第15話 時効の約束。










暗闇の中に一筋の光が差し込んできた。何故か光の差し方に違和感を覚えたが、私は特に気にすることも無く、動かすことすら久々なために重くなっていた瞼を持ち上げた。


目を覚ましたわたしが最初に見たのは真っ白な天井。

何故かいつもの3分の2しか見えない視界で辺りを見渡すとまるで私を囲むようにして天井に付けられているレールとそのレールに書けられた白いカーテンがあった。


それだけ見てもここが病院のベッドの上だと分かる。


違和感が消えない視界を彷徨わせ、わたしはわたしのお腹の辺りに頭を置き、蹲るようにして寝ている女性を見つけた。


淡く綺麗な茶色の長い髪をベッドに投げ出し、スースーと寝息を立てて気持ちよさそうに寝ている女性。


わたしは女性の綺麗な髪を触ってみたくて体を起こそうと動く。

女性の頭があり、足が動かせないからと上半身から起き上がろうと体に力を入れた時だ。

女性が目を覚ましてしまった。



女性は起き上がろうとしたまま動きを止めたわたしを見て目を潤ませた。

次第に頬を伝う涙が量を増し、女性は「良かった、良かった」と口にしながら嗚咽をこぼす。



状況が全く掴めなかった。


わたしはこの女性と今日初めてあったはずなのだ。

こんな綺麗な人が傍にいたなら絶対に忘れないと思う。



女性は泣きながらわたしの見えない視界に手を伸ばした。

優しい手触りだった。か細くてしなやかな指で撫でてくれているのが分かる。

なんだかこの手に撫でられていると落ち着く気がした。


その手は段々わたしの背中に流れ、女性はそのままわたしを抱きしめた。

少し戸惑ったけど、なんだかこの温かさを知っている気がして、すぐに受け入れてしまう。


気づけばわたしも女性を抱きしめていた。


女性は悔しそうに悲しそうに辛そうに申し訳なさそうに泣きながらわたしを抱く。

不思議で仕方がなかった。


この女性は何故わたしを強く抱きしめながらそんなに涙を流すのだろうか。



何となくわかったのは、その涙が悲しみだけのものではなく喜びの感情を孕んだ涙だということだけだった。












彼方の入学式の日。

明らかに様子がおかしい彼方を見て心配になった。


いつもは塗らないファンデーションを目の下にべったり塗りつけていたり、いつもはゆっくりと味わいながら食べる朝ご飯を無理矢理駆け込むようにして食べて、不自然なくらいに早く家を出て行った。


