AM3:27の喫煙所
ゲブ
腹が痛い
「これは各駅停車では無い!繰り返す!これは各駅停車ではない!」
『warning!warning!』
頭の中でけたたましく鳴り響く警告音と怒号。緊急事態だ、それも特A級の。場合によっては多大なる人的被害出る可能性もある。非常にまずい。
今朝飲んだ牛乳か昨日食べた生ハムか、はたまたストレスかは分からないが致命的に腹が痛い。多分これは下してる類のやつだ。
それだけならまだいい、厄介なのはこの電車が快速電車という事だ。
次の停車駅まで約28分、試合開始のゴングは鳴った。
世の中には、水無しで飲める下痢止めの薬があるらしいが私はそんなものは持っていない。健康優良児であり、いくら制服のスカートを短くしてもノーダメージ。生まれてこのかた下痢など数えるくらいしかなった事の無い私には不要だと思っていたのだ。
備えあれば憂いなし、後悔先に立たず、覆水盆に返らず。今の私の気持ちを形容する言葉はいくらでも見つかるが、下痢を止める手立てはひとつも見つからない。
無い物はない、それはもう仕方ない。問題はこれからどうするかだ。
とは言っても今は祈る事くらいしか出来ない。もちろん腹痛は良くならない、神に祈ったくらいで腹痛が治ったら医者も薬もいらない。だが脂汗が浮かび始めた頭にはこれしか浮かばなかった。
リュックに着いていた御守りを握りしめ叫ぶ、脳内で。
『おぉ、神よ!なぜ貴方はわたしを見放したのか!』
試しに祈ってみた。もちろん腹痛はとどまることを知らぬままだ。握りしめていた御守りが手から離れていく、そこには交通安全と書いてあった。もしかしたら祈る相手を間違えたかもしれない。
にしても人はなぜ激しい腹痛に見舞われた時神に祈るのだろう。それも普段信仰しているかなんて関係なく。すくわれるのは足元だけだというのに。もう祈ってしまった私が言うのもなんだが藁にでも縋ったほうが幾分かマシだろう、隠したり拭けたりするかもしれないし。
考えが本当にまとまらない、全ての意識が下腹部に集中している気がする。頭の芯が抜けてしまったような感じさえある。
落ち着け、まだ先は長い。ここでこんなんでは先が思いやられる。
そうだ、冷静になりたい時は素麺だか素数だかを数えろと誰かが言ってた気がする。
あいにく素麺は持ち合わせてはいない、ならば数えられるのは素数だ。
『一、十、百、千、万、十万、百万……』
なんだか違うような感じするが、数を数えたら少し意識が頭に帰ってきた気がする。
『……億、兆、京、垓』
数え終わってしまった。いや、もっと上もあるはずなんだが今の私の頭では垓までしか思いつかない。
数えることをやめた途端に腹痛が攻めてくる。それもより一層の痛みで。まさに疾きこと風の如し、攻めること火の如し、これぞ風林火山。腹中島の戦いは敗戦濃厚。
姿勢がどんどん前屈みになる、変な意味ではない。そもそも私にはそんなモノはついていない。ダメだ、せめて上を向こう。それが今できる唯一の抵抗だ。
気合いを入れて背筋を正す、目線も地面から上げた。そこに救いはあった。
『車内のトイレは3号車にございます』
車両の案内板に輝く便座マーク。なぜ今まで気がつかなった。よくよく考えれば長めの編成なら当たり前の話だ。神などに祈ってる場合ではなかった。ここは5号車、楽園は目と鼻の先にあった。
腹痛に耐えガクガクになってる足を無理やり動かし、出来る限り早いスピードで三号車に向かう。脳の表皮に直接汗をかいてるような焦りと、明確な救いを見つけた喜びが同居した頭の中は、フル回転してるようで停止していて、冷静でいようとすればするほど額から油汗を量産し続けた。
どけどけどけ、道を開けい。私の歩みを止めさせるな。鬼気迫る顔に出来の悪いクレイ・アニメーションのような歩き方をしている私は、他人から見たらさぞ気色の悪いことであろう。来週あたりには電車内を闊歩する奇人として都市伝説になっているかもしれない。だがノロノロ歩いていては私の体の中で一番重要なダムが決壊してしまう。どちらがマシかは一目瞭然だ。
泣く子も黙る顔をした粘土人形は4号車に突入。車両中央通路、敵影無し。オーライ、ここはダッシュで通過だ。
呼吸を整え下腹部に力を入れ直す。よし、いける。
理想的なクラウチングスタートから流れるような加速。風を感じる。いや、私は風になった。
きっと自己ベストを更新したであろう会心の走りをした帰宅部の足は、腹痛と相まってガクガクを通りこしてビクビクしていたのは言うまでもない。
視界の端にまるで妖怪でも見たかのような怯え方をしている幼児の顔が見えたが、きっと気のせいだろう。
そして4号車の端から端まで一瞬で移動した私は一回だけ深呼吸をし、ついにラストダンジョンに突入する。
(たのもーう!!!!)
