第4話 皇子の殻と逆さまの騎士
「木の実でしのげるかしら」ユリユールは唸った。「弓矢がないわ。狩りをするつもりはなかったし。黒曜石と鹿の血と、麻の縄さえあれば、かんたんな罠を仕掛けられるんだけど……」
今更ながら、荷物を馬車のなかに置いてきたことを歯噛みした。父と自分以外が触れられないように呪文をかけた幌馬車は城壁のなかだ。不届きものが手を出せば、小さな稲妻がその腕を焼く呪文だった。けれど、自分自身が取りに戻れないのでは意味がない。
「獣などに関しては、安全ではないと言わざるをえないね」イフは言った。「城壁からあまり離れなければ大丈夫だとおもうけど、でも、動物の行動範囲についてぼくは詳しいわけではないし」
氷狼や熊が異変に気づいてこちらへ来ないともかぎらない、と続ける。ユリユールは思案した。彼女が知っている、獣を遠ざける簡単な魔術には、それでも日長石が入り用だ。かごにいれていた日長石が無い今、純粋に火を起こすことでしか、獣を遠ざけることはできない。しかし、この湿った土の上でどれだけの乾いた枝葉を集めることができるだろうか。
ふたりは森のなかの、ふっくらした苔の上に座って考えていた。凍りついた城壁が発する冷気に耐えきれず、城壁の上部を見失わない程度に森のなかに入り込んで、木洩れ日が次第に傾いて橙になっていくのを、焦燥しながら見つめていた。
「あなた、食べられる実やきのこはわかるの?」
「ぼくは植物図鑑を愛読していた」
淡々とした返答がどちらを意味するのかわからず、ユリユールは「わたしがきのこを集めるわ。あなたは苺を摘んで」苔のクッションから立ち上がり、裾をはらう。「わかるのだけでいいから」
「了解」
「それと、茂みの場所は忘れないようにしておいて」
さすが旅人だ、と妙に無垢な様子でイフは感嘆する。ユリユールは照れたように「人は必要なことができるようになるだけ」と視線をそらした。
「と、言うか、どうしてこの森のなかで何日もすごすことになってるの?」イフは片眉をひょいとあげる。
「街のなかはみんな凍ってるんでしょう。もしはいれたとしても食べられるものが残ってるかはわからない。隣の村まで、あたしたちの足では夕暮れどころか朝になるまでたどり着けないわ」
「なるほど。……そうか。ぼくたちは今、衣食住のすべての補給線が断たれているんだね」
しかし飢えか、考えもしなかった、とどこか感心したように首を傾けたイフに、ユリユールは少し言葉が出なかった。
「あなたって、やっぱり皇子って感じだわ」息をついて言うと、イフは「どこが?」とユリユールの方を向いて問いかけた。幼い顔立ちなのに、表情だけは奇妙に変わらない。よほど冷静なのか、感情が欠けているかとしか思えない。つい、ユリユールは腰に手を当てて、少しだけれど棘のある口調で返してしまう。
「皇子さまだもの。寝るところや、食べ物の心配とか、したことないんでしょう」
「ないね。確かに」イフは大きく頷いた。「認めるよ」
ユリユールはなんとなく、また深々と息を吐いてしまった。イフはそれを見て、目を細めた。
「きみは何か言いたそうだ」
だが、今は時間が限られている。話したいことは後で話そう、と、イフは先だって歩き出した。ユリユールは慌てて、木の根を踏み越えて歩いていくその背を追いながら、改めて彼の着ている上衣が上質な毛皮の飾りがついているものだということに気づく。
