第9話

 口元がむず痒かった。生まれて以来、一度だって言ったことのない言葉だった。イライザの姿は相変わらず見えないが、彼女はそれを聴いて、笑みを浮かべている気がした。

「ほら、もっと言って」

「……この部屋から出たい」

「さあもっと」

「こんな狭苦しい部屋にいたくない。もううんざり」

「もっと」

「真っ白な部屋で一人で、誰にも触れないで過ごすなんて嫌。ここから出て行きたい。ここから出て、外の普通の家に住みたい。テレビドラマに出てくる、坂道にある赤茶色の屋根の家に住んで、ペットの犬を飼って、毎日お母さんに怒られたりして、家族とご飯を食べて、学校に行って。学校では友だちと喧嘩したい。彼氏もほしい。好きなことをしたい。遊びに行きたい」

 ベッドの中で、アリサは呟きが止まらなくなった。その声は、怒りを伴ってはいなかった。ただ、淡々と頭のどこかに溜まっていたそんな願望が口から漏れ出しているような、謝ってこぼれ落ちているかのような口ぶりだった。

 こんな考えを持つことをアリサ自身、悲しいと思っていなかった。だって絶対に叶わない夢なのだから。たぶん普通の人だって、「タイムトラベルがしたい」とか「火星に行きたい」とか思うだろう。でもその夢が叶わないからといって、激しく悲しみ絶望する人はあんまりいない。

 それと同じだ。悲しいという感情は、もっと自分と身近な物事に対して覚えるものだ。絶対叶わない夢に、切実な想いは抱かない。ただ、アリサの場合は普通の人よりも遙かに「叶わない夢」の数が多かった。「好きなことをしたい」なんて思ったところで、自分の好きなことが何なのかすらわからないのだ。

 イライザの言うとおりだった。試しに口に出してみると、想像よりもずいぶん、心が落ち着いた。アリサは、深く息をついた。

「ね?」

 イライザは言った。アリサは何も言い返さなかった。

「じゃあ、私がそれを叶えてあげましょうか」

 イライザは続けて、軽い口調でそう告げた。アリサは眉を顰めた。

「は?」

「叶えてあげる」

 いつもの微笑みを浮かべているイライザの姿が、容易に目に浮かんだ。

「あなた、何を言っているの?」

「それじゃ、私の言うとおりにして。まず、目を固くつむって。出来るだけ固く。両手は胸の上に置くの。白雪姫みたいに。それから、ゆっくりと息を吸って。深く深く、おなかの奥深くから。そうして、自分が一番美味しいと思う食べ物のことを考えて」

 何を言っているのだろう、と再びアリサは思った。ふざけているとしか思えない。でもなんとなくアリサはイライザの言に従い、言われたとおりに動いた。そして目をつむったまま、好きな食べ物のことを考えた。

 ハンバーグ。まだ生まれてから、二回しか食べたことがない。子どもっぽいから、あまり他人には言わないけれど。考えると、少し心が浮き立つ気がした。

「でしょう? 浮き浮きすることが大事なの。そしてゆっくり、息を吐く。吸って吐くのを繰り返す。あとは、出来るだけ気持ちを軽く、身体を軽くして、少しずつ浮かび上がってみて。高く、高く、部屋の上の方を意識して。上がって、上がって」

 次第にイライザの声が、少し遠くから聞こえるようになっていく気がした。自分の後方からだ。でも、気のせいだろう。彼女の声は常に、自分の中から聞こえているはずだから。

 不思議なほど、身体が軽く感じた。アリサはかなり痩せている方だが、それにしても普通でなかった。そして妙なことに、普段よりも身体が透き通っているように感じた。それがどういう意味なのかどういう状態なのかはアリサにもよくわからなかったが、しかし、身体を風が抜けていくような涼しげな心地がした。

「それでね、ここからがちょっと難しいんだけど。そうね、二段ベッドって知ってる? アリサ」

「映画で観たことあるくらい」

「あれの二段目からから下りるイメージで、身体を動かしてみて。目をつむったまま。寝ている状態から、上半身を起こして、脇の梯子に脚をかけて。それから一段ずつ脚を下ろしていくの」

「脚を? 下ろす?」

 言われてもよくわからなかった。当然、梯子など下りたことはない。危険だからだ。けれど最初は、言われるままにアリサは動いた。上半身を起こし、ベッドサイドから身を出し、脚を梯子にかけようとする。次第に、なぜこんなことをやらされなければならないのかわからなくなる。

 しまいに面倒になったアリサは、薄目を開けた。

 すると、自分がベッドの上、二メートルほどの高さの中空に浮かんでいることに気づいた。

 上半身だけを起こして、アリサは何もない空間にいた。

「えっ?」

 そして満足に驚く間もなく、アリサはそこから落下した。

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