Ⅳ.(2)キール

 『J moon』にかかってきた電話は、奏汰からだった。


 電話に、蓮華が答えた。


「団体さん? ちょうど今空いてるから、いいわよ」


「やった! ありがとうございます。ママ、きっと驚きますよ!」


 奏汰の予告通り、約一時間後、十六人の団体客が、『J moon』にやってきた。

 男性客の中、唯一、女性であるゆかりが足を踏み入れると、蓮華の目は釘付けになった。


「まさか、……香月ゆかりさん!?」


 驚いている蓮華に、奏汰が笑いかけた。


「そうなんです! ママ、ずっとファンだったでしょ? 良かったですね!」


 信じられないという表情のまま、しばらく動けないでいる蓮華に、ゆかりが微笑んだ。


「突然、ごめんなさい。大丈夫だったかしら?」


「大丈夫です。ありがとうございます!」


 頬を染め、感動した様子で頭を下げる蓮華を、ゆかりが改めて、珍しそうに見た。


「あなたが、こちらのお店のママなの? 意外だわ、随分お若いのね」


「たまたまですが、お店を持つことが出来ました。若輩者ですが、今後ともよろしくお願いいたします」


「こちらこそ、よろしくね」


 目の前の蓮華に、ゆかりは、にっこり笑いながら、手を振ってみせた。

 おいでおいでをする振り方だった。


 彼女の経歴を知る蓮華と奏汰には、その仕草は、アメリカにいた時に身に付いたものだと見当が付く。


「そういえば、優さんは、いないんですか?」


「優ちゃんは、バーテンダー仲間と研修があって、こちらには寄らずに、そのまま帰るそうよ」


「……ってことは……」


「そうなの。人手が足りないの。だから、奏汰くん、せっかくのお休みだけど、ヘルプ!」


 蓮華が両手を合わせ、すまなそうに笑う。

 ゆかりの目が輝いた。


「あら、ベースくん、きみ、カクテル作れるの?」


「はい。まあ、バイト程度にですけど」


 奏汰はゆかりに会釈すると、従業員出入り口に向かって行った。

 ゆかりの兄と、オーディション受験者たちは、テーブル席におさまった。


 翔を見つけた蓮華が、カウンターのゆかりの隣席に招いた。

 翔は、特に嬉しそうでもなく、真面目な顔で座る。


「どう? オーディションは、うまくいった?」


 尋ねた蓮華に、素っ気なく「はあ、まあ」とだけ返事をした。


「あの、結果が出る前に、こんなこと訊くのもなんですけれど、この子たちの演奏、いかがでした?」


 遠慮気味に、蓮華が、ゆかりに尋ねた。


「そうねぇ、ギターくん、ちょっと演奏が固かったかしら?」


 翔は黙っていた。


「送ってくれたデモは良かったわよ。のびのびしていて」


「……ありがとうございます」


「センスはいいと思うわ。だから、アドリブ1コーラス、追加したくなっちゃったの」


「そうなんですか!?」


 驚いて口を挟んだのは、蓮華だった。


「すごいじゃないの、翔くん! あたしも、前から、この子、技術だけじゃなくて、センスがあると思ってたんです! 良かったわね、翔くん!」


 蓮華が、自分のことのように喜ぶが、翔は、ちらっと、上目遣いに彼女を見ただけで、ふっと目を反らした。


「納得行かなかった?」蓮華が、翔の顔を覗き込む。


「ああ、全然ダメだね」投げやりな言い方で、翔が返す。


「全然てこともなかったわよ」


 ゆかりが面白そうな瞳で、翔を見て笑った。


「慣れよ、慣れ。あなた、ライヴ慣れしてそうに思えたけど?」


 ゆかりに、翔が、またもや真面目な表情になる。


「ボサノヴァを人前で弾いたの、初めてだったもんで。もっと前からやっとけばよかったって、オーディションの最中、後悔しまくってました。それで、気持ちが切り替えられないままセッションになって。オーディションなのに楽しくて、もっとノリたかったのに、奏汰とのボサノヴァの出来引きずって、どんどん悔しくなっていって……ああ、ホント悔しいですよ!」


 着替えた奏汰が、カウンターの中から、翔にウォッカ・トニックを差し出した。


「お疲れ! でも、翔、お世辞じゃなくてホントに良かったぜ! 俺は、始めにお前と演奏したボサノヴァでリラックス出来たんだぜ」


「あなたは、楽しそうに弾くわね」


 苦笑して翔を見ていたゆかりが顔を上げ、奏汰を見た。


「この子は、大人とのセッションに慣れてるんです」


 蓮華が説明した。


「なるほど、場慣れしていたのね。ウッドもエレキも出来て、表現の幅が広がりそうね」


「ありがとうございます!」


 嬉しそうに、奏汰の顔が輝いた。


「それで、私には、何を作ってくれるの?」


「ワインはお好きですか? ゆかりさんのイメージで、白ワインをベースにしたカクテル、キールはいかがかと思いまして」


「キール、美味しいから好きよ」


「良かった! では、こちらになります」


 ベルベットを思わせる、明るく透明感のある赤いカクテルを、奏汰は、ゆかりの目の前に、そっと置いた。


「いただくわね」


 奏汰に微笑み、ゆかりがワイングラスに口を付ける。


「美味しい!」


「ありがとうございます!」


「なんだか、これまでの疲れが癒されるわ」


 身体の芯にまでカクテルが染み入ったような声で、ゆかりが感想をもらした。


「一週間、オーディションにかかったんですもんね」


「まあ! 本当に、大変お疲れ様でした!」


 奏汰に続いた蓮華が、ゆかりに頭を下げる。

 ゆかりは笑うと、キールのワイングラスを持ち上げ、眺めてから口に含む。


「ベルベッドみたいな舌触りで素敵。濃厚なのに、白ワインのせいか、さっぱりしていて美味しいわ。ゆっくりいただくわね」


 グラスにクレーム・ド・カシスを少し入れ、白ワインをそそぐだけのカクテル。

 気に入ったゆかりが、奏汰に二杯目のキールを頼む頃、蓮華は、テーブル席の、ゆかりの兄に挨拶をし、そこにいる若者たちを労っていた。


 翔は、一杯目のウォッカ・トニックを飲み切ると、帰ると言い出した。


「もう少し、飲んでいけばいいのに」


「いいえ。俺、練習したいんで」


 ゆかりに引き留められても、翔は立ち上がった。


「今日は、ありがとうございました。俺、もっと練習して、またオーディション受けますから、その時こそ、よろしくお願いします」


 目を丸くするゆかりに、真面目な表情のまま頭を下げる。


「今日は、菜緒んとこに泊まるから」


 奏汰にそれだけ言うと、ギターケースを背負った翔は、落ち込んだような溜め息を吐いて席を立った。


「……彼、落ちたと思ってるのかしら?」


 呆気に取られていたゆかりが、奏汰を見上げる。


「結果というより、自分の納得出来る演奏が出来なかったことが、悔しいんだと思います。あいつ、本当はもっといい演奏するんです。それを、オーディションで発揮出来ないと意味がないことは、あいつもわかってるんです」


 会計を済ませ、肩を落としてドアの向こうへと消えた翔を見守る奏汰に、ゆかりは言った。


「あんまり気を落とさないよう、言っておいてね」


「伝えます」


「あなたは、今日はどうだった?」


「とにかく、俺は、今の自分を出し切ったと思います。翔とのデュオも、ゆかりさんとのセッションも楽しかったし。だから、落ちても悔いはないと思います。落ちたら、すっごく残念ではあるけど」


 奏汰が、肩を竦めて笑った。


「キールのお礼に、少しだけ種明かしをするとね……」


 ゆかりは小声になった。


「ライヴでは、今日の子たちとセッションしようと思っているの。昨日までのオーディションでは、ちょっと落とす子はいたけど」


 奏汰は少し緊張して、ゆかりを見た。


「今日はレベルが高かったわ。デモテープを一緒に聴いてた兄が、そういう風に組んだんだけど」


「そうなんですか……」


「セッションは、若い子たちの励みになってもらおうと思って。音楽する若者が増えることは喜ばしいことでしょう? その一方で、私が本当に探しているのは、コンサートホールで演奏する相手なの」


 奏汰が目を見開いた。


「そうだったんですか。もし、それに選ばれたら最高ですね!」


「でも、若手の多くは、学校の講堂だったり、小さなライヴハウスでの演奏が多くて、ホールでの体験なんて滅多にないでしょう? 借りるだけでもお金がかかるし。だから、今日のような小さい場所で場慣れしてるとか、デモテープの録音では上手く弾けたとかは、判断基準にはならないのよ」


「はあ……」


 ポーカーフェイスで相槌を打つ奏汰は、心の中では落ち込み始めた。


「あくまでも、この一週間のオーディションは、コンサートのメンバーを見据えて選ばせてもらおうと思っているの。まあ、私の中では、ほとんど決まっていて、後は人数を絞るだけだけどね」


 どきん! と、奏汰の心臓が大きく鳴った。


 もう決まったも同然なのか……。

 ダメかも知れない……。


 愕然とした奏汰は、翔と同じように、次のオーディションを受けることを考え始めていた。




「奏汰くん、今日は、ありがとう! まさかのゆかりさんに来てもらえるなんて、嬉しかったわ!」


 ゆかり一行団体客と従業員も帰った後、カウンターで隣に腰かけた蓮華が、私服に着替えた奏汰に笑顔になった。

 微笑み返した奏汰は、すぐに翔と同じような溜め息を吐き、ゆかりとの話を蓮華に打ち明けた。


「その話だと、今日のメンバーとは、最低でもセッションはしてくれるみたいだから良かったじゃないの。それだけでも、大きな第一歩でしょ?」


 やさしく諭す蓮華を、奏汰は見つめ直した。


「そうだよな。俺、図々しくも、高望みしてたのかな。初心に返らないとなー」


「焦らないのよ。いきなり、コンサート・メンバーに選ばれるとは思わない方がいいわ。気軽に出来るセッションの方が奏汰くんは慣れてるんだし、翔くんも慣れるの早いと思うわ。あなたたちのセンスは、ゆかりさんにもきっと伝わるはずって、あたしは思う」


 白い華奢な手が肩にかけられると、頬に、蓮華の唇が柔らかく触れていた。


「……なんか、癒された。もう一回」


 率直な彼のセリフに、蓮華がくすくす笑う。


「じゃあ、今度は、こっち側ね」


 反対の頬に、蓮華が、やさしく口づける。


「癒される。もっと」


 蓮華の白い手が、低い体勢になった奏汰の前髪を持ち上げると、唇が、額に当てられる。


「今度は、……ここ」


 人差し指を、奏汰は、自分の唇に持っていった。


 すべてを包み込む微笑みで、蓮華は、リクエストに応えた。

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