第3話

 ドルジには監視が幾人もついた。禁軍に配された直後のことだ。

 禁軍は通常凰都周辺の貴族の子息などでなければ入れぬ精鋭である。ドルジは王の一存で例外的に配された。ドルジはビュレの酋長の息子である故に貴種である。場所が場所であれば王族となっていたであろう。傑はそのように言って禁軍の大勢を黙らせてしまった。王の直接の言葉とあっては皆拱手して膝を折るしかない。曄の民でない異民族が禁軍に入りこむのは前代未聞であった。

 監視の視線は、狩りの際、獲物に気取られぬよう、じっくりと、しかし、気取られぬよう観察するそれに似通っていた。ために、彼はすぐに傑の寝首をかくことはできなかった。

 だが、その実、監視はドルジが王に害するのを防ぐ目的ではなく、彼が亡き一族を思って刹那的に自害するのを防ぐためであった。知ったのは禁軍に入って少し経ってから、大将軍である趙旋黄がドルジのぼやいた一言に答えたのがきっかけだった。

 ドルジは訓練の休憩中、ことあるごとに仲間に何故傑が己を殺さなかったのかとしきりに愚痴をこぼしていたが、趙が言うには、

「皇上はお主を殺すことはなかろう。今のところはな。何せ相と卜定(ぼくじょう)の両方にてお主は皇上に対し反骨なしと出ている」

 ドルジは馬鹿な! と無礼にも叫んだが、誰もがドルジと同じ疑問を抱き、誰もがドルジと同じ感想を持っていたので、とりたてて咎めはしなかった。

「ご無礼をお許しください、趙大将軍。気が動転しておりました。どうか今の言葉はお忘れください」

 ドルジは進んで膝を折って叩頭した。

 趙はドルジが宮中で最も尊敬する人物であった。故に、嫌われたくなかった。それは己の保身のためでも将来のためでもなかった。万が一ドルジが軍属を解かれ、禁軍を離れようとも、城外の一庶民となろうともこの気持ちは変わらないだろう。宮中へ来て初めて心を開き、好意を抱き、できるならば好かれたいと思った人物だ。清廉潔白で勇猛無比を絵に描いたような人物で、幾年に渡る鍛錬のため日に焼けきった肌が、曄人というよりは己たち遊牧民のそれによく似ていた。一点だけけちをつけるとしたら、趙大将軍は心の底から傑王に忠誠を誓っている、誓いすぎているという点である。

 趙は顎の三方に生えた短い髭をひとなでした。

「好し」

 次いで落ち着いて顔をあげるよう肩を叩いた。

「仕方のないことだ。お主はこの禁軍でよくやっている。お主のビュレを攻め込んだ禁軍の中にいながら、一つの諍いを起こすこともなく、鍛錬を怠ることなく、職務に実直だ。ビュレの者たちが健在であれば宝と褒めたたえたことであろう」

 趙はまた懐の深い人間であった。宮中では皆が『北戎』と蔑むドルジに進んで声をかけた。自分の乳母が北方遊牧民の出身で大層可愛がってもらったそうだ。その乳母の母は戦の時の戦利品として趙家にもたらされたが、働きぶりが認められて代々乳母をしていたそうだ。話が真実かは分からぬが、ドルジには趙の心遣いが嬉しかったのである。

「はい。趙大将軍ご健在の禁軍の名に恥じぬよう一層邁進いたします!」

「それはよい心がけだ」

 訓練の再開に先駆けて、おのおの自己鍛錬をはじめる兵たちの中へ戻ろうとしたドルジの背後から笑い交じりの声がする。

「皆の者、余の期待に応えよ!」

 一段高い回廊に傑が二名の兵を伴って現れた。白い石造りの欄干と朱塗りの建造物の隙間を埋めるようにして彩雲が描かれた空間にいてなお、傑は独特の雰囲気をまとって見る者の眼を惹く。

 兵たちは訓練の成果を見せるように、直立し、それぞれの槍や矛で地面を突いて「応」と意気込んだ。だが、ドルジは佇まいは正したものの、口元は覚束なかった。

 傑はドルジを目で追てにやりを笑った。ドルジがしどろもどろとして答えぬのを分かっていて敢えて声をかけたようだった。

「貴様も励むが良いぞ。余はいつでも寝首をかかれてやるつもりだ。小宝」

 趙との話を聞いていたのだろう。傑はドルジを敢えて『小宝』と呼んだ。子供扱いしているのだ。

「今宵でも良い。褥を空けておいてやろう。弓だけはメルゲンと大層な称号を得ておったようだが、果たして槍や剣はどのように成長したのか見てやらんでもないぞ。赤子の成長は一日にして刮目するものありと言うしな」

 誰が! と言い返したい気持ちを抑え、ドルジは大笑いする傑の背中を見送る。

「皇上はお主をよほど気に入っているようだ。喜ばしいことだな。だが、くれぐれも血迷った真似はせぬよう」

 趙の言葉にドルジは黙礼した。

 血迷った真似とはいかなる所業だろう。それはビュレの皆の仇も取らずに、傑王の禁軍で研鑽をつみ、憎き曄国の兵力の一粒となって平安と繁栄に加担することではないか。

 彼は胸の奥で静かに赤らんでいた熾火に小さな火の手が上がるのを確信した。いずれは烈火となって曄の心臓を灰に帰してやる。と、この時のドルジは消えない火種を確かに持っていた。

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