アリサとイライザの誰よりも小さな世界

彩宮菜夏

第1章 アリサとイライザ

第1話

 アリサが「ルーム」で暮らすようになったのは、彼女の一歳の誕生日のことだった。以来、ずっと「ルーム」の中で、独りで生活している。


 今日は、彼女の十四歳の誕生日だった。誕生日は、アリサが一年で一番憎んでいる日だった。

 アリサの「ルーム」の前は、普段は看護師や、医師の控え室になっている。窓はなく、病院の廊下へ続くドアが一つだけあるだけの小さな部屋である。しかし今は、アリサを祝いに来た二十数名の客でごった返していた。

 そのうち三分の一は病院の医師や看護師、理事たちで、残りは両親の知人や関係者である。全員、堅苦しいスーツやドレスを着込んでいた。

 一方、アリサはいつも通りの真っ白なワンピース姿だった。アリサだけではない。アリサのいる「ルーム」の壁も、床も、置かれた家具も、何もかもが一点の染みもなく、真っ白だった。だがこの白を、アリサは美しいと思ったことが一度もなかった。

「ケーキが来たわよ、アリサ」

「ルーム」の天井のスピーカーから、母の声が聞こえた。母の声の背景からは、客人たちの歓談が聞こえてきた。

 アリサは真っ白な応接スペースから、ガラス窓の向こうを覗いた。そこには幾つも風船が飾り付けられていて、「ハッピーバースデイ」と書かれた幕も掲げられていた。若々しい、二十歳そこそこの女性の看護師がちらりとこちらを見たが、アリサと目が合うとすぐに視線を逸らしてどこかへ行ってしまった。

 集った客たちの合間を、大柄で筋肉質の男の看護師が歩いていく。彼はいつもアリサの世話をしてくれる人だが、未だに名前は知らないままだった。彼は、ビニールに包まれた箱を一つ、抱えていた。

 彼はそのまま、応接スペースのガラス窓の前を通り過ぎると、その隣にある自動ドアにパスコードを入力して開けた。そして、第一消毒室へ入っていく。

 消毒室は、外部からアリサの「ルーム」へと通じる中間領域である。ドアが閉まると、ここは完全に密閉される。今頃さっきの看護師は、第一消毒室の中で、滅菌処理が施された保護衣に着替えていることだろう。

 その際に彼は、持ち込んだビニール梱包の箱を、部屋の端にあるベルトコンベアに乗せている。コンベアで運ばれて、箱はいったん部屋の外へと消える。もちろん全てはドアの向こうで行われているので、アリサは「ルーム」で黙って待つしかなかったが。

 ドアの中から、エアコンプレッサの動作音が聞こえた。看護師が第二消毒室に移ったらしい。消毒済みの保護衣の表面から塵を完全に払い落とすため、エアシャワーから圧縮空気を吹き付けているのだ。各消毒室内の空気は常に循環されており、清浄度は一定に保たれている。さらに、第一消毒室と第二消毒室の間は空気の混合を避けるため、二重扉になっていた。

 アリサはこの手間の掛かる行程を待つ時、アリサの本当の母親が教えてくれた日本の童話、『注文の多い料理店』を思い出す。猟師は幾つもの部屋をくぐり、幾つもの工程に黙って従うしかない。

 どうかからだじゅうに、つぼの中の塩をたくさんよくもみこんでください。いや、わざわざご苦労です。

 応接スペースのドアが開き、保護衣姿の看護師がようやく、「ルーム」に入ってきた。

 さあさあおなかにおはいりください。

「お嬢様、チョコケーキですよ」

 彼はコンベアの先で滅菌された箱を、テーブルの上に置き、ビニールを取った。ゴーグルの向こうで歯を見せて微笑んでいる金髪の看護師に、アリサは頷いて、微かに笑みを見せた。

 アリサが一人きりで暮らすこの「ルーム」は、完全無菌室である。空気中からほぼ全ての塵、埃、菌を除去してあり、中に入る人間は、保護衣越しでしか彼女に接することが出来ない。大した用でなければ、彼女との会話は応接スペースのガラスを挟んで、マイクとスピーカー経由で行われる。

 応接スペース、などと呼ぶから大げさに聞こえるが、構造としては、動物園の展示スペースと同じだった。ガラスの中にアリサ一人がいて、ガラスの外にいる人々がそれを鑑賞する。時折飼育係が中に入り、彼女の健康状態をチェックしたり彼女にエサを与えたりする。

 そしてアリサは死ぬまで、ガラスの内側で黙って視線を受け続けるしかない。もっとも、アリサは動物園など行ったことはないし、これからも行く可能性はなかったが。

 看護師が部屋から退くと、ようやくアリサは腰を上げ、箱に手を伸ばす。彼女が動く度、ガラスの向こうの客たちの視線がちらちらと追ってくるのがわかった。リボンをほどいて箱を開けようとするだけで、彼らは奇跡でも見ているかのような顔つきをする。そんな連中が隣の部屋にいると思うだけで反吐が出る気がした。

 蓋を開けると、カカオの香りとクリームの甘い匂いが鼻に届く。これでも、外で売られているケーキよりは、かなり刺激が抑えられているのだろう。けれど、何の匂いもしない空間で十三年間も生きているアリサにとっては、このわずかな香りが耐えがたいほど素晴らしかった。

 ケーキに添えられていたプラスチックのフォークを手に取ろうとすると、またスピーカーから、今度は父の声が響いた。

「アリサ。その前に皆さんに、ご挨拶なさい。出来るだろう?」

 人の上に立ってきた父らしい、声音は優しいが一方的な口振りだった。アリサは仕方なくフォークを置くと、ガラス窓に向き直る。

 ガラスの下部には、集音マイクが設置されている。あくまで淑やかに振る舞わなければならない。これが仕事のようなものだ。アリサは口を開いた。

「本日は私の十四歳の誕生日にお越しいただき、ありがとうございます。盛大なお祝いを頂戴し、心より感謝しております」

 この挨拶も毎年のことだった。それに普段も、父や医学部の教授が見学客を連れてくる度になにがしかの話をさせられる羽目になる。語りも慣れたものだった。

「ご承知の通り、私は先天性の免疫疾患により、菌、ウィルス、その他ほぼ全ての身体外部の物への抵抗力を持ち合わせておりません。ちょっとした風邪どころか、埃一つにも生命を奪われるおそれがあります。菌に感染する可能性があるので、残念ですが皆さまに直接お会いすることも、触れることもお話することすら、叶いません」

 アリサの言葉を聞いて、改めて息をのむポーズをする中年の女性がいた。知っているに決まっているはずなのに。馬鹿らしい。

「本来であれば、とっくの昔に生命を落としていてもおかしくない人間です。にもかかわらず、十四歳になる今日まで生きてこられたのは、ご支援いただいてきた皆様のおかげです。ありがとうございます」

 医師や看護師、そして両親のおかげなのは間違いないだろう。他の客がどこから来た何者なのかは知らないが、面倒なので併せて感謝する。

「これから何歳まで生きられるかわかりませんが、少しでもこのご恩をお返しできるよう、自分に出来ることを日々、積み重ねていきたいと思います。今後とも、よろしくお願いいたします」

 アリサは滑らかにそう話すと、最後に頭を下げた。スピーカー越しに拍手が響いた。

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