouya

第1話

 少し肌寒い雨の降る日だった。梅雨の時期に入り空気がしっとりと濡れはじめ、鮮やかな紫色を見せる紫陽花の葉に雨の滴が落ちる。ぽとん、ぽとんと葉は滴で揺れる。傘をさしゆっくりと歩きながら、彼は道を歩いていた。雨だからか町に人気はなく、雨の音だけが静かに町に響いていた。

 彼はゆっくりとした足取りである一軒家に訪れた。瓦屋根の、一人で住むには少し十分すぎる広さの家に住む一人の男に会うために。ドアの前で傘を閉じ、傘を揺らしてぱらぱらと雨の滴を払う。引き戸の玄関扉を開け、そっと中に足を踏み入れた。

「せんせい」

 彼の小さな声はその家の空気にするりと溶け込み、静寂と化した。すぅ、と息を吸い込み、もう一度口を開く。

「せんせい」

 先ほどより少し大きなその声は、固まり切っていたその家の空気を少し和らげた。そして遠くのほうで、ごと、と音がした。ごと、どどーん、どど、ごと、ごと、ごと。騒がしい音が家中に響き渡り、彼は楽しそうに笑う。寝起きの頭をがしがしと掻きながら先生はよろよろと姿を現した。

「せんせい、こんにちは」

 少し微笑みながら彼は言い、そして、ぽろりと涙を流した。


「外、寒かったろ。牛乳飲む?」

 寝間着姿のまま冷蔵庫から牛乳を取り出し、先生は二人分のコップに牛乳を注ぎだす。とぽぽぽ、と心地よいその音に彼は少し泣き止んだ。

 先生は二つのコップを持ち、一つは電子レンジに入れてボタンを押し、一つは自分の片手に持ったまま、居間で三角座りをして泣きべそをかく彼の前に座った。ふぅ、と少し息を吐いて、ぐいっと片手に持っていた牛乳を一気飲みする。ごく、ごくと上下に動く先生の喉仏をちらりと見ながら、彼は自分の手で目元を拭った。濡れていた。ちん、と軽快な音をたてて電子レンジが動きを止める。先生は立ち上がり、飲み干したコップを洗うことなく流し台に置き、温まった牛乳を電子レンジから取り出した。あち、あちと言いながら傍にあった布巾でコップを包む。

「熱いから気をつけろよ」

 渡されたコップは布巾の上からでもじんわりと温かかった。ほわほわとした温かくて柔らかい湯気は、涙で濡れた彼の頬をそっと温めた。 

 こくん、と一口彼は牛乳を飲んだ。はぁ、と小さく息を吐き、こくん、こくんと続けて牛乳を飲んだ。ぱ、とコップを口から離し先生を見る。白いのついてんぞと先生が少し笑ったのを見て、彼も小さく笑って、口を拭った。

「せんせい」

 うっすらと白い髭を生やしたまま、彼は先生の目を見つめる。

「また、はえたよ」

 彼はそう言ってコップを床に置く。そして着ているシャツをおもむろに捲って、自身の体を見せた。まだ若々しさが見て取れるほど滑らかな肌のその体に、ぽつんと、小さな花が咲いていた。




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