第4話
張傑の時代、曄は最盛期を迎えていた。
勢力は北方の遊牧民たちを従わせることで曄王朝最大の版図に達し、民はその過程で自国の強兵に誇りを抱いた。また、元々詩文や絵画、それに音楽が推奨されており、文化人たちが大いに腕を振るっていたところ、今までは細々としたものだった遊牧民たちの文化がおおいに流入し、まじり合い、新たな様式を形作っていった。
急激な発展は、もちろん輝かしい側面だけと都合よくはいかない。光が強ければ強いほど、影は一層濃く現れる。
遊牧民――北戎への遠征に必要な人員、兵糧、軍備は嵩み、税は高くなる。いくら先々代までの質素な時期に蓄えられた金銀があっても、戦争ではあぶくのように銭が消える。民衆は一時的に税や徴兵を免ぜられても、すぐにまた次の遠征に向けた徴税や徴兵がはじまる。
男手が遠地に取られ、国内の生産は落ち込んだ。食うに溢れていた倉はひとつ、またひとつとこじ開けられ、村や街からは次第に活気がなくなった。女たちは兵士の姿を目撃するたびに子供を取られまいかといやによそよそしく顔を背けた。
遠隔地に行った男たちは鍬や鎌を矛と剣に持ち替えるも士気は上がらなかった。遠隔地での兵の士気を上げるため、屯田をさせることもあった。収穫の成功は腹の足しにはなるが、心の疲弊を満たすわけではない。
野獣の群れのようだと揶揄された北戎の防衛に、何の訓練も積まぬ者たちを立ち向かわせるのだから、虎の棲家に家の猫を放り投げたに等しい。末端の兵士は、ただ、北戎がいつ攻めてくるのか分からぬ状況下で肩を震わせるしかなかった。
勝利すれば褒賞が出る。上官の言葉に少しも胸が躍らなかったわけではないが、断続的な攻防は終わりが見えず、敵陣の壊滅は夢物語に思えた。
傑の領土拡大政策は、本当のところ一体どこまで突き進もうと目論んでいたのか遂に誰も分からずじまいであった。いかなる志や野望を抱いてひたすらに国の版図を広げようとしたのか。
肥沃な土地を求めて。豊富な水資源を求めて。鉱石を求めて。絹を求めて。――国の最大版図はそれだけでは説明しきれぬほど広がりをみせていた。
この世で最も強いのは曄であると誇示しようとしたのだろうか。曄こそがこの世の王者であると。
膨大な土地と人民を擁して、傑に成したかったことがあったというのだろうか。それとも、だた、引き戻れなくなってしまったために、突き進むしかなかったのだろうか。
*
傑はあまり官を信頼しなかった。ために、すべての思惑を人に話すことはなかった。猜疑心が強い性格だったのだ。
聡すぎ、眼光が強いという理由で実父に暗殺されかけたのをはじめとし、他の皇子を擁立する派閥の息のかかった者に暗殺されかけるも常なることであった。兄弟ははじめから敵であった。
父は血脈の王座に胡坐をかき、王たる役割をまっとうせずに享楽の宴に耽って官に政を任せきりにし、国を乱した。祖父が清貧な生活をして遺した財産に手を付けた。母は下男や宦官のいかんに問わず、己の宮に連れ込んで好色に身を委ねた。誰の者かもわからぬ子を皇子だと偽って生んだ。
官を信じた矢先に裏切られるも多々あった。或いは、信頼に値する官は皆言いがかりをつけられて――傑は「冤罪」と訴えたが――処刑された。
一度はうつけの真似事をしてみたが、生来持って生まれた眼光は隠すことができず、かといって傑は不遇の日々の中でも己の道を諦められなかった。毒にしかならぬ宮廷の生活であっても、己の道筋はなんぴとにも曲げられるべきものではない。彼は多くある兄弟の中で抜きんでて頭角を主張した人物ではなかったが、己に対する正義だけは信じて譲らなかった。だが、彼の周りの環境に加味して、己の正義を信ずるあまり、猜疑の心はどんどんと深く落ち込んでいった。
傑の治世の始まりは粛正に次ぐ粛正によって始められた。血みどろで残虐な新王に国民は背中をぞっと震わせたが、反面、膿を出しきるのは当然であると考えていた。しかし、それを口にすることで、己も粛正の対象になるのではなかろうかと不安を抱かせた。新王の即位に伴う官の粛正はこの国ではそう珍しい事件ではなかったが、慣れるべき事件でもなかった。彼はこの後何年もかけて官に、民に、国――ひいては天にまで、帝と定められし己への服従を勝ち取るべく邁進していく。
――それでも、信頼できる相手の少ないことよ。否、ゆえにというべきか。
「玉座とは大海に浮かぶ小さき岩。王は天と契約し、海を御する権利を借りる。だが、その代り、王は不安定な孤独の玉座に縛られ続けなくてはならん」
――王座とはひときわ孤独な影である。
傑が後にドルジにこぼした言葉だ。
常に孤独と猜疑を感じていた傑は、治世の末期、猜疑が酷く強くなり、おのが皇子を庶子に至るまで因縁をつけて処刑、去勢、幽閉し、公主を同じく処刑、流刑、遠方・異民族への降嫁する。同時に、異民族の対策として配された将を更迭、処刑し、曄朝の勢力は徐々に弱まっていった。
後に典薬寮から、当時傑の体は病に蝕まれていたとの旨の文書が発見される。特に、気の病が重く、疳の虫が騒ぐこと多次と記されていた。
傑がただ孤独に突き進むことしかできず、後ろから彼の手を引っぱる者を払い、血みどろの剣で薙ぎ続けたのであれば、或いは走り続ける彼に寄り添い、追い越し、正面から見据えることは可能だったであろうか。
――今は、もう分からない。
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