100万回生きた猫
「アタシが100万回生きてきたって言ったらアンタ信じるかい?」
そう問われて思わずぽかんとする。
猫を撫でていた手を一旦止め、右へ左へと視線を巡らせ少しだけ考えて大きく頷く。
「まぁ喋る猫が私の目の前にいるんだからそんなこともあるんじゃない?」
すると目の前の猫は、アタシは猫じゃなくて猫又だよ、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。びたんびたんと2本の尻尾を器用に交互に地面へ叩きつけるその姿に思わず苦笑してしまう。
ごめんってばと喉元に手を伸ばし撫でてやればゴロゴロと気持ちよさそうに喉を鳴らした。暫くそうしていると我に返ったのかハッとして私の手を尻尾で器用に叩き落とす。
「……全く、アンタって子は図体ばっか大きくなってずっと生意気なガキンチョのまま成長しないね。一体今いくつだい」
「この前16になったよ」
「はあ。ついこの前までおしめしてたガキンチョがもう結婚もできるいい大人かい。時が経つのは早いもんだね」
しみじみいうその姿がまるでお婆ちゃんみたいで思わず笑ってしまった。
猫又に出会ったのはまだ幼稚園の頃だったと思う。やんちゃだった私は探検だと称しては親の目を盗んで家の裏の神社に遊びに行っていた。定期的に管理業者がやってくる以外は殆ど人の来ないその神社は専ら私の絶好の遊び場だった。
木の枝を集めてみたり、虫を捕まえたり、地面にお絵描きしたり……そしてある時拝殿の下を覗き込んだ際、一匹の猫を見つけた。
薄暗い拝殿下でもハッキリと見える真っ白な綺麗な猫だった。凛とした佇まいに思わず息を呑む。
「ねこさんおいで」
手招いてそう声をかけるが、こちらを一瞥するとすぐに視線を戻した。
「にゃーにゃー」
鳴き声を真似てみたり、手を叩いてみたり、自分に思いつくもの全てを試してみたけど猫は変わらず無反応を見せる。
ならこちらから出向いてみればいい。そう思い至って、姿勢を低くし拝殿下に潜り込もうとしたそのとき
「全くしつこいったらありゃしない」
誰かの声が聞こえた。
辺りを見渡すけど人影なんて何処にもない。小さく首をひねって猫に向き直る。そうしてまた前進しようとして
「だからこっちに来るんじゃないよ」
確実に声は前方から聞こえてきた。
「……ねこさん?」
そう声をかけると、猫は鼻を鳴らし大きく伸びをするとゆっくり立ち上がりこちらを向いた。
「猫が喋ることがそんなに不思議かい?」
瞬間「ねこさんすごい!!!!」と大声で叫んでしまい、猫は目を丸くすると暫くして思い出したようにケタケタと笑った。
「ガキンチョ、アンタ名前なんて言うんだい」
それから拝殿に通うのが私の日課になって、あれからもう10年近く経つ。
「でもなんで急にそんな話をするの?」
大抵いつも私が一方的に学校での出来事や家のこと、友達のこと、そんな何気ない話をして猫又が適当に相槌をうったり、時に喝を入れる。それが私達の会話だったはずだ。
「なに、そろそろお別れの時分が来たってことさね」
「え、どっか行っちゃうの?」
そう問えば、猫又はゆっくり首を振った。
「いいや、死ぬってことさ」
「……は? いやいや猫又は妖怪でしょ? 死ぬことなんてないんじゃないの?!」
「アタシは特別製でね。猫又になっても寿命は普通の猫とそう大差ないんだよ。その代わり死ぬ前の記憶も全部持って生まれ変わってきた。そう今回で100万回目さ」
「ならまた生まれ変わっても私の話し相手になってくれる?」
猫はゆっくりと首を振った。
「猫又の生は今回で最期さね。次に生まれ変わるときはもうこれまでの記憶も全部無くなっちまう、新しい命の始まりだ」
「じゃあこれでもうお別れなの?」
目の奥が熱くなり、大粒の涙が止め処なく溢れていく。それを2本の尻尾で器用に拭っていく。
「でもそうだね……今度生まれ変わってもアンタとまた生きられたら面白いだろうね。あ、そうだ、恋人ってのはどうだい?」
どこかおどけたように、それでも声色は優しくて温かい。ズルいなぁと思う。
服の袖で強く涙を拭き取ると頬を膨らませてみせる。
「えー、やだよ。きっと何処で生まれるかも、出逢えるかも分からないんでしょ?16歳差……未成年に手を出すのは良くないよね。これから生まれ変わるなら少なくとも20年は待たなきゃいけないじゃん。私その時最短で36歳だよ」
「ははは。ならそうだねぇ、アンタの子に産まれるのも悪くないね。アンタがアタシを看取ってくれるなら、今度はアタシがアンタを看取ってやるよ」
中々できない経験だろ、と猫又は笑った。
「……確かにそんな経験聞いたことないね」
と笑い返す。
「なら名前をつけておくれ」
迷わずアンタの元に辿り着けるよう、アンタとの縁を結んでおこう、そういって猫又は目を細めた。