あの子の場合、少しの違和感も見逃すべきじゃないのよね。



私は大和くんに電話して「彼方を気にかけてあげてね」とだけ伝えると、急いで式に向かう準備をした。


しばらくして大和くんから「彼方と合流した」というメールと「彼方が恥ずかしがって今日の入学式は来て欲しくないって言ってるから……」というメールが来た。


成長した彼方のことちゃんと見てあげたかったんだけどな……。

とても残念……。


何が残念かというと、彼方が未だに私に心を許してくれないことがです。



悔しかった私は大和くんに「分かりました」とメールを入れた後すぐに準備をして家を飛び出した。


こっそりと入学式を覗くためだ。


大和くんにああ言ってメールしておけばきっと彼方は私が来ないと思って安心しますよね。


母として娘の晴れ舞台を見てあげないとね……。



時間になり、体育館に来た私は保護者用の席に着いて新入生が入場してくるのを今か今かと待っていた。


そんな時に私が働く病院から電話が来た。

慌てて携帯電話を手に体育館から出る。

電話に出てみて要件を聞いた。

どうやらいつも私が担当している患者さんが精神的苦痛を訴えて病院にやってきたらしい。

可能なら早く病院に来て欲しいとの事だった。


先生…、今日はダメなんです。今日だけは……。

あー、どうしよう。

もうすぐ始まるのに……


「今から娘の入学式が始まるので午後でもいいですか?」

「え?ダメ……?はい、じゃあ今からそちらに行きます……」



結局私は彼方の入学式に立ち会うことが出来なかった。


慌てて車を走らせて病院に着くと「来るのが遅い!」と患者さんに怒られてしまった。

私は患者さんに謝って、診察をした。



診察が終わって時間を確認しようと携帯電話を見てみると10件を超える着信通知が届いていた。

それも全部彼方が今日入学する高校からだ。



私は焦って急いで掛け直した。



電話の内容があまりに辛くて衝撃的で思わず携帯電話を落としてしまった。


その場で落とした携帯電話を拾うより先に私は慌てて車に乗り込み、電話の相手から教えてもらった病院へ向かった。



医師に案内されて手術中のランプが光る手術室の前に来た。

医師はこうなってしまった時の話を簡単にしてくれた。


覚束無い足取りのまま非常階段を降りようとして足を踏み外し、左目から前頭部にかけてを強く打ったらしい。


もしかしたらこのまま左目は見えなくなるかもしれない。

また、これだとしばらく意識も戻らないだろうとのことだった。



私達も全力を尽くしていますが、これは最悪の場合を考えないとダメかもしれません。



そんな酷な診断だった。



もう何もかもが終わってしまったかに思えてならなかった。

私は『また』娘を亡くすのだろうか。




愛が事故に遭った時もこうだった。


あの日は雨が降っていて車の通りも多かったと思う。

当時小学生で誰にでも優しく、どんな人にでも手を差し伸べられる愛は私の自慢の娘だった。


その日は愛と一緒に買い物に出掛けていた。

晩御飯のための食材やその他にも必要なものを買い揃えて愛と一緒に帰っている時のことだった。



目の見えないのだろうか。

白い杖を着いた一人のおばあちゃんが赤信号の横断歩道を渡ろうとしていた。

それに気づいた愛が買い物袋を投げ出して一目散に走っていった。


赤信号の横断歩道を渡るおばあちゃんを助けようと道路に飛び出た。おばあちゃんに追いついて焦りながら、でもゆっくりと彼女と一緒に横断歩道を渡っていた時だった。


猛スピードでトラックが突っ込んできた。トラックの運転手は携帯電話を弄りながら運転をしていて横断歩道を渡る二人に気が付かなかった。


愛は一緒に轢かれそうだったおばあちゃんを突き飛ばし、彼女が路側帯に辿り着いたのを見て安心したような笑顔を私に見せた直後、トラックに撥ねられた。


トラックは何事も無かったかのように平気で走り去っていった。




道路に飛び散った血と、数メートル先まで飛ばされた愛の体を見て何を思ったのか。


ただ、目の前で娘を撥ね、轢き殺し他にも関わらず何も無かったかのように平気で走り去ったあのトラックの運転手は許せなかった。



怒りを覚えながら私は瀕死の愛に付き添う形で救急車に乗った。


でも、ダメだった。



病院に着いた時には息はなかった。




それから数日は誰とも会わず、何も口にすることなくただただ自分を責めるだけの日々だった。


しばらくの間はあの光景が頭に焼き付いて離れなかった。





その運転手が彼方の実父である誠だったことを清香に知らされたのは彼が警察に捕まってからだった。

誠にとって菜穂香さんを殺めたことも、愛を轢き殺したことも全て彼方を自分の都合のいい道具にするためだったらしい。


その後で私は清香さんや大翔くん剛くんに協力して誠を極刑まで追い込むことが出来た。






今でも時折思い出してしまう光景だ。


どうしてもその時の光景と今の彼方の状態を重ねてしまう。


もうあんなのは見たくない。



そう思った時に気づいてしまった。


もしかしたらこれは今まで私がしてきたことの罰なのかもしれない。

今だけじゃない。

私はずっと彼方に愛を重ねていた。

無意識に彼方を愛の代わりにしていた自分がいた。

その罰。


ごめんなさい、彼方。

今になって気づくなんて本当に母親失格ですよね……



手術中のランプが消え、手術室の扉が開き、出頭医が出てきた。

一応、出血も収まって傷も塞いでくれたそうだ。


ただ、先の医師が言っていたのと同じように左目が機能しなくなるおそれがあると告げた。



彼方は入院することになり、私は家に一人になった。


その日の夜、奏ちゃんと大和くんが家を訪ねてきた。

今日、朝から入学式が始まる前にあったことを話してくれた。



次の日に病院を訪れたけど、彼方は目を覚ましていなかった。


昨日、あの子達から話を聞いてからはずっと彼方への不満ばかりが頭を過ぎる。

我慢出来なくなって彼方に寄り添いながら不満をぶつけた。


「目の下にクマを作るほどに眠れないならなんで相談してくれないの。昨日の朝、体調が悪いなんて一言も言ってくれなかったじゃない。無理してご飯食べてくれたって嬉しくなんてないよ」


