隣人
新学期早々、引っ越しをした。それと同時期に会社も辞めた。ここ最近ミスばかりの連発で、仲の良かった同期たちからの冷たい視線や上司からの人格否定に堪えられなくなって、とうとう身体が悲鳴をあげたからだ。今思えば一人でこなすには無理な仕事量を抱え、いつの頃からか誰にも頼れず仕事をしていたのだ。いつ潰れてもおかしくなかったのだと思う。
そんな折、住んでいたマンションが立ち退きになり気分も新たにと引っ越しすることにした。暫くはヒッキーでニートでもしとくか。その為にも快適な城を探そう。そうして何軒も不動産屋を周り、「ここなんてどうですか? 条件にぴったりですよ」と紹介されたのがこの部屋だった。
──住んでみて騙されたと思った。
入居初日から給湯器が壊れていてお湯なんて使えない、シャワーホースも亀裂が入っていてそこから勢いよく水が吹き出す、早々にLEDのライトが点滅を始めた、目の前が交差点でトラックが通る度に音が響き家が揺れる。
クソな物件を掴まされたと思った。
静かな環境を頼んだはずだったのに。住めば都とは良く言ったもので、しかしながらこんな劣悪環境に慣れる気はしなかった。
何より苛立ったのは隣人だ。隣人は二人暮らしらしく、薄い壁の先から男と女の楽しそうな会話が聞こえてくる。そもそもこの物件は単身用のものではなったか?
生活音レベルならお互い気にならないだろうし許してくれると思いますよ、そう言ってこの物件を紹介した不動産屋の顔が不意に浮かんで苛立つ。
昼間の内見では隣人の生活音なんて聞こえていなかった。ただ、不意に落としたペンの音が部屋に少し木霊した気がした。
「結構響きますね」
そういった私を不動産屋はスルーした。気の所為だったかと、自分が少し過敏になっているのだと苦笑し、だから少し安心していたのに……だが住んでしまったものは仕方ない。
まぁ夜の営みでも聞こえてこようもんなら壁を殴りつけてやろうと心に決める。
だが運がいいのか、隣人は実はカップルではないのか楽しそうな会話が聞こえてくるものの、そんな様子は伺えなかった。それよりも気になったのは、もしかすると隣人とは趣味が合うのかもしれない、ということだ。というのも──笑うタイミング。
こちらと隣接する壁とは別の方に設置しているのだろう。テレビの音は一切聞こえないが私の見る番組の、私が笑うタイミングで向こうからも笑い声が聞こえてくるのだ。同じ番組を見ているのだろうか。
それからは頻繁にそんなこともあり、少しだけ壁を隔てた気のおけない友達と同居している感覚になってきた。
騒音を気にしていたのも初めだけで、多少気を遣いはするもののこちらもあまり気にせず生活音を立てるようになった。
怒号のような雷の音が間近に落ちて体をビクリと震わせれば隣から女の「え、ヤバくない?」というなんとも間の抜けた声が聞こえて、同感だと微笑んだ。玄関扉を挟んだ向こうから隣の玄関を開けながら「ただいまー」という楽しげな元気のいい男の声が聞こえてくれば、思わず子どもかよと吹き出しそうになりながら聞こえないようにおかえりと返した。
そうやって過ごして1ヶ月経った頃、連日騒音が聞こえるようになってきた。別に喧嘩をしているというわけでもなさそうなのだが、まるでなにか重い物、大きいものを頻繁に落としたり倒したりする音が聞こえてくる。
物騒な大きな音に混じってそれに似つかわしくない2人の楽しそうな声が聞こえてくる。模様替えでもしてるのだろうか? ……少しだけ不安が灯る。
会ったことも話したことも見たこともない、関わりのない隣人のことだ。気にする必要はないのだろうが、何となく勝手に心配ばかりが心を埋める。それでも私は所詮他人でしかないのだ。
その日は布団を深く被り眠った。
翌朝、目が覚めると玄関先から人の話し声が聞こえてきた。何をいっているかまでは上手く聞き取れなくて覗き穴から覗いてみる。しかし丁度視界範囲の外で会話をしているようで、姿は見えない。
静かに開ければいい、少しくらいならバレないだろうと音を立てずに僅かばかり開いた扉の隙間から覗くといつぞやの不動産屋と目があった。仕方なくちゃんと扉を開けて「こんにちわ」といった。
「あぁ、お久しぶりです。今日はこちらの内見で来ているんです。話し声とか煩かったですか? すみません」
不動産屋はそういって申し訳無さそうを装って小さく会釈する。
私もそれに腹を立てるほど落ちているつもりはないので、入居時からのあれやこれやのことなど表には出さずに眉尻を下げ笑顔をつくり「いえ、そんなつもりじゃ…」と言葉を濁してから視線をそちらに向けた。
「……あの、隣の方引っ越されたんですか?」
そう問えば「え?」と鳩が豆鉄砲を食ったような素っ頓狂な表情を浮かべた。その様子に小首を傾げながら不動産屋から部屋の方へもう1度視線を移し、伺うように言葉を紡ぐ。
「え、隣、カップルで……住んでましたよね?」
昨日だって隣人の声ははっきりと聞こえていた。……あぁ、単身用の物件だから追い出されたのか。最近の物音は引っ越しの準備だったのかもしれない。
そう思うと、腑に落ちた。
しかし、
「貴女が住まれてから……隣はずっと空き部屋でしたが……」
と不動産屋が青褪めた顔をして小さな声で応えた。
その後、隣人のことは、知らない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます