ラファエルの告白

 皆は悪魔を信じるかしら?……聞くまでもないわね。私たちは天使だもの。天使と真逆の存在、それが悪魔。人を惑わし、堕落させる恐ろしい存在よ。

 サラ様はね、その悪魔に憑りつかれていたの。


 いやぁね、そんな顔しないでったら。私、おかしくなったわけじゃないわよ。至って正気だわ。


 私はサラ様の授業が一番好きだったわ。

 あの少々甘ったるさすらある声で、漢文を読まれる時には、全ての世界がサラ様に祝砲を上げているかのようだった。


 あれは古楽府をお読みの時だったわ。白居易などをサラ様は好まれたけど、一番お好きなのは「上邪(ジョウヤ)」だったわね。詠み人知らずだから誰が作ったのかわからないけど。


我欲與君相知 

長命無絶衰 

山無陵 

江水為竭 

冬雷震震 

夏雨雪 

天地合 

乃敢與君絶


「愛する人よ、私は誓う。私は君と出会い愛しあい、君と共にありたいと願ふ……」という詩よ。何度私はこの歌を読んだかしら。いつも頭の中にいるのはサラ様ばかり。

 この詩は「とんでもない天変地異が起きない限りは、貴方と一緒にいる」という意味の言葉が続くのだけど、夏に降る雪に佇むサラ様、崩れゆく天地の狭間にいるサラ様を思い浮かべては、私は泣きそうになったものよ。


 だって美しいじゃない。

 破壊と創造は常に隣り合わせにあって、そして美しいものよ。


 いつだったかしら。サラ様は「上邪」を口ずさむ時に、一瞬息を飲んだのよ。

 私以外は気付かなかったのではないかしら?私、いつもサラ様の全てを見ていたから、そんな小さな変化でもわかるのよ。


 それからというもの、サラ様は時折、言葉を詰まらせるようになったの。ある言葉を口にするのを躊躇うようになったのよ。


 あまりに小さな、他の人から見れば息継ぎをした程度の感覚しかないでしょうけど、確かにあれは躊躇いだったわ。


 何の言葉に詰まったのだと思う?

 「上邪」よ。あれはね、「天よ」とかそういう意味があるの。

 親しみを込めた呼び方ね、つまり。


 サラ様はそれを言い淀むようになったの。

 どうしてかわからなかったので、私はサラ様をよくよく観察してみることにしたわ。

 授業中も放課後も、帰り道さえもね。


 当然じゃない。サラ様を脅かす何かがいるなら、天使である私が助けてあげないといけないでしょう?

 サラ様は確実に何かに怯えていたわ。私、心配だったけど、見守るしか出来なかったの。だって、四人で誓ったじゃない。抜け駆けは無しって。


 サラ様が死んだ日、私は図書室のある階の空き教室にいたの。

 そうすると、サラ様が悲鳴を上げたのが聞こえたわ。


 私が空き教室から顔を出すと、こちらに走ってくるサラ様が見えたの。誰かから逃げているようだったわ。


 私が戸を開けたままにしていたら、先生は慌てた様子で中に飛び込んできて、戸を閉めたの。


「どうかなさったの、先生」


 先生、なんて呼び方はサラ様を呼ぶのに相応しくないと思うのだけど、まぁ仕方ないわ。

 あら、誤解しちゃ嫌よ。二人のことを否定しているわけじゃないったら。単に私のキブンの問題よ。


 サラ様は私に気付くと、ギョッとした顔になったわ。

 そして窓の方にジリジリと逃げたの。

 さっぱり意味がわからなかったわ。


「先生、どうなさったのですか?」

「倉敷さん、あなた」


 何かに怯えて震えている様子だったわ。だから私、落ち着かせようと思って手を伸ばしたのよ。

 次の瞬間だったわ、物凄い力でサラ様が私の腕を払いのけたの。


「来ないで!」

「先生、落ち着いて」

「私に触らないで!」


 その時、私は理解したのよ。

 サラ様は悪魔に憑りつかれたんだわ。だから「上邪」が言えなくなったし、その時にいつも私を見ていたのに見てくれなくなったし、私を見て怯えるようになったの。


 だって私は天使だから。


 サラ様を助けてあげないと。私が咄嗟に考えたのはそれだったわ。

 ところで悪魔祓いってどうやるかご存じ?基本は本人を叩いたりして物理的に追い出すの。

 でも美しいサラ様を叩くなんて、私には出来ないわ。


 悩みながら辺りを見てね、私とっても良いものを見つけたの。

 私はそれを拾い上げて、サラ様に言ったわ。自分で言うのもおかしいけど、その時の私は慈悲深い表情だったと思うのよ。


「サラ様、怖がらないで。私が助けてあげますから」


 その時よ。サラ様が甲高い悲鳴を上げて、窓から外に飛び出したのは。

 止める暇もなかったわ。あの細い肢体から、どうやってあんな力が出たのかしら。

 窓枠を突き抜けて、ガラスを突き破って、サラ様は落ちて行ったの。


 私、右手に花瓶を持ったまま暫く呆然としていたわ。

 ……あら、それで殴ったりしないわよ。悪魔は聖水が弱点だって聞いたから、中のお水をかけようとしただけ。


 本当に、それだけよ。

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