第16話 その別れの味は

「どうするつもりだ、キビィ!」


 目の前には大きく開かれた竜のあぎと。キビィの身の危険を感じ、前に出ようとするテリオ。しかし、それを手を上げ制止したのはキビィ自身だった。


「――聞いたことはあるか? 遥か昔、この世界には月を食った竜がいたらしい」


 その口調はまるで、詩を朗読するかのように緩やかに。

 その足取りは軽く、踊るようにステップ踏みながら。


 臆することもなく、一歩、また一歩とキビィはクルーデの方へ歩を進める。


「あまりに荒唐無稽なお伽噺すぎて、どんな味かは私には想像も付かないがな」


 あたりを包む空気が、その黒い靄の流れが、キビィを中心に変わっていく。それは彼女の言の葉に合わせるように。テリオの右腕へと集まり始めていた。


 空中に浮かんでいたものも、地面に広がっていたものも。テリオから溢れだしていた靄の全てが、黒腕と同化していく。


「その話を聞いてからは、一度でいいから‟自分だけの特別なもの”を食ってみたかった。いろいろ試してはみたんだが、よくやっても自分の尾を齧るだけ――それじゃ満足できないんだ」


 そして、それは次第に形を変えていく。徐々に徐々に輪郭ができ、一対の角が生え、牙が生え揃う。――そう、クルーデの左腕にあるものと同じ、竜の頭へと成りつつあった。


「目の前に、こんなに美味そうな‟私”が転がっていてだなぁ……。食欲を抑えることなんて、出来るわけがないだろう!」


 ――僅かな時間で完成されたテリオの右腕の黒竜。クルーデの左腕から生え、大口を開けていた黒竜。向かい合う二頭の竜は、まるで鏡写しのように細部まで同じ。


 ただし、その大きさには天と地程の差があり、クルーデの黒竜に対して、テリオの黒竜はその倍以上もあるのだった。


「――いただきます」


 牙を剥きだしにして顎を開くその様は、まるで大きな壁が迫るが如く。クルーデも、クルーデの黒竜も、全て丸ごと飲み込める程で。キビィによって動かされる靄の向こう側で、テリオは何が起こっているのか把握することができない。


「――っ……!」

「……ほぅら――」


 クルーデの眼前に迫る、巨大な顎。奥に広がっているのは、無限に続いているかのような深い黒――すべてを飲み込み押しつぶしてしまう闇の世界。その光景はクルーデに、否応なく過去の心的外傷トラウマを思い出させる。


 それはクルーデが意識したわけでもなく。決してそうしようと思ったわけではない。ただ自然な反応として、身体が勝手に『じりり』と一歩後ずさっていた。


「――退

「くそっ……!」


「待て、キビィ!」


 痛い所を目ざとく突かれ、苦々しい表情をするクルーデを見て、キビィは愉しそうに目を細める。このままではクルーデを止めるどころではないと、テリオは腕を引いたが意味も成さず。無情にも黒竜の顎が閉まり、その衝撃によって砂煙が立ち昇る。


 本来は自分のものではないのにも関わらず――黒竜を通して、テリオは嫌な手ごたえを感じた。


「――クルーデっ!」


 ――の、だが。


 少しずつ晴れていった砂煙の中で、膝を付いた状態でクルーデが佇んでいた。黒腕は消え、肘から先を失った状態に戻っている。対してテリオの黒竜は、鼻先を天へと向けたまま“それ”を咀嚼しているのだった。


「黒腕だけが……喰われた……!?」

「あぁ、美味い! 舌が痺れる程の刺激が走ったぞ! 愛が最高の甘味料ならば、憎悪は最高の香辛料だ!」


 この世で誰も食べたことのないであろう食材。

 ‟自分を食した”という事実に、喜びに、打ち震えるキビィ。


「――焼け付くような辛さだった。永劫忘れることのない味だったよ」


 止まることなく湧き上がってくる喜びを押さえるように、キビィは自身の身体を抱きしめる。残滓とはいえ分かれていた半身を取り込んだ影響が、その身から発せられる圧力が更に増しているのだった。


「……さて、雑味は不要だからと除けはしたが――」

「――待て! 殺さないでくれ!」


 黒竜の顎が再び開き――今度こそクルーデの全身を飲み込もうとしたところで、テリオが叫ぶ。


「……分かった。他ならぬお前の頼みだ。だが、ここからどうするつもりだ?」


 その牙は頭まであと数寸というとこまで近づいたのにも関わらず、クルーデは身動き一つすることがない。すんでの所で止まり、ゆっくりと開いて行く顎の間から声が上がったのだった。