「だいたいなんで貴女が怒るんですか……

別にあの人のことは私の問題だし、貴女が気にすることじゃ……。

そもそもあの人とは…そんなんじゃないんですよ……」



でも、私のために怒ってくれたんですよね……

ありがとう……彼方、結以。


目を覚まさないまま眠り続ける愛娘を褒めてあげながら顔をぐしゃぐしゃにして大泣きした。



大泣きしている時、彼方の病室を一人の少女が訪ねてきた。

髪や瞳の色。それからあの人にそっくりの顔立ちを見てすぐに分かった。


「貴女が舞以ちゃん?」

「……はい。綾辻舞以です」


この子があの人の娘。

ある意味私とあの人が別れる原因にもなった子。


「あの、本当にごめんなさい。私、勘違いしちゃって彼方さんを怒らせてしまったんです。

そのせいでこんなことに……」

舞以は思いつめた顔で言った。

彼方がこうなってしまったことに責任を感じているのだろうか。


「ねえ、舞以ちゃん。ちょっと外で散歩しませんか?」


そう声をかけて彼女を外に連れ出した。



「彼方も貴女も誤解してると思うから話しておかなきゃいけないと思うんですよ」

「え、あの。……何をですか?」

突然話を振られた彼女は戸惑いつつ聞いてきた。


これはこの子には知ってもらわないといけない話だと思う。

「私とあの人……貴女のお父さんのことですよ?」

「え?」

「私、別に今でもあの人のこと嫌ってなんていませんよ。寧ろ好きなままなんです」

「ええ!?」

「ただ、たまたま貴女のお母さんがあの人のことを好きになってしまって…

私はただ、旦那を奪われただけなんです。あの人は何も悪くないんです」









私が高校を卒業してすぐの時だった。

夜、仕事帰りにコンビニに寄った時の事だ。


素行の悪い人達に絡まれた。


コンビニで男達に無理矢理車に乗せられた私は人目のない山奥へと連れてこられた。

男は私の腕を縄で縛ると私の服を脱がせた。


私は抵抗したものの力不足で良いようにされ、遂に男達が本番を望んできた時だった。

一人の若い警官が男達をぼこぼこにして、私を助けてくれた。


その時の若い警官こそ、綾辻悠真だった。

その時から私は彼のことを好きになっていたんだと思う。


後日、被害届を提出する必要があったため交番を訪れると彼がいた。

勢いで連絡先を聞いて連絡を取り合うようになり、互いに深い関係になっていった。


彼と籍を入れ、『赤安由紀菜』になった私は幸せな日々を過ごしていた。


けれどそれも長くは続かなかった。


私と彼が籍を入れて半年も経たないうちに悠真の許嫁を自称するどこぞのお嬢様が現れた。

彼女の名前は綾辻美帆。


悠真も実は綾辻家と繋がりがある家柄のお坊ちゃんだったみたいで私の立ち入る隙は無かった。


美帆は無理矢理私と悠真を離籍させ、悠真と結婚した。



私が菜穂香さんの執刀医になって、楓さんのお腹の中で彼方がすくすく育っていた頃。

私は愛を出産した。


悠真と二人で大喜びしたのを覚えている。

そしてその数ヵ月後には悠真と美帆の子どもが生まれた。



元々正義感が強かった悠真は同時期に別の女の人で子どもを作ってしまったことに罪悪感を覚えたらしい。


悠真は美帆に離婚届を渡した。

美帆は子どもを捨てて他の男のところへ逃げた。


悠真は罪悪感も相まって警官を辞めた。



その後悠真は私に「15年だけ待ってて欲しい」とそう言い残して娘を連れてどこかへ行った。








「だからね、あのことに関して悪いのは全てあのお嬢様なの。彼方も舞以ちゃんも誰も悪くないんですよ」


