公然の秘密



 ソレを認識したとき、あぁ、見ちゃいけないものを見てしまったのかもしれないと思った。

 ただソレは、そこに居ただけなのに。

 当たり前の日常に。何てことない日常に。

 ただぽつんと、そこに立っていた。

 

 ───子どもかな?

 

 背丈は小学生くらいだろうか。フェンスに寄りかかるようにして、そこに立っていた。

 

 ───誰か待っているのかな?


 その日、私はその様子を横目にそのまま仕事場へと急いだ。


 ───あ、またいる。


 いつも俯いていて顔は良く見えなかったけれどその子はいつも1人きりでずっと立っていた。1度意識すれば、なんだか目についてしまう。

 昨日も居た。今日も居る。明日も居る。

 さすがにこれはおかしいだろう。

 昨日も、今日も、その前も、その子は同じ服で、同じ場所にいた。

 虐待。家出。そんな言葉が頭を過る。

───これ、まずいんじゃないの?

 歩く速度を落としながら、私はそっと辺りを盗み見た。誰か、誰か。だけど、すれ違う人、皆、誰もその子の存在に気付いていないようだった。

 あ、れ。おかしいな。毎日ここにいて、毎日同じ格好なのに?

 え、もしかしてこれは、幽霊───?

 まさか。こんなにはっきり見えているのに?

 フェンスに寄りかかるようにして、白いTシャツにベージュの短パンを着た子どもが立っている。俯いているから顔は見えないけれど確かにそこにいる。

 それでも、なにも居ないような周りの反応に、私は「見ちゃいけないものを見てしまったのかもしれない」と悪寒を感じながらその場を急いで後にした。

 今日も居るんだろうか。明日も居るんだろうか。いつまで居るんだろうか。

 そこを通ろうとする度、得も言われぬ感情が深く黒く心を侵食していく。

 ならそこを通らなければいい。そんな簡単なことにも気がつけないまま、やがてそんな恐怖は心配へと形を変えていった。

 今日も居るんだろうか。明日も居るんだろうか。いつまで居るんだろうか。それほどまでにその場に執着するほどのなにか未練でもあるんだろうか。なら誰か、あの子を助けてあげて。誰か。誰か。

 だれか───それは私じゃダメなんだろうか。

 あぁ、私がいるじゃないか。霊感なんてものないと思っていたけれど、こんなにはっきり見えるんだ。なら、私にもなにかできることはあるんじゃないか。除霊なんてものどうやればいいかなんてさっぱりわからないけれど、話を聞いてあげることくらいなら私にもできるんじゃないか。そうだ、あの子のことが見えるのは私しかいないんだ、助けてあげられるのは私しかいないんじゃないか。

 そうだ、私なら助けてあげられる。

 なにかに引っ張られるようにその子の元へ足を踏み出そうとしたその瞬間、

「止めときなよ」

 誰かに腕を取られた。

「え?」とそちらへ振り返れば、見知らぬおばさんが私の手を取っていた。

「……あの子のこと、見えるんですか?」

 なにいってるんだ、そんな目で私を見つめた後、「あぁ」と妙に納得したようにおばさんは苦笑した。

「安心しな、アレはそういうんじゃないよ。ちゃんと生きてる」

 あぁ、あの子は生きているのか。よかった。助けられるのか。

「なら───」

「だから関わらない方がいいものもあるんだよ」

 それだけいうと、彼女はそのまま雑多に戻っていった。

 言葉の意味も理解できないまま個から大勢に消えていく背中を見送っていると、ふと視線を感じた気がした。

 振り返ってみたけど、こちらを見ているような人は見当たらなかった。変わらず、子どもが俯いてフェンスに寄りかかる姿しか見当たらなかった。

 ───あぁ、そうだ。私はあの子に声を掛けないといけない。

 そう足を踏み出しかけたとき、ポケットの中で携帯が震えた。尚も震え続ける携帯を取り出せば画面には上司の名前が表示されていて、私は「はい」と急かされるように電話に出るとその場を後にした。

 夜になり、真っ暗な部屋に倒れ込むようにして帰宅して、電気のスイッチを入れた。

 パッと差し込む蛍光灯の光に目を細めながら、鞄を放り出し、布団へとダイブする。

「疲れた……」

 それ以外のことは頭に浮かぶ余地もない。いつも以上に重い身体から力を抜いて、そのまま静かに目を閉じかける。

 ───トントン。

 不意にドアをノックする音が聞こえた気がした。

 そっと耳を澄ます。窓を叩く風の音が聞こえて、あぁ、きっとこれは風の音だろうと思う。

 ピンポーン。

 暫くしてドアチャイムが鳴った。

 重い身体では動く気力が出なくて、ゆっくり、頭だけ動かして時計を見上げた。

 22時30分。

 こんな時間に誰だろう。用があるならきっとまた明日来てくれるだろう。

 そう考えていると段々と瞼が閉じてくる。あぁ、もうだめだ。

 目を閉じかけて、今度は優しくドアが叩かれる。

「こんばんは」

 甲高い声が、静かな空間に響き渡った。それは何処か幼さの残る子どものもののような。

「こんばんは、あけてください」

 でも、何処か作られたもののような。なんだか歪さを含んでいた。

 トントン。

「こんばんは」

 重い身体を引きずるように、ゆらゆらとドアへと歩み寄る。そうしてそっと、覗き穴から外を見た。小さな影が見える。

 俯いて見えるその姿には見覚えがあった。

「こんばんは、なかにいれてください」

 ───え、なんで家知ってるの。

 そこにいたのはフェンスに寄りかかるあの子どもだった。

「ここはさむいんです」

 ドア1枚隔てた先のその声はさっきよりも大きく聞こえる。

 トントン。

 何故。なんで。どうして。

 そのすべての疑問が答えを導こうとするのに反比例するかのように、外にいるソレの声は言葉を発するにつれてまるで魔法が溶けるみたいにゆっくりと掠れていく……。

「だから関わらない方がいいものもあるんだよ」

 何故だろう。そう告げたおばさんの顔が、声が、今、頭に焼き付いて離れない───。

 途端。

 きゃはははははははははははは。

 壊れたサイレンのような笑い声が耳を劈く。永遠にも似たその瞬間。それがピタッと止んだかと思うと、くるっと覗き穴を覗き込むようにこちらににやついた顔が向けられる。

 そこにあったのは、幼い子どもの顔ではなく、皺々の年老いた誰かだった。

「また、来ますね」

 はっきりとした、低い男の声が、した。

 こつんこつんと遠ざかっていく足音を聞きながら、そっと息を吐いて、漸く自分が息を止めていたことに気付く。小刻みに震える手を見ながらぼんやりする頭で、早く引越しした方がいいんじゃないか、そんなことをどこか他人事のように考えた。



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