湿った蘚苔のあざやかな段差に足をかけながら、ユリユールは、冬場に森を抜けられず、父親が厳しい表情で干し肉やパンの残りを確認しているところや、やっとのことで射落とした鳥を余すところなく解体して、内臓を丁寧に調理したことを思い出す。ある街から離れた街へ、遠く険しい道のりを行くとき、ユリユールたちはいつも夜と食料のことを考えたものだった。流浪の民を嫌う、南のエスタリア帝国の首都を迂回しなければならなかったときは、予定通りの日程で周囲の山脈を越えられるか気が気ではなかった。旅人のなかには、家畜を連れて旅をする者も多いが、父はそれをしなかった。
ユリユールはそれが、"時の呪い"のせいではないかと、薄々感じていた。二頭の馬は、ユリユールが生まれたときに馬車を引いていた馬の仔だった。父が、異なる血筋を旅に引き入れることを嫌ったからだ。
父が多くを語らなかった"時の呪い"とは、一体なんなのか。ユリユールは不意に、これまで無条件に信じてきた父の背中がぼやけて、闇に飲まれていくような気がした。
程なくして、そこそこの黒苺の繁みを見つけたイフは、人力飛行機――イフは「ジルという名前があるんだからジルと呼んでくれ」と主張した――の取り外した器型の部品に、摘んだ苺を入れる。ユリユールもそれを毒がない果だと確認して、熟れすぎず、大きすぎない美味しそうなものを選んで摘み始める。
「……あの飛行機っていうので、城壁をこえられたりしないかしら」
飛行機そのものには全く見向きもしなかったイフに、半ば返答を予想しながらユリユールが尋ねると、その通り「だめだね。風と動力源が足りない」と肩をすくめられた。
「人力飛行機といいつつ、人力は半分くらいなのさ。……科学と魔術の助けがないとね」
ユリユールは黙って頷き、食糧探しに意識を戻した。
植物図鑑を愛読しているといったとおり、イフは、それなりに可食の実や葉を知っていた。しかし、旅人たるユリユールには到底敵わない。少しもしないうちに、小さな半径のなかで、二人は集められるだけの食糧――といっても、苺類が大半だが――をポケットなどに摘めて、もとの場所へ戻った。
まだ日があるうちに、二人は焚き火に挑戦し始めた。短い呪文を口にしようとしたユリユールは、ポケットに手を入れてしまったと顔をしかめる。今、魔術で火をつけることはできない。
一縷の望みをかけて、イフの顔を見る。相変わらず表情の乏しい彼は、その視線を受けて目を細めた。
「……ぼくが習った火の魔術は、手のひらくらいの魔方陣を書いた紙さえあればたちどころに火種を手に入れられる、体系化された初心者にもやさしい大陸魔術なんだけど」イフは首を振った。「欠点は、その紙自体がないとどうしようもないってことだ」
「あたしたちのも同じよ」ユリユールは大きくため息をついた。「日長石か、どうしてもなければ月長石……お父さんなら、他にどんな石が使えるかわかるんだけど」
「お父さんじゃなくても、他に火の付け方を知っている人を探そう」
不意にイフが立ち上がった。ユリユールは驚いて腰をあげる。イフはすたすたと人力飛行機――ジルに近づき、ハンドルに手をかけて起こす。回転木馬を本体に、たくさんの部品がついたそれは、楽器のような金属音を立てて持ち主に寄り添った。
「いざとなったら元素灯を点けて、ジルから離れなければいい」
「元素灯って、火をつけるのに硫黄とか水銀が要るんじゃないの?」
「予備の燃料がある。少しなら保つだろう。――夜明けくらいまではね」
二人は空を仰いだ。夕刻の迫る空はどこか深い硬質な青さをまとっていて、その光は水晶を透したかのように澄んでいる。これが紫や薔薇色を滴らせ、やがて岩窟に閉じ込めるような闇に沈むまで、そう時間は長くない。ユリユールの銀色の目は、樹木の向こうに見える月と太陽をとらえた。
「城壁付近をもう少し探索してみよう。ぼくらのように、都から締め出された人間がいるかもしれない」
