2. 教室の彼女たち
教室の中に入ると、息苦しくなることがある。
大抵、そういう時は誰かが誰かをいじめている時。
今日も休み時間に野崎真由美とその腰巾着女子たちが加藤すみれの席を取り囲み、難癖をつけていた。何が原因だったかは覚えていない。そもそも、そんなことにたいした意味はないのだ。彼女たちはただすみれに嫌がらせをし、傷つけたいだけなのだから。
自分の席からうんざりした視線を送っていると、偶然、真由美と目が合ってしまった。
「小倉さん、何か?」
半分馬鹿にした笑いを顔に貼り付けて、真由美が私に言った。すると教室にいた全員が、一斉に私を見る。すみれもそっと肩越しに私を見た。彼女の大きな黒い瞳は涙にくれているように見えた。
その視線がなによりも私の心を刺す。それはきっと、あの子に似ているから。
あの子。ニーナ。
ニーナは、アプリコット色の耳の垂れた小さなうさぎ。
小学六年生の時に、父親にねだって買ってもらったうさぎだ。
けれど、死んでしまった。私のせいで。
私はいたたまれなくなって、首を横に振ると無言で席を立ち、教室の外に出た。その瞬間、真由美と腰巾着女子たちの笑い声がはじける。
「何、あれ?」
「小倉さんって暗いよねー」
「相手しなくていいよ、あんなの」
ああ、息ができない……。
苦しくて、目をぎゅっと閉じていると、とんと肩を叩かれた。
「どうかなさって?」
目の前には、着物姿の美人がいた。
ああ、そうだ。
私は今、石屋さんにいるのだった。
「あ。いえ。何でもありません……」
少々、しどろもどろになりつつ、私は自分の手の平に乗っている水晶を見下ろす。
相変わらず、いびつなそれは。
「私の心みたい……」
「あら」
暗く呟いてしまった私の言葉とは正反対な明るい声でまちこさんは言う。
「それは素敵なことね」
「は?」
一瞬の沈黙の後、私はなんとか問い返していた。
「それ……どういう意味ですか?」
「そのままの意味よ」
そして、にこりと微笑む。勿論、私は笑えない。
「そのままって、つまり、私の心はいびつでいいということですか?」
「あら、お気に召さないかしら?」
ぐっと黙り込む私をしばらく眺めた後、彼女は優しく言った。
「完全無欠な人間なんて何の魅力もないと思わなくて? 人は人のいびつな所や、ちょっと壊れている部分を愛おしく感じるものなのよ。いびつなのは人である証拠」
そして、人差し指で私の胸の辺りを指す。
「心が痛いのは生きている証拠。何を恥じることがおありかしら?」
ざわざわしていた私の心が、途端に静かになった。
氷が張ったような静けさに、自分の心ながら私は戸惑う。
「私、ニーナのことを思い出して……」
気がつくと勝手に口が動いて話し始めていた。
「ニーナ?」
不思議そうに、でも、穏やかにまちこさんは聞き返してくる。私は落ち着いて答えることが出来た。
「小学生の頃に飼っていたうさぎです。でも、私は中学受験を控えていて、母親が勉強の邪魔だからと強引に近所の家にあげてしまったんです。私は嫌だったけど、母親に逆らうことが出来なくて結局、黙って、貰われていくニーナを見送りました。貰われた家には私より年下のやんちゃな男の子がいて、それが心配でした。どう考えても、ニーナを大切にしてくれそうになかったから。
そして……貰われて三ヶ月後にニーナは死にました。
その家のおばさんが言うには、ゲージの掃除をしようと扉を開けたらニーナが逃げ出して、庭の階段から落ちて死んだって。事故だったって。すぐにそんなの嘘だと思いました。
だって、ニーナはすごく臆病な子だったから、外に飛び出したりなんか絶対にしない」
「ニーナちゃんが死んだこと、自分のせいだと思っているのね?」
私はこくりと頷く。
「私がちゃんとニーナと離れたくない、嫌だって言っていたら……何も言えなかったからニーナは死んだんです。声を上げることをためらって、母親に逆らわずいい子であることを私は選んだ。そのせいでニーナは……」
「いくら後悔しても過去をやり直すことは出来ないわ」
静かにまちこさんは言った。
「だけど、過去を変えることは出来てよ」
「え? 過去を変えるって……?」
「どんなに辛い時でも、孤独な時でも必ず一人ぐらいは味方はいるものよ」
まちこさんは問いかける私にほんのり笑って言った。
「あなたにも……それからお友達にもね」
「え? いえ、私が聞いているのは過去を変えることが出来るって……ん? あの、お友達って……」
話しが噛み合ってないと戸惑いつつも、まちこさんの意味深な言葉が気になった。今、お友達と言われて思いつくのは加藤すみれのことだ。だけどまちこさんに彼女の話しはしていない。なのにどうして。
「百五十円になります」
「え?」
突然言われてぽかんとする私に、まちこさんは手の平にある水晶を指差した。
「お買い上げいただけるのでしょう? お客さま」
「あ、そうか。はい」
弾かれたように私は返事をし、慌てて鞄から財布を出す。小銭をつまみあげてから、はっとして言った。
「あれ、今、百五十円って言いました?」
「ええ」
「そんな安いの?」
「あーら、私がぼったくるとでもお思いでしたかしら?」
はい、そうですとも言えず、私は曖昧に笑いながら彼女にお金を渡した。それから、ちょっと迷いつつ、もう一度問いかけてみる。
「あの、ひとりぐらいは味方がいるっていうのは……」
「人は優しい。人間の本質はそうであると私は信じていたい、というただの願望ですわ」
「人は優しい……」
その言葉が救いの呪文でもあるかのように、私はしばらく口の中で何度も繰り返していた。
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