タイムマシンよ、お願い

十五 静香

第1章 序章

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 初恋は成就しないものである。どこかの誰かが言った、最もらしい言葉だ。

 確かに、初恋というものは、得てして若さ故、空回りし、不器用で、無様な結末を迎えやすい。

 良識ある大人は、そんな甘酸っぱい恋の記憶を、聞かれてもいないのに、若気の至りとか言い訳し、胸の奥にある箱に仕舞い込んで保存する。

 あくまで私見だが、その箱はただの木箱ではなく、研究室で使うような業務用の鍵付き冷凍庫のイメージだ。忘れてしまうのは忍びないが、もう一度取り出すつもりはない。当時の初々しく純粋な気持ちの鮮度は保ちたいが、今更あんな青臭い気持ちになるのは遠慮したい。そんな大人の見得やわがままを叶えてくれる箱となると、やはり鍵付き冷凍庫が一番の適任に思える。


 しかし、世間には、初恋を心の中に仕舞い込むどころか、十年も二十年も、その命が尽きる時まで、現役で引きずり続ける残念な人種が存在する。彼等は、叶わぬ恋を追い続け、一生を台無しにする悲劇的な運命を背負っている。

 否、この表現は良くない。些か、被害者ぶっている。ごく一部の本当に頭が幸せな人たちを除き、彼等だって大人だ。初恋を引きずって生き続けることが、いかにリスキーで、人生の無駄遣いであり、時には、自分だけでなく周囲の人々まで傷つけてしまう、どうしようもない行為であることを悟っている。理解している。

 だが、それでも、引きずることをやめない、やめられないのだ。無駄だと解っているのに、大昔に感じたときめきを、記憶の中で美化された初恋相手を凍結できない。もしも今、かの人が目の前に現れたなら、スプリンター顔負けのフォームで突進し、『大好きです』と伝えられる。

 もう頭がおかしいとしか言いようがない。馬鹿だとか阿呆だとか、そんなかわいらしい言葉では言い表せない。


 長々と観察者めいた口調で語ってしまったが、白状しよう。私、櫻内朱さくらうちあけみもそんな頭のおかしい人種の一員だ。別に自慢をする訳ではないが、世間は私を新進気鋭の女性物理学者の卵とか、戦後日本を象徴する自立した女性とか、身分不相応な肩書を付けてはやし立ててくれる。けれども、実態は、十年も前の初恋を未だに引きずる頭のおかしな女だ。


 敗戦を経、この国も世界も、十年前からは想像もできないくらいに変容した。私自身も、十六歳の女学生から二十六歳の大学院生になった。大学院生になるまでに、もんぺ姿で竹やり訓練をさせられたり、焼夷弾の雨が降り注ぐ、炎の街を逃げ惑ったり、近所に住んでいたおじさんの脳天に爆弾が落ちるところを目の当たりにしたり、空腹のあまり、畑から芋を盗んだり、数え切れないくらいの辛酸を舐めさせられた。

 それでも、命の危険に晒されようと、ショッキングな体験をしようと、十六歳の秋の不可思議な経験と初恋の記憶を、私は一瞬たりとも過去のものとはしなかった。十年間、ずっと引きずり続け、あの時伝えられなかった想いを伝えるべく、髪を振り乱して勉強し、研究に励んでいる。

 こんなこと、誰にも話さず、死ぬまで胸の内に秘めていたかったのだが、そうはできない事態が発生してしまった。

 嗚呼、何て恥ずかしいのだろう。体中の毛穴から炎が上がり、この場で焼け死んでしまいそうだ。でも、志半ばで死ぬ訳にはいかないので、深呼吸をして落ち着こう。



 研究室の隅、応接用のソファに対面して座る男を前に、私はいつになく緊張していた。


 彼は、聞いたこともない出版社で、本屋に並んでいるところを見たこともない雑誌を作っている記者を自称していた。

 何でも、私が小遣い稼ぎの為に、心霊・オカルト系のカストリ誌に書き下ろした論文を目にし、是非とも著者に取材をしたいと思ったらしい。学会では、鼻で笑われるどころか、一部には『日本物理学会の面汚し』とまで罵られる私の裏のライフワークに、何故そこまでの惹かれたのか、謎だった。

 記者の歳の頃は、三十代半ばか四十前くらい。灰色のくたびれた背広に鳥打帽を被っており、いかにも胡散臭いカストリ雑誌の記者といった装いだ。

 しかし、年相応に加齢しているものの、彼の顔立ちは、下世話な雑誌の編集者という肩書には似合わない程、秀麗だった。服装さえ改めれば、旧華族出身を騙っても通用する品性と、歌舞伎の女形のような色気を合わせ持った不思議な雰囲気の男だった。


 研究室に入ってくる時、右手に杖を持ち、左足を引きずって歩く様を、何となく見つめていると、彼は照れ臭そうに微笑み、自分の左足をさすった。



「左足の膝から下は、戦地で失ってしまいましてね。義足なんです」



 正直、どう反応して良いか分からず、曖昧に微笑み返すことしかできなかった。傷痍軍人なんて、敗戦から五年、街を歩けば結構な確率で遭遇するが、こうして面と向かって話をするのは初めてで、接し方の作法が今一つ分からなかったのだ。

 自分の研究室にいるのに、畏まり、借りてきた猫状態の私に、記者は慣れた様子で切り出した。



「さあ、早速、あなたが本業の傍ら、続けていらっしゃる研究のお話を聞かせて頂きましょうか。櫻内さん、あなたは何故、そんな突拍子もない研究に心血を注いでいらっしゃるのですか?」



 妙に鼻にかかった気障ったらしい声にたじろぎながらも、私は逆質問で返した。



「あなたは、タイムマシンを信じますか」



 男はオカルト専門記者のくせに、冷やかな笑みを浮かべ、答えた。



「信じるかと聞かれれば、現状は信じません。アインシュタイン博士の相対性理論を応用したところで、現在の科学技術では、時間旅行ができるような高速移動可能な乗り物は作れません。けれども、百年後、或いはもっと先の未来では、可能になっているかもしれない。最も、その方法ですと、未来旅行はできますが、過去には戻れませんので、また新しい法則を発見しない限り、過去へ戻れるタイムマシンは作れないまま、くらいでお許しいただけますか」

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