ユリユールは頷き、彼の半歩後ろについて歩き出した。森の色彩の向こうに聳える真っ白な城壁目指して、迷いなく進んでいく彼の代わりになるよう、背後や脇を絶えず意識しながらそっと歩く。踏みしめる地面から香る、湿った土の匂いから冬を感じた。やはり異変が起きていることを実感する。薄手の上着が寒く、冷気が袖口や裾から忍び込んできた。イフはちらりとユリユールの様子を見て「……ぼくの上着を貸そうか」と言ったが、ユリユールは首を横に振った。腕をこすると、密な刺繍の感触に胸がいっぱいになった。……父に教わった刺繍だ。火と、花の蔦を模した紅い模様を、馬車のなかで、灯火を頼りに縫い続けた記憶がよみがえる。
イフはその仕草をじっと見ていたが、やがて上着を脱いだ。白い毛皮のついたそれをユリユールに渡す。
「いいわ、本当に。刺繍が懐かしくなったの」
「ぼくがそうしたいだけ。……その刺繍、このあたりのものではないよね。異国情緒が素敵だ」
「……ありがとう」
ユリユールは受け取った上着の意匠に目を落とす。涼しい香が焚きしめられていて、少し気後れした。上質な絹糸で飾られた袖の刺繍は、この北の国らしく、雪の結晶にも白い花のようにも見えた。
白地に、上衣と揃いの刺繍が入ったシャツに黒い上等な黒いベストを着たイフは、不意に自分の胸元のブローチを握り、ユリユールの方を振り返った。
「さっきの、ぼくが皇子って感じ、っていう言葉には君が意図するにせよしないにせよ、含むところがある」イフはまばたきをし、無表情で指を立てた。その眼光は特定の色彩を持たないがゆえに鮮やかで、ユリユールは思わず足を止めてしまう。
「君が言いたかったのは、ぼくが食べるに困ったことなどない、ということに対する君自身の感情だろう。それはつまり、批難だ」
ユリユールはぎゅっと上衣を握りしめた。すべらかな毛皮の銀の波が指の間をくすぐるが、それは空気に触れて冷えきっていた。イフは少し目を伏せて続ける。
「より一般化した、世間の皇子という存在に対する感情も含んで言うならば、――世の中にはその日の食事にも困る人もたくさんいるというのに、皇子というだけで、のうのうと城のなかで生活の心配もなしに暮らしているなんてずるい、ってことかな?」
イフの虹色の瞳は、光のようにまっすぐユリユールの目を捉えていた。満月を見たような気持ちになって、目を逸らしたくてもできなかった。
「そんなこと、……そんなこと、言わないわ」
「うん。今のは君の考えじゃなく、世の中の人たちが抱いているだろう考えを推測したものだ」イフは首にかけたゴーグルをいじった。
「でも、遠からずだろう?」
今度こそユリユールは口をつぐんだ。自分の、先ほどの気持ちを思い返してみる。自分は、本当にそんなことを考えただろうか。否定しきれない、それどころか、彼の言葉が的を射ているような気すらして、ユリユールは愕然とした。イフは、己の思考に合う言葉を探しあぐねたように途切れ途切れながらも、言葉を紡ぐ。
「たとえばぼくは、普段城からでて街を散歩することはできない。まずは父に言って、たくさんの人から許可をもらって、それからものものしい衛兵をつれて、の外出になる。たとえそれがお忍びであろうとね。そこで、ぼくがその点において、きみを責めたとしよう――”ぼくは自由に外を出歩けないのに、きみはいろんなところを旅できるなんてずるい”ってね」
ユリユールは思わず反論しかけた。けれども文章が脳内でまとまらず、舌はから回って、結局唇を結んでしまう。彼女の心に呼応するように、樹木の葉が嵐の前兆らしくざわついた。イフは木下闇のなかで、抑揚の薄い声で続けた。
