9.退院に向けて

 兄の言葉が会議室に響き渡る。

「そんなこと言うもんじゃないよ!」と両親が反論することもなく、ただ黙って下を向いているだけだった。


 家族は不安なのだ。目に見えて、良くなっているのが分からない分、余計に。

 あれだけ幻覚妄想に振り回されていたカケルを見てきたのだ。退院しても、また同じように家中監視カメラをつけたり、おかしなことを言って両親を困らせるのではないか、と思うのは当然と言えば当然の、素直な気持ち。


 今田が口を開こうとした。しかし先に開いたのは新井だった。


「お兄さん。お気持ちは分かります。しかしカケルさんが入院前と違うのは、きちんと薬を飲んでいる、ということです。幸いにもカケルさんには最初投与した薬がとても効果があったようで、症状は劇的に改善しています」

「そうですか」


 兄のまだ納得のいっていないような返答。

 新井は続ける。


「完全に幻覚妄想がなくなったわけではないのですが、僕から見て今カケルさんはかなり安定しています。以前のように大暴れしないようにするには、薬を継続して飲んで頂くことが重要なんです。ね、カケルさん。今頑張って飲んでいるもんね」

「あ、はい。飲んでいます。看護師さんのところに取りに行って、自分で飲んでいます」


 新井は俯いて黙っているカケルに話を振った。カケルは、突然のことに戸惑っている様子も見せながらも、しっかり服薬が出来ていることを自分の口から兄に向けて話をした。


「カケル、お前。本当に具合はいいのか?」

「うん、今は本当にいい。あの時とは全然違うんだ」

「そうか」


 兄弟の会話が始まる。そして、そこに割り入るように両親も加わってきて、家族の会話へと変わった。


「お兄ちゃん、カケルのことは確かに入院前はとても頭おかしい息子だ、と思ってしまっていたけれど、入院してからカケルの表情はとても良くなっていると思うの」

「お袋……」

「そうだな。最近一緒に外出をして買い物をする機会も多かったが、とてもあの時と暴れていたカケルとは思えないほど穏やかでな」

「親父まで……。そっか、親父たちがここまで言うってことは、本当に体調は良くなったんだな」

「夢みたいよ。こんな風にカケルと話せる日が来るなんて……」


 母は泣き始めた。

 十数年前もの間引きこもり生活を送り、数年前より幻覚妄想状態のカケルしか見てこなかった家族。このようにに我が子と会話できることが、両親にとってはとても嬉しいことだったのだ。


「俺、これまで家族に迷惑しかかけてきてないから、この先は家族のためになることをしたい。再発しないためにちゃんと薬も飲む。あとは仕事をして、お金を稼ぎたいんだ。俺仕事をしたことないから正直出来るか分からないけど、そのためにもリハビリをちゃんとしていきたい。だから、退院したらデイケアに通いたいんだ」


 さっきの作文を読んでいるような発言とは違い、堂々と家族に向けて述べられるカケルの気持ち。先程まで不安を露わにしていた兄も、カケルのその言葉を受け入れたのか「体調悪くなったら、すぐ言えよ」と言って、カケルの肩に手を置いた。カケルはその兄の行為が嬉しかったのか、顔をくしゃっと崩し、なんとも言えぬ笑顔を見せる。

 新井と今田は目を見合わせ、クスッと笑い合う。二人は同じことを考えていた。カケルさんかっこよかった、と。


 その後新井から退院に向けて自宅への外泊をしていこうという話が出る。外泊は家族に送り迎えをしてほしいことと、外泊中に何かあれば病院に連絡をすることをお願いした。


「じゃあデイケア等に関するところは、私今田の方からお話をしますね」


 と、今田がデイケアについて話を始める。高齢者のデイケアとは違い、精神障害者のためのデイケアがあるということに、家族は驚いているようだった。


「あとは、もう少したったら自立支援医療じりつしえんいりょうを申請した方がいいと思います」


 聞いたことのない単語に、家族は顔を見合わせた。


「精神科に通院している患者さんの窓口での負担額を減らす制度です。通常であれば、みなさん窓口で三割の料金を負担して頂いているかと思うんですが、それが一割負担になるというものです」

「えっ。安い」

「そう、安くなります。あと薬局さんでも使えますし、これからデイケアを利用するならデイケアでも利用できます」

「え、え? すごい。全部一割負担?」

「じゃあ、内科とか眼科に行っても使えたりするんですか?」

「いえ。これは登録した機関でしか使うことができないんです。医療機関は一ヶ所、薬局は三ヶ所まで登録できますよ。更に所得に応じて毎月の上限額が決まりますので、上限額に達してしまえば、その月はもう窓口で支払わなくてよくなります」

「でもありがたい制度よね。あまりお金の心配しなくて済みそうね、あなた」

「今田さん、こういったことまで教えて頂いてありがとうございます」

「いえいえ。通院代はまだしも、お薬代はとても高かったりしますからね。この制度はできるだけ負担を抑えて、通院を継続しやすくするためのものです。積極的に利用してもらった方がいいので」


