第7話 カメリエット地区その2
「オルガは私と同じ歳なの」
そう言うアレクシアの顔は緊張から固くなっていた。急ぎ足になるばかりに、ぬかるみに入り込む。跳ね返る泥がふくらはぎまで飛び、不快さに眉を寄せた。
「そりゃまた随分若い母親だ」
アルフレートの茶化す言い様にもアレクシアの頬は緩まない。家と家の間の暗がりから子供の顔が覗く。物欲しげな顔に、アレクシアはポケットから取り出したキャンディゼリーを、子供に握らせながら答える。
「そうよ、それもまた問題だと思ってる。出産や育児の知識も乏しく、生活基盤も無い。体だってまだ未熟な内に子供を作るのは……とてもリスクのある行為だと思ってる」
にやける子供に手を振り、再び早足に歩きだすアレクシアを、アルフレートは追いかけた。
カビ臭い小道を通り、三方を家のドアで囲まれた袋小路に入り込むと、その内の一つをアレクシアがノックする。扉の上部、下部共に大きく隙間が空いて歪んでいる。塗装はとうに剥がれ、木肌はささくれだらけだ。その内、中から強い気配を伴って扉が開かれた。
現れたのは体の大きな若い男だった。汚れた木綿のシャツ、ゲートルを巻いたズボンは見るからに労働者階級の人間である。肌の色艶からしてまだ十代だ、とアルフレートは読んでいた。扉を開ける際に男が見せた険しい顔に、アレクシアが小さく後退る。しかし男から出たのは潜ませるような声だった。
「あ……アレクシア様、どうしたんです?」
男は粗暴に行動したことを恥ずかしがるようにはにかむと、アレクシアに頭を下げた。アルフレートのことも気にする視線を投げてくるが、特にエルフに驚愕したり、嫌悪する様子は見せなかった。これは彼が寛容なわけでなく、単に『妖魔』とも呼ばれる異種族を知らないからである。
「あらルシオ、あなただったの……」
口元を押さえて驚くアレクシアに、ルシオと呼ばれた男はまた照れくさそうな笑顔を何度か下げて、後ろを指差した。
「オルガは中です。俺は仕事に行くから……」
「あら、ごめんなさいね、忙しい時に」
二人のやり取りにアルフレートは意味を飲み込む。ここはオルガの家であり、最近妊娠したという彼女のお相手がこのルシオであったということだ。
小走りに路地を行くルシオを見送っていると、アレクシアが小声で説明する。
「ルシオはオルガの幼馴染よ。ずっと一緒に育ってきたみたい」
そして再び家の中に視線を戻すと、
「誰?」
という女の声が聞こえる。不機嫌混じりにも聞こえるし、警戒の色も感じる声だった。アレクシアがそれをほぐすように大きな声で答える。
「アレクシアよ! 教会に来たついでにあなたの顔を見に来たの」
「……入って」
無愛想な声とは逆に、返事は来客を招き入れるものだった。アレクシアとアルフレートは一度、顔を見合わせた後、薄暗い部屋の中に入っていく。小さな流しのついた廊下を抜ければ狭く暗い部屋があるだけだった。その真中に椅子がぽつんと有り、そこに座って気だるそうにこちらを見る女はルシオ同様若い。赤いウェーブした髪はぱさついて鳥の巣のようになっているし、顔色も悪い。しかしオルガは美しい女だった。生まれる場所が違えば、良い結婚相手もいたに違いない。
「体調はいかが? あまり良さそうじゃないわね」
アレクシアは言いながら苦笑した。オルガは黙って頷く。立ち上がると薄手のワンピース越しに、すでにお腹の膨らみが分かる。そのせいか、痩せた手足が目立ってしまう。
「もう五ヶ月なんだって。でもまだ悪阻が治まらないんだ」
そう語るオルガは青白い顔で目を伏せる。鳥の鳴き声一つにも窓へ目をやる動きは、とても神経質になっているように見えた。アルフレートは間近に妊婦を見るのは初めてである。しかしお腹にいる生命を守る動きとしては過剰に思えた。
「ルシオも頑張っているみたいね。働き始めた、と聞いたの」
アレクシアの声掛けに、オルガは少し唇を噛んだ後に答える。
「うん、今日はこれから御用聞きに回るって。金持ちの家を何軒か回れば、何かしら仕事はくれるみたいだ。若いから重宝されるんだってさ。……その代わり、屋根に登ったり危ない仕事が多いみたい」