「それとこれとは話が別さ。わかってる。ぼくは別に気ままに散歩できないことで生死にかかわることはないし、実のところ特に不満もない。さらに、それを補ってあまりある恩恵を授かっている。……ただ、きみが今ぼくに言ったことは、ぼくにとってそういうことなんだよ」手の中のゴーグルをもてあそびながら、イフはユリユールに顔を向けた。「端的に言えば、ぼくが皇子なのはぼくの意志じゃない」
そのとき垣間見た目の光は、原石のままの水晶だった。雪のなか、厳かであり、なにものにも砕かれず研かれもしない、無垢な一対の宝石だった。
それを真正面から受け止めたユリユールの瞳は、火を前にした銀のように揺らぎ、幾度もきらめいた。彼女の目は、皇子として生を受けた少年に宿るものの片鱗を、確かに、イフの万華鏡の瞳を透してとらえたのだった。
その瞬間だった。虹色の、炎が…幾千の火花となってきらめいたような、あるいは氷が幾千のかけらになり、世界へ飛び散ったような、そんな幻影が二人の間にあらわれた。火の粉が頬に当たったようなまぼろしにユリユールが驚いて後ずさると、イフも同じように、何かに驚いたような表情をして顔の前に手をやっていた。そのかんばせの年齢相応のあどけなさに、はっとユリユールは心を揺さぶられた気がした。そうだ、この子も、あたしと同じ十四歳の男の子なんだ――と。
イフは、今自分が何を見たのか、何に反応したのかわからないという様子で、恐る恐る体をもとに戻した。それからユリユールをちらりと上目使いで見やり、気まずそうに視線をそらした。
「……すこし喋りすぎたね。謝るよ」イフは視線をゴーグルに戻し、金具を指先でいじり始める。
「普通とちがうことでなにか言われるのは当然のことだし、おまけにぼくはなんの努力もなく恵まれた環境にいる。そのぶん、ぼくは責められるべき、負うべきことがあると知っている。
……ただ、ぼくも人間ができてるわけじゃないから、たまに言い返したくなるのさ」
ユリユールは弱々しく、首を横に振った。何度も、何度も……そして、額を押さえて、低く囁いた。
「……あたし、あなたの言うとおりのこと、考えてたわ。ごめんなさい」
「いや、本当にいいよ。ぼくはああ言われることを、どこかで望んでいたようなものだ」
また淡々と喋りながら、イフは片手でバランスを取っていた人力飛行機――ジルをぐっと起こした。
「手伝うわ」
「ありがたい申し出だけど、二人で持つのはジルの形状的に難しい。それに、ジルは鳥の骨格をモデルに造られたんだ――つまり、内部は空洞」
鈍く光る歯車や回転翼を見るかぎりそうとも思えなかったが、ユリユールはそれ以上言わなかった。
「あなたって」ユリユールはふと言った。「変わった喋り方をするのね」
「よく言われるよ。腹立たしいからやめろって」
「誰に?」
「腹立たしい兄たちに」
ユリユールは少し微笑んだ。イフはそれを見て満足そうに頷く。
「そういえば、あなたってたくさんお兄さんがいるんだよね」
「そうだね」イフは両手の指を折って数え始めた。「……ラルカを含めたら、存命の兄だけでも八人いるよ」
ユリユールはどう返したらいいか迷ったが、イフは単に事実を口にする人間のようだった。
「お兄さんだけなの? 姉妹は?」
「ドーレストの直系に女は生まれない」
ユリユールはなにか言おうとして、なにも言えなかった。イフはそんな彼女の様子を見て、少し淋しそうに肩を竦めた。「さて、何かの呪いかな」
ユリユールは、ほんの少し…自分の"時の呪い"について話そうか、と考えた。しかし、結局は口をつぐんでいた。共有するものが増えることが、単純に親愛につながるとは思わなかったからだ。同質のものを背負っていたとして、それがけして同一ではあり得ないことを、ユリユールはよく知っていた。
