マチルダの夢想
たれめ
第1話
それは夢か、現実か。それともどちらでもないのか。
猫が微笑んでいた。犬と違い、猫は滅多に口角をあげないものだが、その猫は招き猫のように明らかな微笑みをたたえている。
「死んじゃったの?」
気づいたときには、震える声で尋ねていた。見知らぬ猫にも見えるし、よく知った存在にも思えるその猫は、微笑みを崩さずにゆっくりと頷いた。やっぱり、あの子なんだ。そう思うと、その猫の様相ははっきりと、ましろのそれになっていく。
「どうして? まだ、7歳だったのに」
こちらの狼狽ぶりとは対照的に、猫はひょうひょうとしたものだった。どこからともなく気持ちの良い風が吹き、猫のひげがふわふわと揺れる。猫は目を細めると、音もなく立ち上がった。
「待って」
慌てて引き止めようとするが、猫は既にこちらに背を向けて始めている。
「ましろ、待って、いかないで」
華奢な腰をゆったりとゆらしながら、ふわふわの手足が一歩前へ出た。針金のようにしっぽが持ち上がり、鞭のようにピシャリとしなる。
逝かないで。
言おうとした言葉をそれ以上口にすることはできなかった。この別れが絶対的なものだと、本当はわかっていた。
「まり子、大丈夫?」
麻衣が肩に手をかけて私ははっとした。
「麻衣」
「顔色悪いね。仕事って気分じゃないでしょ。かわいそうに」
麻衣はきれいに整えた眉をひそめて深刻な表情で私を見ていた。肩の長さで切りそろえられた髪がするすると耳から流れ落ちてくる。彼女の風貌には、27歳OLが兼ねそなえるべき聡明さと華やかさが完璧なバランスで備わっていた。
「ねえまり子。ランチ、外行かない? 気分転換した方がいいと思う」
慮ってくれるのは有り難かったが、とてもそんな気分にはなれなかった。
「ううん、やめとく」
「でも」
「朝いっぱい食べたから、大丈夫だよ」
「そう…?」
目で「そっとしておいてほしい」と語れば、麻衣もその真偽を詮索する気はないようだった。
「じゃあ夕方スタバいこ。ね?」
「それなら」
「よし。じゃああとでまた来るからね。お腹空いたら何か食べるんだよ」
「わかった」
「うん」
麻衣は私の肩に再度手を起き、親しげな笑みを浮かべてから立ち去った。
麻衣が私を気遣ってくれるのは、私の愛猫“ましろ”が2日前に亡くなったからだ。すい臓がんだった。食欲がなくなってからは早くて、どうしようもなかった。状況が掴めないうちに、彼はあっという間に力を失い、そして逝ってしまった。
ペットは死ぬと、虹の橋というのを渡るらしい。そこではみんな幸せに暮らし、いつか飼い主が迎えにくるのを待っているという。しかし一体どのようなところなのだろう。ふてぶてしく、7年間一人っ子を謳歌したうちの子は、そこでうまくやれるだろうか。
思わず目頭にこみあげるものがあり、慌てて頭を振る。朝からまったく仕事が手につかなかった。昨日は有休を使ったが、経験上、復帰を引き伸ばしてもろくなことはない。
改めてフロアを見渡せば、まさに昼食どきという感じで、みなあちこちで小さな集団を作ってオフィスから出ていく。念のため自分の胃袋に問いかけてみたが、やはり何かを食べようという気にはなれなかった。
心、ここに在らず。ましろ、この世に在らず。
だったら一体、何があるというんだろう。
その空白を埋めるものは、少なくとも一日二日で見つかるものとは思えなかった。
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