「テリオォォォォォォ!」


 力を失い、再び片腕に戻り、莫大な喪失感を味わったにも関わらず――クルーデの敵意は、憎しみは、再び燃え上がっていた。


 ここで屈してしまえば、自分にとってテリオは永遠に越すことのできない壁になる。このままでは終わることができないと、テリオを真っ直ぐに睨みつけるクルーデ。


「……決着をつけるのは俺の役目だ。お前の力も必要ない」

「まあいい……。お前の右腕になるという約束は果たせたからな」


 黒い靄が、全てキビィへと吸い込まれていく。テリオの手元に残っているのは、肩から先の義手のみ。それももう自由に動くことはなく、ここから先は正真正銘、これまでの実力だけに頼ることになる。


「いつから俺はお前のライバルじゃなくなった!? いつから俺は――お前に情けをかけられなきゃいけないほど惨めな存在になった!!」


 幼い頃からの競う対象として、ライバルと据えていた相手にここまでされて、クルーデは我慢など出来るはずがなかった。目の前の男テリオに対してだけは負けを認めることはできない。その視線がそう物語っていた。


 ルティスとの戦闘で義手を失ったが故に、残った右腕のみで落ちていたルティスの剣を拾い上げ、構えるクルーデ。


 テリオには義手が残っているものの、その差は殆ど無いようなもの。黒竜の力を失った二人が、正面から剣を交える。


こいつで最後だ、クルーデ!」

「最後に決着をつけるならそうだよなぁ! テリオォ!」


 幼い時から幾度となく繰り返されてきたこと。しかし、生死を賭けてのものはルヴニール襲撃の時が初めてで。そこでようやくクルーデは満足のいく可能性を見出した。


 ――真剣勝負でなければ意味がないと。それまでに背負っているものは一切関係が無く、ただその時に全力を尽くすことに意味があるのだと。


「どうしたぁ! 足元がふらついているぞ!」

「お前もォ! はっきりしてんのは声だけだろうがァ!」


 一度、二度と剣戟を打ち鳴らしているものの、二人とも既に限界が訪れており、長く戦い続けることなどできない。そこに駆け引きなど無く、一撃一撃が全力で振るわれる。


「ハァ……ハァ……」

「ハッ……ハッ……」


 炎に包まれる中、テリオを負かした時の高揚感。館で義手を壊された時の危機感。これまでのどんな相手にもそんな感情を抱いたことは無く、これほどまでに充実した殺し合いは無く。


「――――」

「ッ――」


 再び剣戟が鳴り始める。まるで素人同士で戦っているかのような鈍く、重い、あまりにも雑な音。ただの剣のぶつけ合いにまで退化した争いに――クルーデがどこか楽しいとさえ思い始めたその瞬間だった。


「オオオオォォォォォォォ!」

「――っ!?」


 ――決め手となったのは、クルーデが過去に心を奪われたあの一閃。


 テリオが放った一撃に、クルーデは反応することができない。握られていたはずの剣は手の内には無く、痺れすらも未だにやってこない。ただただ勝手に、剣が天高く弾き飛ばされたようにしか認識できなかった。


「――――」


 武器を失ってしまったクルーデは、これ以上戦うことが出来ない。素手で戦おうにも、身体がこれ以上は思うように動かないのだった。


 永い戦いの――決着が着いた。


「……全力で争って負けて。これほど悔しいことはないな――」


 そう言って薄く笑うクルーデは、崖の方へと後ずさっていく。幼い頃から共に過ごしていた中で、初めて見るその表情にテリオは猛烈な不安感を覚える。


「――っ!? クルーデっ!?」


 そして、崖の端まで辿りついたクルーデは――そのまま谷へと跳んだのだった。


 急いで駆け寄り、なんとかして掴もうと腕を必死に伸ばそうとしたテリオだったが、激戦のあとで体が思うように動かない。谷の底へと消えるクルーデを追うように、テリオの体もグラリと揺れる。


「――テリオ!」


 身体が引かれ、足までもが完全に地面から離れようかというところで――同じく崖の方へ飛び出したキビィが、テリオの襟首をつかみ引き戻したのだった。


「お前まで落ちてどうするんだ!」


 村へと帰ることを拒否し、自らの死を選んだクルーデ。その事実に混乱し、力なく崩れ落ちるテリオ。その目からは、親友を失ったショックに涙が滲みだしていた。


「クルーデ……どうして……」






 それからしばらくの間、テリオはまるで抜け殻のようで――キビィが何を話しかけても反応を返さなかった。もう涙は無いものの、その表情には疲労の色が濃く出ていて、戦闘による肉体的なもの、というよりも目的を見失った精神的な割合の方が大きかった。


