天使は冥界で嗤う
紫月ちゆ
第1話.邂逅
気が付けば暗闇にいた。己の存在すらあやふやになってしまうような深い黒の。
ただ鼓膜を震わせる音が、脳内に反響する。それはどうやら、自分を呼んでいるようだ。
おいで、と。その三音は酷く心地好い感覚をもたらす。
霞掛かった意識の中、心地好さの中へその声に憂いともとれる色が滲むのに内心で首を傾げつつも、闇へ溶け込むかのようにこの身を委ねてしまった。
ふわり、突如落下した時の浮遊感と共に意識は黒に落ちる。
■
「……ど、どこだ、ここは…」
鼻先を擽る穏やかな風が土の香りを乗せて通り過ぎていく。頭上を覆う木々の緑は爽やかな音を奏で、共に歌うのは鳥の声か。
地面に模様を作る柔らかな陽光は木々の隙間から暖かく注ぐ。照らされた見知らぬ花が喜びを示すかのようにふるりと揺れた。
——そう、ここは森の中のようだ。
澄み切った空気を肺へ取り込みながら、園崎 有磨は混乱に呟きを零し、額に冷や汗を浮かべた。
理由を言うならば、有磨は昨夜自室のベッドで眠りについた筈なのだ。閉じられた瞼に注ぐ陽光の暖かさに目を覚ましてみれば、目の前に広がる景色に素っ頓狂な叫びを上げてしまっても無理はない。
抓った頬から伝わる痛みと鮮明すぎる感覚は、夢であってほしいという希望すら無残に打ち消してしまう。時が経つ程にこれは現実なのだという事実が未だに真っ白な脳内へと捩じ込まれていくようだ。
「はは、参ったな……」
引き攣ったように唇が震え、乾いた笑みが貼り付くのがわかる。停止したままの思考の歯車を無理矢理に動かして記憶を辿るのだが、どうにも上手くいかない。何時もの通り高校から帰宅して、昨夜は自室のベッドで眠りについた筈だとは思ったけれど、それも今になって何故か霞が掛かったように不確かになってしまったのだ。
長い溜息をひとつ。有磨の思考は再びすっかり動きを止めてしまい、何処からともなく焦燥感がやって来ては代わりに身体を動かす。
とにかくこの森を抜けたなら何かが見えるだろうか。焦りに身を任せ歩は早くなり、道もわからないまま唯がむしゃらに。
弾む息と共に目頭をじんわりとした熱が襲う。この異常事態に情けなくも涙腺が少し可笑しくなってしまったようだった。
堪える様に食いしばった歯と軽く上向けた頭——そこで、有磨は気付いた。ぱた、ぱた、緩やかになる歩みはやがて止まり、視線は頭上へ釘付けになる。
そこに聳え立つ、白塗りの塔に。
それは圧倒的な存在感を持って有磨の意識を奪った。見たところ窓すらないその塔は円錐形をして、木々の隙間より突き出た先端は鋭く尖っているように見える。
「……っ?!」
途端。脳裏を焦がすじりりとした熱に、有磨は思わず頭を抑えた。強烈な既視感にも似たそれは全身へ痺れるような感覚をもたらし、驚愕に見開かれた茶の瞳が揺れる。
こんなものは知らない筈だ。だというのに、どうしてこうも心が掻き乱されるのだろう。呼吸が乱れ、更には意識まで闇に落ちそうになって——
「おい、そこで何してる」
唐突に耳へ飛び込んできた何者かの声に、ぴたり、と、脳裏の熱も息苦しさも全てが何も無かったかのように去っていく。いつの間にか蹲っていた体制を直し瞳を瞬かせながら立ち上がると、取り敢えずと声のした方へと視線を移した。
視界へ写ったのは、黒い髪を持つ少年——どこか少女めいた顔立ちをした少年だった。長めの前髪から覗く瞳は鋭い眼光でこちらを射抜き、そして見た事もない鮮やかな赤色をしていた。
服装も妙だ。緋色の和服、その下へ白いズボンを着用している。こんな身なりで歩いていれば、コスプレじゃないかと疑われるだろう。
そして更に目を引いたのは、肌の白さだ。青白くも見える肌は不健康そうに見える。
有磨は暫く少年から目を逸らす事が出来なかった。どういう訳か、最初こそ違和感を感じたもののその感覚は直ぐに消えてしまったのだ。まるで当たり前のように受け入れてしまっている自分に疑問を覚えると同時に、目の前の少年の眼光の鋭さに射すくめられていた。
「何をしていたのかって、聞いている」
そんな様子に苛立ちを覚えたのか、少年が再び口を開いた。それでも喉が張り付いてしまったかのように答えることができない有磨についに痺れを切らしたか、歩み寄ってきた彼は有磨の胸倉を掴む。明らかに自身より年下の少年に、有磨は気圧されていた。
身体が強張るも、必死で絞り出した声は情けなく震えている。
「えっ…と、その。道に迷っちゃった、つーか…ここ、どこですか」
「……」
えへ、冷や汗を浮かべつつ笑ってみせると少年は黙ったまま睨みつけてくる。しかしやがてその表情が僅かに緩んだ、ような気がした。
掴んだ胸倉から手を離して、少年は小さく溜息を吐く。悪い者ではないと理解してくれたのだろうか。いや、そもそも突然こんな場所に来て訳もわからない自分がこんな扱いをされる意味がわからないのだが。
少年が再び口を開く。
「…あんた、『迷い子』か」
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