3号車に続く扉を開けつつ雄たけびをあげる。もちろん心の中で。
だがしかし、そこに広がっていた光景に私は眩暈を起こした。
右に左に動き回る子供たち、そしてそんな子供たちをよそにママ友同士会話に華を咲かせる親。いつもだったら、なんとなく居心地の悪さを感じるくらいで特に気にもとめないが今は違う。緊急事態だ。この悪魔の子達を躱し、押しのけ、その先にあるサンクチュアリへとたどり着かなければならない。
考えただけで胃がキリキリと痛む。いや間違えた、腸がギュルギュルと痛む。どうやら私に残された時間は多くはないようだ。
『近づけばやられる、中央突破は避けるのだ』
(分かっています老師、急がば回れということですね)
私は、極度の緊張状態のあまり生み出してしまったイマジナリー老師の言葉を受け、座席に沿って移動する。
忌々しき悪魔の子たちがいるのは車両中央の右側、左側に沿れば接触はしないはずだ。スニークミッション開始。
お出かけなのかはしゃぐ子供たちを横目に、少しだけ早歩きの私。楽園はすぐそこだ。自然と顔が緩む、他は締めているが。
その時、体に衝撃が走った。
「ふうわあああああ…………」
とても自分の口から発せられたとは思えない声。不意を突かれた一撃に思わずしゃがみこむ。こうかはばつぐんだ。
耐えろ、耐えるのだ私。もう少し、もう少しなんだ。あとたった数メートルでこの苦しみから解放されるというのに。
「おねーちゃーん、だーいじょーぶー?」
だいじょばないわ、失せろクソガキ。
何か言ってやりたいが、耐えるのに必死で口をパクパクさせるのが限界だった。仕方がないのでひたすら睨みつける、コンプレックスだった三白眼がまさかこんな時に役に立つとは思わなかった。
小学生と思わしき子供を無言で威圧する18歳、なりたくない大人になってしまった。
明らかにおびえる子供をみかねたのか世間話を中断し子供の母親が近づいてくる。
「すいません、大丈夫ですか?うちの子ったら」
「あ、あ、だ、だいじょうぶなんで……」
受けたダメージのせいでぎこちない返答になってしまった。あくまでダメージのせいである、元々人と会話するのが苦手とかそういうワケではない。本当に。
「おねーちゃん、しゃがんでるからパンツ見えてるよ」
別の子供が寄ってくる、ひっぱたくぞクソガキ。再度睨みつけ子供たちを遠ざける、ついでに母親もだ。
立てば終わる、そう直感した私はしゃがみから四つん這いになり移動を開始する。女子高生が四つん這い。否、女豹のポーズと聞けば非常に背徳的な魅力を感じる気がするが、セクシーパンサーというより人を殺めるタイプの怨霊に近い。
息も絶え絶えにどうにかキルゾーンを抜ける。そしてついに楽園への扉の前に立つ、四つん這いだが
やっと、やっと解放される。顔を上げ扉を確認する。カギの状態を示すマークは赤。よし、使用中だ。
「えっ」
思わず声に出てしまった。頭が理解することを拒否している。意味が分からない、この赤いマークはなんだ? 血便か? なぜここまで来てなんだ? 楽園はここにあったんじゃないのか?
ノックをする、少し強めに。
コンコンッ
「入ってまーす」
おじいさんの余裕そうな声が返ってきた。クソったれが、いくら高齢者とはいえ百万回ほど死んでいただきたい。
なおも私はノックをする、かなり強めに。中からおじいさんの焦った声が聞こえてくるが関係ない。
ガンゴンッ!
「や、やめなさい!」
動揺を隠しきれないおじいさんの声はさっきより明らかに音量を増していた。だが私はそれにひるむことなく、むしろその声をかき消すがごとく猛烈にノックする。なるべく自分の腹痛を感じないように冷静に、無慈悲に、機械的に。
ドカカカカカカカッ!!
「うわあああああああ!!!」
おじいさんの声が焦りから怯えに変わった。勝ちを確信した私は扉の前を空け少し離れる。一瞬の間を置きおじいさんが中々いい勢いでトイレから出てくる。おじいさんは冷静を装いながらも足早に隣の車両へ消えていった。すまないな、これが弱肉強食だ。
気が付けば3号車には誰もいない、騒いでいた子供たちも母親ともどもいつの間にかいなくなっていた。きっと王者や天才が孤高というのはこういう事なのだろう。
そして私は悠然と楽園に足を踏み入れる。苦しみからの解放、例えようのない達成感、幸福感。内なる穢れを払った私には世界が輝いて見えた。
だが真の絶望はその先にあった。
遠足はお家に帰るまでが遠足、トイレはパンツを履くまでがトイレ。
簡潔に言おう。
「神に見放された」
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