逃げ水



 あ、雨だ。

 開けた場所の、そのアスファルトの地面に1つだけ出来ている水溜りに、ぽつり、ぽつりと波紋が広がっている。

 えっと、今日傘持って来てたっけ。

 そんなことを考えながら私は倉庫の軒下を通って共同の更衣室も兼ねている休憩室に向かった。

 ドアロックの解除番号を入力して休憩室に入れば、先に休憩に入っていた先輩がロッカー前のカーペットに座って先に食事を始めている姿が見えた。

「お疲れさまです」

 そう言って近づいて自分のロッカーを開けて持参したお弁当を出すと、先輩に倣って隣に腰掛ける。

「あ、今日はお弁当なんだ」

「はい、早起きできたので作ってみました」

「いつも早起きして作ればいいのに。見た目も味もいいとか、いつお嫁に出しても心配ないわ」

 そう茶化す先輩に「褒めても卵焼きくらいしか出ませんよ」と苦笑しながらお弁当箱の蓋に卵焼きを乗せて先輩に差し出す。

「おー、ありがとっ」

 手掴みでそれを拾い上げひょいっと口に放り込む先輩を微笑ましく思いながら、私はさっき自販機で買ったばかりのペットボトルのお茶をジャケットのポケットから取り出す。

「あ、そういえば雨降ってきましたよ」

 蓋を捻りながらそう告げれば

「えー、てことは休憩から戻ったら、傘、店頭の方に出さなきゃだね。嫌だなぁ」

 基本うちはアクセサリーをメインに扱う雑貨屋だけど、傘も取り扱っている店舗だ。普段は奥まったところに置いてある傘を雨が降るとお客さんの目につくようにと店頭の方に移動しなければならない。しかも、今日みたいに突然降り始めると当然傘を買う人が多くなり、小さな店舗内はてんやわんやとなる。そうなると、レジは込み合い店員はテンパってしまうし、お客さんもイライラし始める。負の悪循環が始まってその疲れも一入だ。

「まぁ、傘も必要ないかなぁっていうくらいの程度だったんで休憩が終わるころにはもう止んでるかもしれないですよ」

「そうだね。そこに期待するわ」

 なんて喋りながら、お弁当を食べ終わった頃にはもう休憩も終わりの時間になっていた。

「んじゃ、そろそろ戻りますか」

 背伸びをしながらそう告げる先輩に「はい」と応えながら急いで片づけたお弁当箱をロッカーへ放り込む。先輩の後を追うように休憩室を出て、来た時と同じ様に軒下を通って職場へと戻る。道すがら見上げた空は少しだけ曇っていて、でもみたところ雨は降ってないように見える。

 良かった、止んだのか。

 そう思いながら、ふと、あの水溜りに眼をやった。

 ……あれ。

 水溜りにはぽつりぽつりと、波紋が広がっていた。

「先輩、やっぱり雨まだ降ってるみたいですね」

「え? 雨なんて降ってないじゃない」

「でも、あの水溜りに波紋か……」

 そう水溜りを指させば、それを辿った先で一瞬先輩の表情に険しさが浮かんだ気がした。

「やっぱり何もないわよ」

「え、でも確かにそこに───」

 そういって再度水溜りを指さしかけた私の手を先輩が勢いよく捉えた。

 ……え?

 呆気に取られていると、私の手を握る先輩の手に少しだけ力がこめられる。

 先輩、と紡ぎかけた私の言葉を遮るように先輩の言葉が被さる。

「ほらほら、休憩時間オーバーするわよ。早く戻ろう」

 そのまま先輩に引っ張られ、私は急き立てられるように先輩の後ろに続いた。

 ───あの水溜りは一体何だったんだろう。

 先輩には見えてなかったみたいだし。あれは、見間違え、錯覚、……幻? そう考えて“逃げ水”という言葉が頭を過る。蜃気楼、だったんだろうか。───不思議だ。

 何処か後ろ髪引かれる思いで私はあの水溜りに眼をやった。


 振り返った水溜りにはもう波紋など広がっていなかった。


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