第6話 日常への帰還

はっと瞼を開く。ここはどこだろうか。


飛び起きて反射的に右手を腰に回す。


『無いっ、どこにも無い!』


無いのだ。手のひらに掴むだけで安心感を与えてくれる、鉄と強化プラスチックの重み、自動拳銃Glockの感触が。瞬間的にパニックになりそうな心を押さえつけて、無理やり深く息を吸う。


落ち着け、まずは状況確認しなきゃ。視界に法隆寺が飛び込んでくる。そうだ、中学の修学旅行で行った法隆寺のポスターだ。そして、モフモフクマさんの『ジョージ』がベッドの上に横たわっている。私のお気に入りのぬいぐるみ。


『ここは、もしかしなくても私の部屋?!』


急に心拍数が上がる。息が浅く速くなる。なんで?さっきまで顔にへばりついていたトランスクライバーの触手の感覚がまだ生々しく残っているのに。


ドアを蹴破るように開ける。吊り下がっていたハートのオーナメントがぶっ飛んで壁に激突する。ドカドカと転げるように階段を降りる。


居間でスーツ着てコーヒーを飲んでいるのは母。キッチンにはエプロンをまとった父がベーコンエッグを焼いている。騒がしい娘の足音に何事かと顔を向ける父と母。私を見た途端に母はコーヒーを盛大に吹き、咳き込む。


「ミーちゃん、どうしたの?」


「何これ?お母さん?お父さん?」


祖母がウトウトしながら見ているテレビから滑らかなアナウンサーの声が聞こえる。


『…2月18日金曜日、今日の射手座のラッキーアイテムは…』


2月18日!人類の日常が終わった日だ。つい先ほどまで8月だったはずなのに。意味が分からない。祖母の手から引ったくるようにリモコンを奪い取り、チャンネルを変える。


『…次は肩を大きく広げて腕の運動…


長野県で野生化したアライグマと比べると…


今ならなんと、この卓上物干し竿も付いて驚きの3万9千8百円…』


おかしい、どのチャンネルもやってない。NASAの記者会見を。


「空だ、確かめないと」


おもむろに私は全速力で玄関へ走る。ドアを思いっきり開ける。「ゴスッ」と何かにぶつかる鈍い音がするが、そんなの気にしてる余裕はない。いつもの手入れのされてない庭だ。視線を空に向ける。雲一つない、清々しい青空。180度回って確かめる。


「無い!」


2月18日の朝、確かに私は見たんだ。白く眩く輝く天体、直径12kmの燃える小惑星を。人類すべての願いを壊す流れ星を。


頭を抱えて地面でのたうち回っている学生服の男子がいる。お向かいの佐々木ユキト。さっきドアを思いっきり開けた時にぶつかったやつだ。惨めにうめき声を上げているそいつの肩を強引に掴んで尋ねる。


「ユっくん、聞いて!今日って2月18日なの?2月18日?」


鼻を押さえながら、私に視線を向けるが、すぐに驚愕の表情に変わる。そして目をそらす。おどおどしながら口ごもったように答える。


「お、お、お、おっ…ぱ…」


顔が耳まで赤く染まっている。挙動不審すぎる。


「は?聞こえない!今日は2月18日なのって聞いてるの!」


「そう、だけど…あ、あ、あの、ミーちゃん…服!着たほうがいいよっ」


すらりと伸びた健康的な四肢、太陽の光をうけて透き通るような白い肌、充分以上に発達した胸。ようやく気付いた。私は下着1枚しか身に着けていない事に。


「へんたいっ!」


恥ずかしさから、倒れているそいつのお腹に力いっぱい蹴りを入れる。ユキトは驚きと痛みで理解不能な表情になる。再び海老のように丸くなって悶え苦しむ。


私は全力で私の部屋へ走る。父と母の唖然とした顔が通り過ぎる。ドアをしめて深呼吸する。


そうだ、冷静に状況を把握しなくては。2月18日なのに小惑星が落ちて来ない?いや、そこが問題じゃないな。もっと根本的な問題だ、大災害の起こる前に戻っていると言う事だ。


「ミコぉー、学校遅刻するよぉー!」


下から父の呼ぶ声がする。目覚まし時計は7時24分を指している。急がないと学校に遅刻する。


『学校?学校って何だっけ?』


過酷な環境の中で擦り切れてしまった心には、『学校』という概念がすぐには捉えられなかった。


『学校…そうだ、学校に行きたかったんだ。毎晩毛布の中で凍えながら、心に穴が開くほど切望したごく普通の日常。学校に行きたいよ!行きたい!』


ポタポタと流れ落ちる涙をそのままに、急いで服を着て、階段を下りる。


ダイニングルームでは起きてきたばかりのカツミとタクミが喧嘩しながら納豆トーストを食べている。居間ではお向かいの幼馴染み、佐々木ユキトが、血の出ていた額の消毒と絆創膏を父にしてもらっている。


「ミコ、寝ぼけてたの?何か怖い夢でも見たの?大丈夫?」


父が心配そうに聞いてくる。いつものウザイ父である。だけど今日は不思議だ。ぜんぜんウザく感じない。


「ミーちゃん、結構大胆な所あるよね?男子に裸でアタックとかさ。むふふふ」


と母が冷やかす。『アタック』の意味が文字通りの『攻撃』だったのがツボらしい。笑いながらウインクする。典型的な食えないユーモアセンス。いつも通りの母である。


トーストを1枚咥えて、靴を履く。少し考えてから、恥ずかしさを押し殺してユキトに声をかける。


「ユッくん、早くしないとおいてくよ!」


「えっ、こんだけボコボコにしたのはミーちゃんじゃんか、待ってよ」


ドアを開けると、ピリッと冷える2月の早朝の空気が肺へ流れ込む。


確かにあの日、この坂道は避難する人々でごった返していた。太平洋上に衝突すると予測される小惑星は高さが1~2kmの津波を発生させると発表された。私たちは高台の上にある高校へ避難しなければならなかった。はぐれてしまった子供の名を呼ぶ親、押さないでくださいとひたすらメガホンで叫ぶ消防団員、重すぎる荷物を必死に引きずる老婆、ここは地獄だった。いや、そこはまだ地獄への入り口だった。


あの日失ってしまった、ごく普通の高校生のごく普通の悩み。進路のこと、部活のこと、そして好きな人のこと。そう、好きな人のこと。


「ずっと会いたかったよ。ユッくん無事でよかった」


急に投げかけられた言葉を、眉間にしわを寄せて理解しようと努力しているユキトはなんだか可愛いのだ。


「えっ、ちょっと待って、昨日も会ったよね?」


幼馴染みの私は知っているのだ。この瓶底眼鏡を外すと稀有で耽美なイケメンが現れることを。


「ユッくん、手をつなごうか?」


「うん。えっ?え~!それってどういう意味っていうか、まじですか?」


一人で赤くなって取り乱しているユキトを横目に歩道橋を渡る。コバルト色の吸い込まれそうな青空を見上げて私は心の中をぶちまける。


「もしかしたらさ、明日隕石が降ってきて、みんな死んじゃうかもしれないじゃない?私さ、後で後悔したくないのよね。もうユッくんを失いたくないんだ。ずっと欲しかったチャンスが来たんだから、はっきり言うよ」


ユキトはあっけにとられた表情のまま立ち止まった。自転車通学の生徒たちが通り過ぎてゆく。


「私、ユッくんのこと好きだよ」


そこで突然の告白を、目をつぶって反芻するユキト。無理もない。今まで恋愛感情などこれっぽっちも養ってこなかった人間関係なのだから。深呼吸して再び反芻し、やっと理解したようだ。


「こういうのって初めてだから何て言ったらいいのか分からないけど、『ありがとう』でいいのかな?」


ためらいながら、ユキトはそっと右手を差し出す。私はその手を取る。ちょっと汗ばんでいる手のひらを通して、温かさを感じる。生きていると感じるのだ、私と私の好きな人が。


もしかしたら、不憫に思った神様が、もう一度チャンスをくれたのではないのだろうか?それともすべては夢だったのだろうか?


二人で歩くこの坂道からは市内が一望できる。ここに多くの日常があって、一人一人がそれぞれの人生を送っている。私の人生も、その数ある中の日常の一つに過ぎないのだ。昔はそのちっぽけな人生がとてつもなく嫌だった。今はそのちっぽけな人生が限りなく愛おしく感じる。


『ありがとう、みんな』


私はそっと心の中で呟いて歩き出した。

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