 そして今田は、ムンテラの最後で今回のまとめを全員に伝える。


 早速今日から外泊を開始すること。

 一回目の外泊がうまくいけば今田と役所へ出向き、障害課の窓口で自立支援医療の申請を行うこと。

 二回目の外泊を行なった体調を考慮しながらデイケアの見学に行くこと。

 そこまで順調に進めばカケルは退院することとなった。


 見えてきた退院の二文字。カケルは一層期待に胸を膨らませた。


「カケルさん。嬉しさのあまり、焦って体調崩さないようにしないとですね」

「今田さ〜ん。俺、焦った顔してたよね。えへへ」


 一般の人と同じように、たわいもない会話や冗談が言えるようになったカケルの姿を両親と兄は、微笑ましい顔で、カケルが退室をするまでいつまでもいつまでも見ていた。



 ◆


 それからカケルはさっそく荷物をまとめて、自宅への外泊をするため、家に戻った。外泊は基本的に一泊二日。今回は土日ということもあり、兄もそのまま自宅に泊まって様子を見たいという。

 何かあれば連絡を、と言っていたが、特にこれといった連絡もなくカケルは戻ってきた。ついでに散髪に行ったのか、長かった髪の毛をバッサリ切ってスッキリしている。とても表情は良さそうだ。


 一回目の外泊が終わり、その一週間後。

 今田とカケルは新井の作成した診断書を持って、一緒に外出をした。先日ムンテラで話をした自立支援医療の申請をするために病院の車で役所へと向かう。車の中では、カケルから外泊中の出来事を聞いた。久しぶりに食べる母親の作ったご飯がとても美味しいと感じたようで、幸せだったと笑顔で話す。

 役所へ到着し、障害課の窓口で自立支援医療の申請用紙を記入する。拙い文字であるが、袖を捲り一生懸命記入欄を埋めていくカケル。それをただ隣に座り、見守るだけの今田。

 自立を申請をすると、自立支援医療受給者証というのが発行される。期限が設けられ、毎年更新をしなければならない。そのうち二年に一度は主治医の診断書が必要になる。


「次からここに来ればいいんですよね。ひとりでも何とかできそう」

「じゃあ受給者証が届いたら、いつ期限が切れるのかを確認してもらって、切れちゃう前に更新してくださいね」

「そうですね。また分かんなかったら、今田さんに聞けばいいですしね」


 帰りの車でカケルの口から出る、当たり前の感覚。どうしようもなく辛い時に心強く声を掛けてくれた今田。入院中に、いつもカケルを気にかけ、良き相談相手として関わってきた今田は、カケルにとって、とても信頼のおける存在となっていたのだ。

 しかし、そんな今田から告げられたことは、カケルにとって少し酷なものであった。


「カケルさん。僕は退院したらカケルさんの担当じゃなくなるんですよ」

「え?」


 カケルは凍りついたような表情で今田を見た。今田は運転をしているため前を向いているが、その視線はしっかりと感じていた。


「最初の挨拶でも『退院するまで』と一応伝えていたんですけど、僕の担当は、今カケルさんが入院している病棟に入院してくる患者さんなので、退院するカケルさんは僕の担当から外れるんです」

「え。その、俺。そうなんだ。今後、どうしたら……」


 カケルはショックを隠し切れず、動揺しているように見受けられる。

 今後もずっと今田が担当してもらうのが当たり前だと思っていた分、余計に。


「カケルさん。担当は外れても、僕はここを辞めるわけではありません。カケルさんがここに通ってくれる限り、どこかで絶対お会いできると思いますよ」

「あ、たしかに。そうですね。そうですよね」

「そうそう。外来で困ったことがあったら、【地域医療連携室】を訪ねてきてください。外来は金本さんっていう女の人が対応してくれますので、相談してみるといいですよ。僕よりも男気あって頼り甲斐ありますしね」

「ええ、俺は今田さん男気あって、イケメンでいいと思うけどなぁ」

「またまた、カケルさん。リップサービスが上手ですね」


 そんな冗談を言いながら二人は病院へと戻る。


 そして後日二回目の外泊が無事に終わり、今田とカケルはデイケアの見学を行なった。ちょうどプログラム中で、卓球とヨガをしている最中であった。

 精神科デイケアには、ショートケア、デイケア、デイナイトケアの三種類があり、それぞれ四時間、六時間、十時間と時間が決められている。病院によってデイケアのプログラム内容は様々。他の病院に通院中の人でも受け入れてくれるところもあれば、ダメなところもある。ちなみにやまざと精神科病院は、受け入れオッケーだ。

 カケルは一通り説明を受け、退院日が決まれば改めて申し込みに進めることとなった。


 新井と今田は、カケルの状態や様子を振り返った。

 これまでの経過を辿り、決断を出す。




 カケルがやまざと精神科病院に入院して、百十二日目の朝――。


 今田や新井、看護師。そして病棟のみんなが手を振る中、カケルと両親は深々と頭を下げ、笑顔で退院していった。

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