真っ白な城壁がぐるりと巡っている街へ近づくにつれ、服から出ている肌が刺すような冷気に晒されて痛んだ。意思をもって、衣服の下にも忍び込んでくるような寒さだ。刃物のように切れ味の鋭い風に耐えて進む。
城壁の外側には濠があり、平和な現在は水路として活用されている。そこにかかる一際大きな跳ね橋の見張り台や鐘楼を目印に、都へ入る正門へ回れば、そこには複数の馬車や旅人、門を守っていた兵士が、精巧な雪像のように白く時ごと凍りついていた。思わずユリユールの足が止まる。
水路も青く凍結していて、波紋の形や飛沫をそのままに複雑な宝石のように光っているそれは、すべてのことが一瞬で終わったことを如実に示していた。今更ながら、イフは自分が背に受けた突風を思い返し、己の幸運に感謝する。ほんと髪の毛一筋でも自分が遅ければ、この恐るべき冬に囚われていたのかもしれない。
「……行こう」
二人は目をあわせて、イフがそう言うと、ユリユールは頷いた。
下ろされたまま白く霜がおりている跳ね橋の前に立ち、二人は揃って胡乱な目をして、橋の向こうの光景を見つめていた。
二人の視線の先、荘厳な門の鉄の装飾の上に、なにかが引っかかっていた。
「……何かしら」
ユリユールが構えながら呟く。顎に手を当てて首をかしげたイフは、目を細めて「……人のようだ。もう少し近づいてみよう」と提案した。ユリユールは構えを解かずに同意し、二人は門に近づいてみた。そして、思わず目を丸くした。
二人の目の高さよりもう少し上、黒い森のように美しい門扉の半ばほど。そこに、甲冑をきた門番の騎士が、菩提樹の上のイフとまったくおんなじような格好で、門にぶら下がっていたのだ。
転落しかけていたのか、爪先が門扉の装飾に引っ掛かって、逆さ吊りになっている。青い絹糸の房は、吹雪にふかれた形のまま凍りつき、式典用の銀の甲冑には、霜の花がはりついていた。その蔓草の先端が、太陽を浴びた豆のように、ゆっくりと、逆さまになってしまったせいで上がっている面頬へ這い寄っていくのが見える。現在進行形で、氷の彫像となりつつある騎士に、イフとユリユールは近づいた。顔をのぞき込むと、端正な顔立ちの若い青年だ。兜の縁からこぼれる髪は鮮やかな濃いめの金で、頬こそまっ白なものの、唇はうすい桃色で、その騎士がまだ生きていることの証明になった。と、伏せられた瞼がふと持ち上がる。
「おや、不思議な逆さまのお坊ちゃんお嬢ちゃんがた! どうなさったんです、そんな銀の馬なんか連れて?」
陽気に片手をあげて挨拶した騎士の薄紫の瞳が、みるみるうちに氷の青色に透きとおっていく。赤っぽい金の睫毛が霜柱のように凍りつき、肌は粉雪の表面がならされるように白くそまっていく。イフは慌ててユリユールが掲げたランプの火勢をあげた。飛び散る金と桃色の火花が、夢みるようだったモーヴの切れ長の瞳を溶かしていき、春のようにストロベリーブロンドに縁取られたラヴェンダーが輝きだした。
「火だ!」騎士は微笑み、「助かりました、どうしてか凍えてしかたがなくて」と礼を言ったが、まだその肌は血色が悪いままだ。彼はそのまま首を傾げた。
「それで、どうしてあなたがたは逆さまなんです?」
「あたしたちが逆さまなんじゃないわ。あなたが逆さまなのよ」
ユリユールはため息をついて、「甲冑の霜が溶けたら、ちょっと普通に立ってみてくれないかしら」
「了解です、」と言いかけた瞬間、つま先を鉄の装飾と結びつけていた氷の束縛が融け、青年は見事に橋の上に落下した。派手な音を立てながらも、上手に受け身をとった彼は、勢いでずれた兜に手をかけながら起き上がった。
まだ房の濡れている兜をとると、ハート形の整った顔があらわれる。瞬きして、青年はイフをみて驚いた顔をした。
