3.信頼関係

 翌日、雪凪は傷病手当金の書類が完成した旨を伝えるため、カルテの患者情報に記載しているトキオの携帯番号に電話を掛けた。

 呼び出し音は鳴るものの、一向に電話に出ない。そこで雪凪は、『携帯に出なかったら掛けていい』と言われている自宅の電話番号へと電話を掛けた。


 飛び出し音が三コール。

 電話に出たのは、トキオの妻だった。


「はい、もしもし」

「あ、トキオさんのご自宅でよろしいでしょうか。こちら小山田メンタルクリニック、ワーカーの雪凪です。奥様、でしょうか?」

「あ、雪凪さん! どうもお世話様です」


 久しぶりに聞いた気がする、妻の声。ここ最近はテンションが高く多弁なトキオの影に隠れるようにしていたので、挨拶すらほとんどできていない状況であった。


「奥様、自宅にお電話しちゃってすみません。トキオさんの携帯にお電話したんですけど、出られないようだったので自宅の方にお電話しちゃいました」

「ああ……、気付かなかったんでしょうね。大丈夫です。もしかして、傷病手当金の書類でしょうか?」

「はい、完成したので報告しようと思って」

「わざわざすみません。分かりました、夫は……、忙しそうなので、今日私が取りに伺おうかと思います。大丈夫ですか?」


 小山田メンタルクリニックは、家族が代わりに診断書を取りに来ることは特に問題がない。

 少し話が反れるが、例えば本人抜きの家族のみで診察を受けることも可能だ。ただ、その時は基本的に本人の同意を得るようにお願いしている。


 たまに電話などで、家族や会社の上司、学生ならば学校の先生などから『本人の病名を教えてほしい』『どんなことを話ししていますか?』と問い合わせを頂くことがある。

 できるだけ本人に協力してあげたい、本人のためになるようなことをしてあげたい、と思って心配して電話を掛けて来てくれるのだろうが、そういった問い合わせがあった時に、こちらがまず最初に答えることは――、「本人さんの同意をもらっていますか?」だ。


 精神科という領域は、驚くほどにで溢れかえっている。

 妻にも夫にも、両親にも恋人にも誰にも話せないような内容がカルテにはたくさん記載している。正直言うと、法に触れるようなことが記載してある場合もある。ただあくまでここは病院、クリニックという医療の現場で、警察ではない。それを聞いたところで警察に突き出すようなことはしない。


 ただそれらの内容を、たった一本の電話で、しかも本人には内緒で答えるようなことは絶対してはならない。

 精神科は医療側と患者側の信頼関係で成り立っているため、そこはかなり慎重に扱っていく必要があるのだ。


 例外的に、自分を傷つける自傷じしょう、他人を傷つける他害たがいなどの自傷他害があった場合は、この限りではない。かなりの非常事態となった場合は、医者の判断で、本人の同意なしに、家族に状況を伝える場合がある。


 似たようなケースで言うと、初診の電話を本人ではなく、家族が掛けてくることがある。

 もちろん本人にきちんと同意を得て電話をしてくる家族もいるのだが、中には『うちの子は精神的おかしいので診てほしい。本人は絶対拒否すると思うので、当日は無理やり連れて行きます』という家族もいるが、きちんと同意を貰ってから電話するように促している(※自傷他害、暴れているケースなどの場合は、クリニックでは限界がある可能性があるため、大きな精神科病院や警察に相談するように促すこともある)。

 仮に上の状況で本人を連れてきた場合、果たしていい関係は築けるのであろうか。

 医者と本人の信頼関係ができてこそ、いい治療ができる。薬を飲もうと思ってもらえるし、ちゃんと通院しようと思ってもらえる。


 どうしても本人の了承が得られない場合、自費でというのも可能だ(※病院やクリニックにもよる)。

 ちなみに小山田メンタルクリニックは、自費一万円と消費税で、家族相談を受けることができる。ただ本人抜きで行うので、薬の処方もできなければ、診断書等を書くこともできない。