「あれ、じゃあなんで私の苗字は『綾辻』のままなんですか?」

「あの人は自分の犯した過ちを忘れないためだって言ってたけど……」

実の所は私もよくは知らない。

だってあの日以来会ってないんですから。

「とにかく!この件に関しては貴女が気に病む必要はないんですよ…!」



「もし、どうしても自分が許せないっていうなら……彼方が起きた後で一緒に謝りましょうね」

「……はい」





「あの、じゃあ今日は貴女達の家にお邪魔してもいいですか?」

「……え?」

「急ですみません。昨日、一人でいるとダメなことばっかり考えちゃってダメだなって思ったんです。だから私を一人にしないで下さい。お願いします……」

「……あ、私は構わないんですけど、父がなんていうか…」

「もう15年経ってますけど、一向に来てくれないんですよね……」


「あ、じゃあもうとりあえず来てください」

「じゃあ途中にあるお店でお酒買います」

「え、なんか意外です。

「家に居ると彼方がいたので飲めなかったんですよ。かと言って一人で飲むのは……」

「あ、なるほどです。わかりました行きましょう」



舞以ちゃんに先導されて綾辻家に向かう。


あー、あの人と会うのが久しぶりすぎてどんな顔をして会えばいいか分からない……。そう言えば病室で泣いたまま出てきちゃったから涙のあと残ってる……。


でも今日こそ15年間の答えを聞かなきゃね。




「お父さんただいま、お客さん連れてきた」

「おお、おかえ……」

悠真は私に気づいた瞬間唖然としたまま固まった。

なんで私の顔を見た瞬間に固まるんですか。失礼な。


「お邪魔しますね、悠真さん」

私は丁寧に挨拶をした。

けど彼の態度は依然私を怖がるような顔のまま。


「ずいぶんと久しぶりに会いましたね?元気でしたか?」

私は皮肉げに『会いたかった』と伝えてみた。

「お、おう。元気だったぞ…」


皮肉が伝わらなかった。


あ、爆弾投下するの忘れてましたね。

「悠真さん、私今日ここに泊まることにしましたから」


「……は?

はああああああああああああああ……!?!?」



家中に響き渡るような声で『どうしてそうなった』と訴えかけてくる悠真。



流石に冗談はここまでにして、きちんと頼み込む。

今一人でいるのが辛いこと。

目を覚まさない娘のことで不安で仕方ないこと。


事情を説明すると悠真も申し訳なさそうな顔をして了承してくれた。


「あ、娘って違うからね。今言ったのは私の養娘の事だから」

「は?養娘?じゃあ俺とお前の本当の子は?」


「殺された」


「……あ?誰にだよ…」

怒ると口調が変わるのも相変わらずだなあ……


でもまたこの話をするのか……。

今はちょっとキツい……。


「ごめん、お酒飲みながら話さない?この話結構辛い話だから…ね?」

「ああ、分かった」


私はお酒を飲みながら悠真さんと離れてからの15年間の話をたくさんした。

もちろん、彼方の事だって話したし、愛のことだってもちろん……。



「ねえ、もう15年経ってるんだよ。15年待ったらなにかしてくれるんじゃなかったの?」


酔っ払った私は痺れを切らしたように15年の意味を問うた。

たくさんの事を経験しながらも心の片隅で待ち続けていたのだ。


「ああ、あの時は『時効が来たら再婚しよう』って思ってたさ。家族四人で幸せになれたらいいなって思ってた。だけど、まさかそんな事になってるなんて思ってもなかったから…」


「家族四人……」


悠真がいう家族四人とは私・悠真・舞以・愛の四人なんだろう。

確かにそれは叶わない。

でも……!


