第1話 呼吸を整えろ

アバンタイトル

 ――風が吹いた。


 ビルの隙間を吹き抜けることで、その鋭さを増した空気の塊が、女の髪をさらう。

 女は薄手のスプリングコートの襟を立て、首をすぼめて夜空を見上げた。


 夜空を侵略するようにそびえるコンクリートの隙間から、三日月が覗いていた。

 爪を星空に突き立てるように、そして風を切り裂くかのように、それは冷たく、そして鋭く、銀色の光を放っていた。


 河口近く、昔ながらの商店街の真ん中に、突然立てられた高層ビル。

 元々風の強いこの土地に、そのビルがもたらした夜毎の強風はもはや、公害だと言っても過言ではない。



(昔はここから川が見えたのに)



 女はコンクリートの壁を睨みつけながら、そう思った。



 その睨みつける視線。切れ長の目の先に――があった。


 女はそれを最初、雲の影だと思った。

 しかし、それにしては闇が濃い。


(……?)


 思わず足を止めた女に、は振り向いた。


 その仕草は、二足で立つ人間のもので――そしてその顔は爛れたように歪み、油が光るかのように、月明かりを跳ねていた。



「……ッ!?」



 女は、自分が悲鳴を上げるのを感じた。

 だが実際には、その声は喉に留まっていただろう。

 息を呑む、というのはまさにそういうことかもしれない。


 詰まった息を吐き出せずにいる女の前で、が蠢いた。


 指全体が爪のように尖る手を、女の方へと差し伸べ、てらてらと光る革の脚を、交互に、前に。爛れ、歪み、獣のごとく裂けた口から、光るよだれに牙が覗き――



 その時、もうひとつの影が差した。


 息を吐き出すことも、吸い込むことも出来ずにいた女の、視線を塞ぐかのように、その影は現れた。


 甲皮に覆われるがごときその身体。暗き夜の中に輝くように赤く、まるで二足で立つ甲虫のような、その姿。


 輝く玉石のようなそのまなこの間、眉間から走る二本の角。その口元が、顎が割れるように開き、覗くのは刃のごとき牙。


 そう、それは――


「悪魔……!!」


 女がようやく吐き出した息と共に、その言葉が夜の風に流れた。


 後から来たその影の、頭部が少し動いた。

 もしかすると、女を見たのかもしれない。



 ガァァァァァァツ!



 吠えたのは、先に女が見止めた方の影だった。


 見れば、獣のごときその影は、こちらに歩みを進めてくる。

 不自然に長いその手足を、ぎこちなく。しかし、それは強い膂力と渦巻く狂気、滾るような殺意を、確かに感じさせる。


 女の前にいる影が、それを見た。


 そして、一歩前に進み出たその影が、その腕を上げた。



「……え?」



 女が見た姿。


 その影が、開いた右の掌を下腹部の前へ、開いた左の掌を、掲げるように眼前へ――つま先へ体重を乗せ、腰を落とし、わずかに重心を前へ。


 肩幅よりわずかに開いた二つの足。力むことなく開かれた掌。顎を引き、自然に伸ばされた背筋――その「構え」、それは人の意思の元に統制された技術。


 人がその暴力を振るうため、そしてそれを止めるために、創り出した技。

 武道マーシャル・アーツと呼ばれるその技を振るう、その体制を整えた影に、獣が、襲いかかった。

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