夜闇

 


 日が落ちるのが早くなったと思う。窓の外はすっかり暗く、人の気配もない。

 街並みから外れたこんな個人医院では尚更である。

 今日の診療時間も終わり、さて帰ろうかと重い腰を上げた時だった。

 木造建てであちらこちら古びて風が吹けばがたがたと音を立ててしまう、そんなこの医院にトントンと戸を叩く音がする。

 こんな時間に誰だろうと引き戸を開ければ、雨に打たれたのかずぶ濡れ姿の女が小さく肩を震わせ「すみません、まだ診て頂けますか」と蚊の鳴くような声で喋った。医者は少し戸惑ったがそんな姿の女をそのまま突き返すわけにもいかず、院内に誘い入れると乾いたタオルと温かい緑茶を2つ用意し、女の前に腰掛けた。

 それを机の上に置くと女は両手で緑茶の入った湯のみを包み込むように持つと何度か吹き冷まし、口を付けこくりと喉を鳴らした。

「何処が辛いんですか?」

 女が少し落ち着いたのを見計らって医者は問うた。

 女はピクリと身体を引きつらせると

「声が、するんです」

と、何処か探るようにいった。

「子どもの声が聞こえるんです」

「子どもの声、が?」

「はい。私の周りを駆け回って嘲笑うような、そんな子どもの声がするんです。でも、誰もそんなものは聞こえないと言い張るんです。先生、先生にもそんな声は聞こえませんか? 今も、煩い程こんなにも間近に聞こえているんです。ねぇ聞こえますよね?」

 そういって勢いよく女は医者の両腕を強く掴んだが、医者は少しも動じず、小さく首を横に振った。

 女は眼光を微かに揺らし力なく椅子に身体を預けた。「そうですか」と小さく呟いて。

 静まり返った時間が僅かに続いて、先に切り出したのは医者の方だった。

「ときに、貴女は、お子さんを亡くされたりはしていませんか?」

 女は一瞬顔を引きつらせ激しく頭を横に振った。

「いえ、そんなことはありません。私には子どもなどいたことなど一度もありません」

 何処か叫ぶように告げられた言葉が、ただ静かに院内に響いた。

 「そうですか」と応えたものの、あぁ、それは嘘だろうな、と医者は思った。

 医者は少しだけ視線をずらした。

 女のすぐ傍で、童が1人鋭い眼光で女のことをじっと見つめている。女がこの医院に入る前からずっと。歳は5ついくかどうかくらいだろうか。何処かこの女に似た面影を携えている。

 どうやら女にはその姿は見えず、ただ、その声のみが届くのだろう。

「私は気でも触れてしまったのでしょうか」

「……きっと疲れが溜まっているんでしょう」

 そういって優しく微笑んだ。

 医者は薬を出しましょうといって、薬を取りに行くといい女を置いて部屋の奥へ向かった。医者の背からは女の「ごめんなさい、ごめんなさい」というか細い声を更にか細くさせ消え入りそうな声が繰り返し繰り返し聞こえていた。

 医者は薬棚のある部屋ではなく、台所へと向かい、金平糖を幾つか薬紙に包むとそれを女へ「疲れを取る薬です」と何食わぬ顔で渡すと、

「御代は結構ですからお大事になさってください」

 そういって医院の軒先から女の姿が見えなくなるまで見送った。

 姿が見えなくなると医者は小さく息を吐いた。

 あの女はまた来るのだろう。訳もなくそんな気がして、医者は今日一日快晴であった星空を見上げた。


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