短篇小説「静かな湖畔の陽の光の下」
トオルKOTAK
静かな湖畔の陽の光の下(1/8)
漠然とした不安ーー口からこぼれ出た使い古された言い方を、数学教師の松本は後悔した。
恩師の上村(かみむら)は親指で下唇を撫でながら、真っ直ぐな目線で聞いている。
都心に近い雑居ビルの5階。
教育コンサルタントの看板を掲げた上村の個人事務所で、松本は四人掛けの応接ソファに座っていた。
他には誰もいない。
教え子をオフィスに呼んだ上村は、用件を普通に切り出すつもりだったが、「調子はどうだ?」というお決まりの挨拶から、人生相談の聞き役になってしまった。
「……まぁ、社会に出て3年目くらいは、誰でも、どんな仕事でも迷うもんだよ」
恩師の言葉に教え子は黙ったまま、首を縦にも横にも振らず、前屈みの姿勢を崩さない。
上村の提案は、メールか電話でも済んだはずだ。
それでも、松本との再会を望んだのは、教え子の顔と声を間近に、[たいよう倶楽部]のパンフレットを見せたかったからだ。
エアコンが28度に設定された部屋は、隣りのマンションの改修工事のため、ときどき、けたたましいドリル音を窓から侵入させている。
「ここはちょっとうるさいから、近くのカフェに行こうか」
そう言って、上村がメガネのフレームに手をかけたとき、まるで急停止した電車みたいに建物が揺れた。
「あっ」と、二人が同時に声を上げ、テーブルに手をつく。
西陽を受けたブラインドが、垂直に下りた紐と金属製のスラップを何かの遊具みたいに左右に激しく動かしている。
「……余震かな」
上村が年長者の落ち着いた声でテレビを点けた。
長屋の前で刀を抜く侍。悲鳴を上げる商人ーー時代劇の再放送映像に、地震速報の文字がにわかに被さり、すぐさま、震源地とマグニチュードが示される。
やがて、「この地震による津波の心配はありません」のテロップが出ると、外の音もピタリと止み、壁にかかった時計の秒針が何事もなかったように回転を続けた。
上村と松本は姿勢を戻して、ふうっと息をつく。
「もう大丈夫だろう」
東北の震災があってから、誰もが地震の怖さに怯えている。
松本は動きを止めたブラインドを見つめて、上村の言葉に頷いた。
「イチ……そんなお前の気分転換に……というわけじゃないけどな、夏のキャンプで小学生を相手にしてみないか?」
タイミングを計って、上村が用件を切り出した。
そうして、いくつかのパンフレットをテーブルに並べ、友人が幼児教室を経営していること、キャンプのボランティアに欠員が出たこと、学生以外の指導者が求められていることを端的に伝え、「いまのお前にとって、小学生の子供たちは新鮮じゃないか?」と続けた。
たいよう倶楽部のパンフレットは子供たちの笑顔であふれていた。
山・野原・河川敷……どの写真も大自然を背景に、太陽光が画面を明るくしている。
ニキビ面の男子生徒や大人びた女子生徒と日常を過ごす松本には、たしかに新鮮な光景だった。
倶楽部代表の加賀哲丸(ガガ丸)は、長年の運営で幼児教室のブランドとノウハウを培い、夏のキャンプを教育関係者にも一目置かれるプログラムに仕立てていた。
毎年、ゴールデンウィーク明けに設定される3日間の応募期間には申し込み電話が殺到し、抽選で40人の参加者が決まる。同時に、大学生を中心に男女8人のボランティアが集まり、「リーダー」という肩書きで、子供たちの指導にあたっていた。
「お前の『漠然とした不安』にはいろんな理由があるんだろうけど……教師を辞めるのはいつでも出来るだろ。でも、いったん辞めたら、戻るのは難しいぞ」
力のある眼差しで、上村が教え子を穏やかな口調で諭す。
重ねた齢(よわい)が、薄くなった眉と目尻の皺に表れているが、はっきりした物言いは現役の教育者と少しも変わらない。
「中学校の先生に夏休みはほとんどないよな。でも、山ん中で少しリフレッシュするのもいいぞ。ガガ丸のキャンプは教育指導の勉強にもなるよ」
「話は以上」という面持ちで、恩師が再会の握手を求めると、勢いに圧された教え子は「行ってみます」と、小声ながらもはっきりと決断の意思を見せた。
上村のオフィスを出て、松本は甲州街道を東に向かう。
私鉄の改札口が目と鼻の先にあるのに、新宿駅までの徒歩を選んだ。10分も行けば、電器量販店や居酒屋の看板が見えてくる距離だ。
梅雨入り前の生温かい空気が、行き交う無数の車の排気ガスと一体になっている。
信号待ちをしながら、松本は先の地震の詳細を携帯電話のニュースサイトで確認し、視線を路上に戻した。
停車したタクシーのウィンドウガラスに自分の姿が歪んで映る。面長で彫りの深い顔は血色が悪く、体重は成人してから見ることのない数値を示していた。学校の父兄や生徒たちに、それを指摘されないようにすればするほど、松本の心身は冬枯れの植物のように痩せ細っていく。
(2/8へ続く)
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