「やあ、これはこれは、イフ・ドール・ラ・ドーレスト皇子ではありませんか! 護衛もつけずにどうなさったんですか?」
「人力飛行機の試運転をしていたら、木に引っ掛かったんだ」真顔で答えたイフの隣で、「ちょうどさっきのあなたみたいにね」とユリユールが付け加える。ふうん、と青年騎士は首をかしげた。
彼は、すこし赤みがかった金の髪を左右に振りわけ、きっちりと顎で切り揃えて、耳元に青と白銀の細いリボンをつけていた。祭典用の衣裳のひとつのそれは、なめらかに輝く白いリボンのほうに、瞳のいろで名前を縫い取る。薄紫で、蔓草のように、小さな字が綴ってあった。ユリユールがそれを見ようと身を乗り出すと、彼はそれより先にさっと身をかがめた。
「私は皇国騎士團第一連隊所属のロクス・ラヴァンドと申します。階級は青騎士、年は十九。お見知りおきを、お嬢さん」
跪いた騎士は、ユリユールの手を取ると、さっとその甲に口づけるそぶりをした。驚いて思わず手を引いてしまったユリユールは、焦って「ごめんなさい、」と頭を下げたが、隣でイフは首をすくめた。
「城門警備の仕事につくと、暇なもんで女性を口説くのが趣味になるんだよ。気にすることはないさ」
「皇子はあい変わらずですねぇ」
「君もだ」
親しげにイフと口を利く青年ロクスに、ユリユールは最初こそ戸惑ったものの、凍りついた世界よりはすぐに慣れた。ロクスの底抜けに明るい態度に、安堵すると同時に少し焦燥も感じる。
「それで、お二方はどうしてこんなところに―――」
言いながらあたりを見渡したロクスの動きが止まる。それでから、動揺したように、体ごと回って周囲を確認する。つられて二人も視線をめぐらせるが、見えるのはすべての材質が白く染まった異様な光景だ。
鐘楼の上に、あの老人がいるのが見えた。灰色のあごひげも、柔和な笑顔も真っ白く凍りついていた。
「……何が起きているんです?」
茫然とその光景に釘付けになっているロクスは、唇こそ笑みの形を残しているものの、目はもう笑ってはいなかった。
イフがかいつまんで状況を伝えるうちに、氷が溶けるようにロクスの顔から笑みが消えていった。整った顔は表情をなくし、聞き終わった彼は、「そんな」とだけ呟き、なにも言えずに座り込んだ。銀の甲冑がしゃらんと音を立て、それは氷に吸い込まれていった。
「ロクスは正午のあたり、何をしていたの?」
「私は……ここで、見張りをしていました。門の脇の塔で」
彼の話によると、ちょうど、冬の呪いが街をまきこんだ瞬間、彼は塔の上に立っており、その一陣の魔術的な風に飛ばされて、門の向こう側へ落ち、城壁の外側へぶら下がったという。それゆえに、彼は一瞬で凍りつかずに済んだのだ。
「式典用の衣裳には、ある程度の魔術を防ぐ作用があったはずだ」そのせいもあるだろうね、と、イフはロクスの甲冑を検めながら言う。
「跳ね橋の上にいた人は、石畳を伝って橋を凍らせた魔法に直接触れてしまったんだろう。……」
ロクスは何度も頭を振った。なんとか冷静になろうとしているようで、金髪と青と白のリボンがゆらゆらといつまでも揺らいでいた。
「それで……皇子と、そこのお嬢さん…ええと……」
「ユリユールよ。ごめんなさい、名のっていなかった」
「いえいえ。ユリユールさんは、たまたま城壁の外にいたと……」
「正確には森のなかだ」イフは跳ね橋の上や街道を指差して首を振る。
「道にいた人たちは、少なくともここから見える範囲では凍っている。城壁の外にいることが条件ではなさそうだ」
「はあ……」
ロクスは顔をあげ、息をついた。少し夕暮れの空気を含んできたような空を見上げ、はっと何かに気づいた顔をする。初雪の朝のように白い路を手で示すとイフに提案した。
「少し東側の壁沿いに、小さな駐屯所があります。様子を見てきましょう」
「ああ、森や丘向こうを見張る小隊が詰めてるんだったね」イフは顎に手を当てて頷くが、きわめて冷静に「これだけのことが起きていながら誰一人騒いでいない時点で、推して知るべしという気もするけど」と付け加えた。彼の発言にもめげず、ロクスは兜を小脇に抱えて敬礼し、駆け出した。銀の姿と、流氷が触れあうような音が遠ざかっていく。その背を見送りながら、ユリユールはイフを見た。
「よかったわ。少なくとも、私たち以外に人がいて」
「同感だ」イフは同意を示してから、ロクスの駆けていった方向を目を細めて見やる。「彼は城の衛兵だった。知り合いがいて心強い」
「え、じゃあなんで今は門番をやっているの?」
「それはぼくもわからない」イフは大門を仰ぎ見て、黒々と聳えていたはずの鉄の蔦が、銀を刷いたように輝いているのを注視した。
「……戴冠式が近いからかな。ぼくたちも把握しきれないほどに、人が動いているようだ。現状の正確な認識が最優先事項かもね」
二人が大人しく跳ね橋の前で待っていると、まず流氷が触れあうような音が、次いで銀の姿が現れ、ロクスが春鹿のように駆け戻ってきた。その表情から結果は予測できたが、一応二人は彼の報告を待つ。
「駐屯所も……凍ってるようです」困ったようにロクスは頭をかいた。イフは肩を竦め、ユリユールは力なく頷いた。
「でも、なんで城壁に引っかかってた私が凍りかけなのに、城壁の外側にある駐屯所が凍ってるんでしょう?」
「……たぶん、石だ」
今は白く凍りついているが、きらきらした多色の粉が含まれた化粧石を、指でなぞってイフは呟いた。
「この城壁内部の都市と、街道の石畳、そして駐屯所は、原料に氷花石の欠片と、雪花石膏が含まれてる。これは、ぼくたちドーレスト一族の魔法と相性がいい」イフは軽く舌打ちした。
「……こいつは面倒だ」
ユリユールも硬い表情をして、手を握りしめた。様々な魔術があるが、基本的に鉱石を媒介として扱う魔術がほとんどだ。相性がいい石と術者の組み合わせがどれほど強い力を発揮するのか、多少なりとも魔術の心得があるなかで知らない者はいない。
「この分だと、魔法はこの都にとどまらない」
跳ね橋の上で凍りついている馬車を見つめて、イフは険しい表情をした。空に留まっている馭者の手の鞭を睨みながら、道の先を指差す。
「街道を伝って、少しずつだけど今も広がり続けているはずだ」
「他の魔術師が解けないんですか?」
ユリユールと同じ質問をしたロクスにかぶりを振る。
「そもそも、ドーレスト家の力は、まだ細かな理屈が解明されてないんだ」イフは自分の手を握り、そして開く。「手順や理論が不明な場合、誰か別の人間が呪いを解くことは極めて難しくなる」
ロクスが不安そうに押し黙った。口元に手をやり、鐘楼の上の老人や、僚友だろう兵士たちの白い亡霊のような姿を見て、目を伏せる。イフは自分の手を睨み、低く呟いた。
「めちゃくちゃにこんがらがった結び目を解くのは容易じゃないってことさ」イフはユリユールにちらりと目を向ける。「時に、それを結んだ本人ですら、ね」
雪に閉ざされたかのような、重い沈黙がおりた。三人はお互いに顔を見合わせ、けれどもその目は自分たちの内側にひそむ不安を見ていた。
凍った都と生きた森の境目を、一陣の風が吹き抜けた。魂ごと凍りつかせてしまうほど冷たいそれは、死神の愛撫のように通りすぎ、ただ三人、あたたかい体で立ち尽くす彼らの心臓を冷やした。
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