「……そろそろ落ち着いたか?」

「……あぁ」


 座り込んだまま数十分が経過したところでキビィが尋ねると、ようやくテリオはか細い声で答える。まるで敗北したのがテリオの方であるかのようだった。


「アヴァンに戻るぞ、テリオ」


 いつまでもここで座り込んでいるわけにはいかないと、ルティスを担ぎ上げるキビィ。


 幸いルティスの状態はそれほど悪いものではなく、どの傷も致命傷からは外れており、黒炎によって軽いやけどを負っているだけ。流石に鎧は邪魔なので辺りに放置してきたものの、意識の無い大男を担げる者などそうはいないのだが――黒竜の力全てをその身に宿している今、まだ余裕が有り余っているキビィだった。


 行きの時と同様に、荒い道を進んでいくのにも全く意に介すこともなく。どんどん先へ進んでいく彼女に、テリオは重く沈んだ体を引きずるようにして付いて行く。


 そうしてテリオが最初に谷を降りた地点に戻ると、ちょうど他の騎士団員たちが見えたのだった。先に着いていたキビィが、憔悴しきっているテリオの代わりにと、何が起きたのかを説明している。


 自分達が追いついた頃には、ルティスは既にクルーデに負けた後だったこと。

 クルーデの暴走の原因が、黒竜の呪いによるものだったこと。


 己の正体と、テリオも呪いに侵されていたことは伏せ――戦いに結末については、テリオが戦った時には、既にクルーデは呪いによって限界だったと嘘を吐いた。


「そうか……君たちには世話になった。団長は自分達がアヴァンまで連れて帰ろう。君たちも一緒に、何か礼をしなければな」

「……いや、いい。私たちは少ししてから、ゆっくりと戻ることにする」


 そう言って団員たちの申し出を断ったキビィは、テリオを連れて岸壁の人目のつかない辺りへ移動する。二人の――これからの話をする為に。


「……これからどうするんだ?」

「村には戻れない。俺は……クルーデの代わりにはなれない」


 村を、大陸を飛び出してクルーデを追い続けて。結局は失敗に終わってしまった。


 ――全てが無駄に終わってしまった。


 その事実を背負いながら、村にどんな顔をして戻ればいいのかと。自責の念に駆られる生活に、テリオは怯えていた。


「なら私と旅を続ければいい。私が力を貸してやれば世界中のどこにだって行ける。何なら騎士団にだって――」

「…………」


 キビィの『二人で旅を続けたい』という感情。しかし、テリオにはそれを受け止めることが出来ない。


「私は一人でも旅を続けるぞ。……いいのか?」

「……すまない、キビィ」


 最後の通告だと言わんばかりのキビィに言葉にも、テリオは謝罪の言葉を口にすることしかできなかった。そんなテリオの答えを聞き、惜しみながら続けるキビィ。


 彼女の周りには、黒い靄が湧き上がり始めていた。


「この世界は、私がまだ食べたことのないもので溢れている。それらを前にして、私は我慢することなんてできない――」


 角が、爪が、翼が――

 黒い靄によって形成されていく。


 ――竜としての姿。その片鱗。


 それはキビィの、人であるテリオとの旅の同行を諦めたという意思表示だった。


「――最高に味付けされた‟私”自身さえ、今までで二番目の美味さだった」

「二番目? ……それじゃあ一番美味かったのはなんだ?」


 わざわざ“二番目”と強調された言葉。まるで尋ねられることを望んでいるような言い方に、仕方なくテリオは従ってみせると――キビィはニヤリと笑いながら答える。


「……お前の右腕かな」

「……笑えない冗談だ」


 あまりにも黒々とした冗談に、苦笑いを浮かべるテリオ。

 それが苦笑いだったとはいえ、キビィが久々に見たテリオの笑顔である。


「冗談なんかじゃないさ――」


 テリオの笑顔に安心したキビィは、そう小さく呟いて。テリオの首へと腕を回し――右の頬へと、そっと口付けをする。


「…………!」

「またどこかで、会えるといいな」


 最後に別れの言葉を告げて。黒い翼をはためかせ、ふわりと浮きあがるキビィ。


 振り向くことなく、谷の向こう側へと飛んでゆく彼女を――

 テリオは静かに見送ることしかできないのだった。

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