名前といわれて、漸くこれまで猫又のことをちゃんと呼んだことがないことに気がついた。ずっと2人きりだったから、ねぇ、とか、あのさ、なんて言葉の呼びかけで簡単に会話が成立してしまっていた。
そうか……名前……と考えてふと猫又の姿が目に入る。
「……真白」
「ましろ?」と猫又が繰り返す。
「うん、初めて会ったとき、真っ白で凄く綺麗な猫だなって思ったの」
「……そうかい」
猫又は真白と何度か呟いて、アンタにしては良いんじゃないのかいと笑った。
「これまで呼び名は色々あったけれどちゃんと名前を付けてもらうのはこれが初めてかもしれないね」
と照れくさそうに尻尾を揺らした。
真白の背中にそっと触れる。背中がゆっくりと上下していて、なんだか少しだけ安心した。
ほんとにこの猫又は死んでしまうのだろうか。なんだか夢の続きを見ているようですふわふわしている。
「ねぇ。私、真白に会ってそれが真白だって分かるかな?」
そう零せば「ったく、アンタは心配性だね」と真白は私の背中を尻尾でピシャリと叩いた。
「なら、なにかおくれよ。アンタから貰ったものだってわかるものをさ」
そう言われて急いでポケットや鞄の中を漁る。こつりと指先になにか当たってそれを指先で摘んで取り出し手のひらに乗せれば緑がかった1センチもない石が僅かばかり転がって静かに真ん中で止まった。
「おや、翡翠だね」
と真白が横から覗き込んでいう。
「昔ね、河原で綺麗だなって思って拾ったの」
膝の上に手のひらを乗せ、翡翠を反対の指先で転がす。
でもこれでいいのかな、これじゃない方がいいのかな。なにであっても真白であるとわかるような気もするし、なにであっても真白だと分からないのではないかと不安になる。そもそも別れる、というのがなんとなくまだ実感を持てない。
「アタシも綺麗だと思うよ」
真白は腕の間に器用に潜り込み私の膝の上に乗り、我が物顔でそこに静かに丸まった。
「……そっか。じゃあこれにしようかな」
「あぁ、そうしてくれよ」
翡翠を持たない手で背中を撫でてやると真白は嬉しそうに喉を鳴らした。ゆっくり、ゆっくりとその手を何度も頭からお尻へと動かしていく。それに合わせて真白の背中が上下する。ゆっくり、ゆっくりと。やがて、その頻度が減り、いつの間にか上下しなくなってしまった。
「ねぇ、真白?」
その声掛けに応えはない。
「ねぇ真白。明日は晴れるかな? 天気予報だと雨って言ってたけど、見てよ。とってもきれいな夕焼けだよ」
背中を撫でる手にポツリと雫が落ちる。
「あー、雨降ってきちゃったね」
眼前が滲むほどの雨で、喉の奥がやけに痛んだ。
そうして暫くして私は深い穴を掘った。春にはこの場所で綺麗な赤い花が咲く。きっと真白も喜んでくれるだろう。鞄の中に入れていた白いタオルで小さくなった真白を包み、その手に抱かれるように翡翠も入れた。穴の奥にそっと置いて、その上に粉雪のように優しく土をかけた。
鼻も目もグズグズのまま泥だらけで帰宅したら両親に酷く心配され「大丈夫、大丈夫」と返して部屋でまた泣いた。
あれから数年、私のお腹には今、子どもがいる。
力む度に身体に痛みが走り思わず叫ぶ。その度に助産師さんが「もう少しよ」と声をかけてくれる。旦那も泣きそうになりながら私の手を握り「頑張れ」と声をかけてくれる。やがてふっと痛みがなくなり、産声が聞こえた。助産師さんが目を細めてこちらに包みを見せてくれる。
「元気な女の子ですよ」
力の入らない身体でそちらを見れば大きな口を開け叫ぶように子どもが泣いてる。私も思わず泣いてしまった。
少し落ち着いてから病室で我が子を抱かせてもらう。すっかり泣き疲れてしまったのか、規則正しく呼吸音が聞こえている。小さくて、壊れそうで、でも柔らかくて、確かに温かい。
「……名前、なにがいいかな」
色々案は出ているものの、中々しっくりくるものがなくて、そのうちなにか思いつくだろうと悠々としていたら今に至ってしまった。
柔らかなほっぺに触れてみる。少しだけ嫌がるような素振りをしたので今度はそっと手に触れる。指先2本程度のその拳はしっかりと握られている。その拳を優しく掴み、上下にゆっくり振ってみる。
と、小さな手の隙間からなにか見えた気がして息を呑む。
震える指先でゆっくりと小さなその手を開いていく。
1本1本、開かれた手のひらから何かが零れ落ちる。
「……あ」
僅かに滲む視界で、それを拾い上げ宙に掲げた。碧色の石が陽の光でキラリと光る。
「ほらね、ちゃんとわかっただろ」
少し呆れたような真白の声が聞こえた気がして、我が子の胸に顔を押し当てる。
「名前決めたよ」
小さな身体が上下に動く。
あぁ、ちゃんと生きてる。
それが嬉しくて顔を上げそっと頬に触れた。擽ったそうに少しだけ身体をよじる我が子に
「今日から貴方の名前は真白よ」
よろしくね、と手を差し出せば小さな手がそっと握り返した。
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