河野裕『サクラダリセット』原作小説1巻目、全文無料掲載‼

KADOKAWA文芸

猫と幽霊と日曜日の革命

プロローグ

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 伝言が好きなの、と、女の子は言った。

 少しかすれた声だった。

 もう二年も前のことだ。浅井あさいケイは、あの時のなにもかもを覚えていた。日づけ、時間、天気、彼女の服の色、指先の形、わずかに傾けた首の角度。まばたきの回数だって思い出せるけれど、そんなことに意味はない。

 南校舎の廊下を歩く。雨粒が窓ガラスに当たり、軽く息を吸うくらいの時間をおいて真下へと垂れていく。きっとこの雨が、彼女のことを考えさせるのだろう。単調な音の連なりは意識を内側へと向かわせる。湿った夏の空気はなんだか懐かしい匂いがして、記憶よりも先に感情を過去に引き込んでいく。――伝言が好きなの。

 あの日も雨が降っていた。雨音の奥でそっとささやくように、彼女は言った。幸せな言葉やささやかな言葉を、人から人に、たくさん伝えたい。

 二年前のケイには、彼女の言いたいことが上手く理解できなかった。今なら少しだけわかるかもしれない。人に言葉を伝えるのは、きっと幸せなことだ。もしも伝えるべき言葉が、幸せなものや、ささやかなものであったなら。

 ゆっくりと廊下を歩く。足音をひとつずつ、丁寧に並べるように。

 記憶の中で、ケイは彼女に尋ねる。もし伝える言葉が、悲しいものなら?

 彼女は答えた。――伝え方を工夫するわよ。それが伝えるべきことなら、正しい方法で、正しい言葉を使って、正しく伝える。

 そうできればいいなと、ケイは思う。でも、たとえば伝えるべき言葉が、自分自身にさえ意味のわからないものだったなら? それについては、彼女に尋ねていなかった。尋ねることができないまま、彼女は死んでしまった。

 目的のドアの前で、ケイは足を止めた。職員室だ。ノックをして、ドアを開く。部屋の奥から二番目、窓からいちばん離れた席に、その教師は座っていた。癖の強い髪と眠たそうな目つき。津島信太郎つしましんたろうというのが、彼の名前だ。ケイの担任ではない。でも彼には数学を習っていたし、所属する部活動の顧問でもある。あるいは担任よりも親しい教師かもしれない。

 彼はこちらに顔を向けて、「よう」と笑みを浮かべた。

 彼の目の前まで歩み寄り、小声でケイは言った。


「伝言があります」


「へぇ、誰からだ?」


「明日の貴方あなたからです」


 津島は手元のコーヒーカップに口をつけ、顔をしかめた。

 ケイは続ける。


「マクガフィンが盗まれる、と」


 伝言はそれだけだった。

 これで誰かが幸せになればいいけれど、可能性は低いように思う。

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