「彼方がいるでしょ!あの子だって私の娘よ!」

「それをその子が望んでいるかどうか分かんないだろ。だいたい、彼方って子を愛ちゃんの代わりにしてたこと、後悔してたんじゃないのかよ。それじゃ一緒じゃねぇか……」



悠真にそう言われてハッとすると共に馬鹿で分からずやな自分に呆れてしまう。


悠真の言う通りだった。

結局何も考え方が変わってない。

もう救いようがない。



そんなことを考え始めて、何とか繕っていた態度が限界に達した。

悠真に抱きつくとそのままダムが決壊した。


「ねえ、もしこのまま彼方も結以も目覚めなかったらどうしよう。もしこのまままた娘を失う結果になっちゃったらどうしよう。

嫌だよ……もう失いたくないよお……。どうしていつもこうなっちゃうの。なんで……愛も彼方も結以も悪いことなんて何もしてない。凄くいい子なのにどうして……」




答えのない疑問ばかりを口にして泣き喚く。もう悠真の服は私の涙でびしょびしょだった。






一通り泣き喚いて喉が渇いた。

酔い醒ましのついでに二人で水を買いに出掛けた。

こんな時には綺麗な夜空が見れた。夜空を飾る星々の輝きが涙の一粒一粒を表しているように見えるのは私の心情からだろうか。


「なあ…」

不意に悠真に話しかけられる。

振り向いて返事をせずに言葉の続きを待つ。


「お前が大変なのは何となく分かったし、辛い思いしてるのも分かる、

だからって訳でもないけどさ……その…やり直さないか…?」


「お前の話聞いてるとさ、やっぱりほっとけないっていうか。大事にしたいというか。

傍にいて支えてやりたいんだ。

もちろん彼方って子のことも……だからお願いします!」


15年間待ち続けた言葉。

それがやっと聞けた。


「ふっふっふっふっ……あっはははは……」

「何がおかしいんだよ!」

「いや、違うの。その…嬉しくて…嬉しくて……、ずっと待ってたから……」

「…待たせて悪かったな。んで、返事は……?」


馬鹿ですね。

もう分かりきってるくせに。


「……はい、愛娘共々私を支えてください。大好きです……」


私は久しぶりに見せる本物の笑顔で愛を伝えた。



私と彼方は『綾辻』の姓に変わり、それからは辛いけれど幸せな日々が続いた。

依然、彼方も結以も目を覚ますことは無い。


もうこのまま目を覚まさないんじゃないか。

そう思って気持ちが沈んでしまうこともある。潰れそうにだってなる。


けど、今は支えてくれる人がいるから。だから諦めずに元気な顔でこの子達が帰ってくるのを待とうと思う。






ちょうど一ヶ月が経った頃だった。


今日は仕事が休みだったので朝から彼方の病室にいた。

持ち込んだ本を読んだり、彼方を愛でながら過ごしていたら気づいたら寝てしまっていたらしい。


何かの拍子に目が覚めた。

瞬きしてボヤけた視界を鮮明化する。やっとちゃんと見えるようになった目に写っているのは上半身を起こそうとしてベッドに腕をついて右目でこちらを凝視する彼方の姿だった。



目を疑って何度も何度も何度も目を擦った。

でも間違いなく彼方の右目はこちらを見ていた。



彼方が起きたことを自覚した途端、頬から大粒の涙がこぼれ始めた。

止まらない涙をどうする訳でもなく、私は彼方の機能を失った左目の上を軽く指で撫でる。そのまま手を背に回し思いっきり抱きついた。

「良かった……良かったよぉ……」


そっと彼方の腕が私の背に回ったのを感じてもっと強く抱き締めた。



ありがとう……無事に戻ってきてくれて……。



「おかえり、かな……」

「あの、ごめんなさい。抱きついちゃって……」

おかえり、彼方とそう言いかけた時だった。


彼方は抱きついたことを謝ってきた。




そして次の言葉で私はまたも頭を抱えることになる。







「失礼かもしれないけど、あなたは誰ですか?」

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