「それは……心配ね。でもルシオはきっと、あなたの為になりたいのよ」
その会話を前に、アルフレートは腕組し、息を吐いた。二人の間に流れる空気も、部屋を包む空気も重く、陰鬱だった。アレクシアの言葉は腫れ物に触れるかのようだし、母親になろうとする女の顔にも幸福感は無い。雰囲気を変えようにも、窓を開けたところで日差しは照らされないし、新鮮な空気は入ってこない。しかしこの場所が悪い、という問題だけなのだろうか。
「女って悲しいね。それでも家でじっとしてるしか無いんだ」
ふっと漏らすオルガの言葉は物悲しかった。アレクシアは両手を擦り合わせ、取り繕うように声を出す。
「あなたは自分の体のことを考えるのが仕事だもの。ルシオにはシュパンの方からも何か仕事を斡旋出来ないか、聞いてみるから」
「ありがとう、でも悪いよ。シュパン様にはいつも援助してもらってるから」
「ううん、今回はお母さんお父さんになるあなた達へのお祝いだと思って」
にこやかに言ったアレクシアの言葉に、オルガの動きが止まる。自らの発言で明らかに変わる相手の態度に、アレクシアはひどく動揺し、顔を強張らせた。
「父親は……ルシオじゃないんだ」
そう呟いた直後、オルガの目から大粒の涙が溢れる。アレクシアの方もそれを聞き、しばらく硬直してしまう。そして喘ぐように息を漏らした。オルガは堰を切ったように泣き出し、呼吸が乱れ始める。アルフレートの目にも女の精神の精霊が不安定な様子が見えていた。
「落ち着いて! 座りましょう。……ルシオは知ってるの?」
アレクシアの手招きに従い、腰を掛けるとオルガは一度、深く頷いた。肩に置かれたアレクシアの手を握り、懸命に息を整える。
「自分の子供として育てるって……。あたし、どうしたらいいんだろう。ルシオにもこれ以上迷惑かけられないし……こんな所にもう居たくない」
オルガの言葉に、アレクシアはアルフレートと目を合わせる。数度、瞬きすると思案がまとまったのか、一度、深呼吸してオルガの顔を覗き込んだ。
「オルガ、子供が生まれるまでは教会にいるのはどうかしら? ダントン神父ならきっと受け入れてくれると思うの。ここじゃ何かあった時に心配だし、食事や衛生面でも……」
言い終える前に、オルガの顔が青ざめる。それに気づいたアレクシアが彼女の肩から手を離した。
「教会には行かないよ……ごめん、もう帰って」
言うやいなや、オルガはアレクシアの体を廊下へと押しやっていく。アルフレートはただ黙って見ているだけだったが、家の扉を開けて誘導するような動きをしてアレクシアに睨まれた。
「オルガ!」
目の前で閉ざされた扉を前に、アレクシアは立ち尽くす。鍵など当然ついていない扉だが、家主の心が閉ざされてしまっては押し入る意味もない。
「……やっぱり急に押しかけたのが悪かったのよ。大事な時期なんだし」
アレクシアのぼやきはアルフレートへの八つ当たりだった。それはお互いわかっていたが、アルフレートも反論することなく、肩を竦めるだけに留めておいた。
「どうされたんです?」
恐る恐る、といった声掛けに二人は振り返る。背後に現れたのは先程、教会にいた修行僧だった。飾りは少ないが、ラシャの真っ白なローブが場違いなほど眩しい。彼にしてみれば家の中から突然現れた二つの影に、目を丸くしている。
「オルガの様子を見に来たのよ。……あなたは?」
「私は、彼女に届け物を……」
修行僧の男の手元には、アレクシアが教会の寄付と一緒に持参したお古の革靴があった。少しよれてきてはいるものの、ヒール部分は綺麗な、愛らしいデザインの女性物だ。
「靴を? オルガには毛布と言っていたのに。まあ、これもあげていいけど」
「ああ、そうだったですよね」
苦笑するアレクシアに、修行僧の方も照れたように笑う。そして頭をかく動作に右手を動かした時だった。アルフレートが男の左手から革靴を掠め取る。
「ちょっと!」
ぽかん、とするのみの男に代わり、アレクシアが抗議の声を上げた。