 それを予約の段階でお断りさせてもらって予約を取るのだ。時間は、通常の初診枠と同じ一時間。


 予約当日、たいがい両親、妻や夫総出で現れることが多い。本人の普段の様子を必死にまとめたメモを片手にクリニックにやってくるのだ。

 それから実際、説得に成功した両親とともに、本人がクリニックを訪れる割合は、かなり少ないのが現状である。



 ◆


「大丈夫ですよ。ではトキオさんに一言伝えて頂いて、トキオさんの診察券を持って来てください」

「分かりました。それでは後程」


 双方は同じタイミングで電話を切った。

 トキオの妻は、何も言わず下を向いたまま、しばらくの間その場で立ち竦んでいた。

 そしてそれは雪凪も同じであった。直接顔を見て話をしていないのに、どこか感じるこの違和感。雪凪もまたその場で考え込んでいた。


 それから一時間後――。

 何かがぶつかったかのような大きな音を立て、クリニックの自動ドアが開いた。


「いやぁ、遅くなりました! 書類を取りに来たのですが」


 それはトキオだった。見る限り、ひとりのようだ。

 トキオの家はここからそんなに遠くない。自宅から走ってきたのか分からないが、息切れし、十二月の肌寒い時期だというのに、手持ちのハンカチで汗を拭っている。

 受付の奥にたまたま座っていた雪凪が、トキオの元へ向かう。


「トキオさん? 奥様が取りに来ると聞いていたのですが」

「いやいや、家内は忙しいんですよ。取りに来るとか言っていたようですが、たぶんすぐに動けないと思ったので私が取りに来たんです。それとも、私が来るとなんかまずいことでもありましたか? うちの家内、何か言っていましたか?」


 とても早口で少し興奮しているようにも見受けられる。

 声も大き目で、今日もまた他の患者の注目を集めている。


 雪凪の鋭い直感は、トキオから伝わってくるをキャッチした。すぐに会計を済まそうと試みる。


「いえ、特に。じゃあお会計しますね。お掛けになって――」

「雪凪さん、正直に言ってくださいよ! 家内、何か言っていたんでしょう? 私に隠すほどのことなんですか? 私に内緒で何をしようとしているんですか?」

「トキオさん。落ち着いて。奥様からは本当に何も聞いて――」

「嘘をつくなっ!!」


 クリニック中に響き渡るトキオの怒鳴り声。

 一番間近で聞いた雪凪の耳に、それは雷鳴のようにビリビリと入ってきた。

 そんな事態にさすがの小山田も診察を中断して、待合室に飛び出してくる。


「トキオさん、どうしましたか? いったん診察室に入りましょうか」

「うちの家内が雪凪さんに何か吹き込んだようなんだ! 会社は俺を必要としてくれているのに、それを壊すような何かを吹き込んだに違いない!!」

「トキオさんっ!」


 小山田に腕を掴まれ、診察室に向かって歩き出すトキオ。

 そしてトキオは診察室に入る前に、怒りのあまり診察室のドアを蹴り上げた。

 全員の鼓膜に轟然たる音が鳴り響く。


 待合室の患者が怯えた表情でトキオを見ている。耳を塞ぐ患者の姿も見受けられる。他のスタッフはみんなで一斉に患者に「すみません」「大丈夫だからね」と声掛けをしに回った。具合を悪くした患者に対しては、処置室を開放し、ベッドに横になってもらった。



 診察室には雪凪も同席した。未だ興奮しているトキオの息遣いは、トキオの後ろに座っている雪凪にもしっかり聞こえてくるほど。

 いったんトキオが少しでも落ち着くのを待つ。双極性障害の患者が時は、正直手がつけられないこともある。これ以上気分を逆なですると、相手に手を挙げることもしばしば。そうなれば、即入院である。時は、本人の病識びょうしきはほとんどない。


「雪凪さん、奥さんと電話したの?」と小山田に尋ねられる。

「はい、傷病手当金が出来たという報告を入れました。トキオさんは忙しいので、奥様が代わりに取りに行くと言われたので、診察券を持ってくるように伝えました。電話の内容は以上です」と雪凪は、冷静に答えた。

「だそうです、トキオさん。奥さんはこちらに何も言っていないようなんですが。言っていたとしても、ドアを蹴ってはいけませんよ」


 トキオは黙っていた。何も言わず、ただ膝の上に置いた握り拳を、血がにじむのではないかと思うほど爪を食い込ませ、力一杯握りしめていた。

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