「オルガには私が渡しておこう。彼女は今、少しナーバスなんでね。……おっと、君も来るんじゃないぞ。君は彼女を怒らせたじゃないか」
アルフレートは足を踏み出すアレクシアにそう牽制すると、家の中にさっさと戻っていった。後ろから文句が続いているが、振り向くこともなく後ろ手に扉を閉める。アレクシアの声が小さくなると、代わりに部屋の中からすすり泣く声が聞こえてくる。
「……何しに戻ってきたの?」
足音を隠そうともしないで入ってきた子エルフに、オルガは一度視線を送ると、また後ろを向き、頬を拭った。
「教会から寄付のお裾分けだそうだ」
アルフレートが革靴を差し出すと、オルガはちらりと見ただけでため息をついた。
「持って帰って。……いや、やっぱ置いてって。後で売りにいくから」
「賛成するね。妊婦にこんなヒールの付いた靴を持ってくるなら、始めから金貨を持って来い、と言いたい」
アルフレートがそう言うと、オルガは目を丸くした後、笑いだした。
「いいね、坊や、気に入った。あんたは賢いよ」
「それはどうも」
頭を下げる子エルフに、オルガはもう一度クスクス笑う。そして先程の涙の残りを、さりげない仕草で拭き取った。アルフレートはそんな彼女の前に立つと、じっと顔を見る。
「な、何? あたしの顔になんか付いてる?」
「身を守る術を教えてやる」
それを聞き、オルガの顔が再び強張り始めた。冷え始める空気と、壊れた窓の蝶番が軋む音。アルフレートはそれを無視し、続ける。
「私は全て分かっている。大丈夫だ」
静寂が広がった。喧騒も、家の軋みも、鳥の声も聞こえなくなった。次の瞬間、オルガが大きな声で泣き崩れる。膝を抱え、子供のように泣き続けるオルガをただ見守り、アルフレートは待つ。
泣き声が収まってくると、アルフレートは懐を探る。そして一本の木片を取り出した。アルフレートの指程の大きさのそれは、燻したように真っ黒で、少し力を加えれば折れてしまいそうな程、細い。
顔を上げたオルガにアルフレートは木片を握らせると、胸元に仕舞うようジェスチャーする。戸惑う表情のオルガはしばらく木片とアルフレートの顔を見比べるが、仕方ない、というように胸の隙間に押し込んだ。
「危機がきたら、それを折るんだ。そしてこう叫べ。『オルトゥロス・セベルタ・イズィール』」
「え、え、オル……」
「『オルトゥロス・セベルタ・イズィール』」
アルフレートに続き、オルガも今度は綺麗に発音する。それを聞き、満足げに頷くと、アルフレートはオルガの腕を一度ぽん、と叩いた。
「お守りを折る前に、それをむやみに口にするなよ。あまりよくないものが寄ってくる」
アルフレートが部屋を出る際に言った忠告に、オルガは周囲をしきりに振り返り見ていた。
アルフレートは表に出ると、袋小路を抜けて教会のある通りに戻っていたアレクシアに手を振る。そして早足に追いつき、文句を言う体勢が見え見えのアレクシアに先制攻撃する。
「君の見る目の無さには呆れるね」
「は……はあ? はあ?」
口をぱくぱくし、アレクシアは組んでいた腕を解く。反論しようにも言葉が出ないようで、怒りと困惑から顔が赤くなっていた。そんなアレクシアに、アルフレートは自分と一緒に歩くよう促す。
「……君がまずやるべきは教会へのテコ入れだね。金の流れも見ておいた方がいい」
アルフレートの声はひどく冷淡だった。アレクシアは思わず足を止め、そして子エルフに追いつくために駆け足になる。
「ダントン神父が悪人だと言うの? もう何十年もこの地区でお務めをされてるのに」
怒りの声にアルフレートは強い語気で言い返す。
「悪人かどうか知らないが、無能なことは確かだね。あの修行僧を追い出さないというなら、君も無能だ」
それを聞き、アレクシアは再び立ち尽くした。今度はアルフレートも立ち止まり、唖然とする少女に続ける。
「疑うなら明日の朝を待つと良い。面白い知らせが入る」
「な、何をしたの」
アレクシアの震える声に、アルフレートは答えなかった。
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