ワールドクロニクル〜彼の足跡〜

@iguko

アルケイディア帝国編

第1話 妖魔の森

 北エデュリニア南部に広がる妖魔の森。その名の通り人ならざる者の住処であるこの場所に、エデュリニア人は当然ながら強い畏怖の念を持っていた。

 この世界には人を見れば、相手が赤ん坊であろうとも襲いかかる絶対的悪の存在がいる。人類からは「モンスター」と呼ばれる生物である。人類の文明から離れたところに立ち、時に破壊に走り、言葉は有さず、あっても意思疎通は出来なかった。妖魔の森にはそのモンスターであるコボルト、ゴブリンなど小型のものから、オーガ、トロルといった大型のものまでが生活を営んでおり、常に闊歩していた。また生える植物の中には人間をも飲み込む大型の肉食種まで自生し、さらには歩行し動くという。

 そんな森に、エデュリニア人であれば命知らずの若者であっても立ち入ることはしなかった。また入る気はなくとも、うっかりと森に近づいたものを森の奥へと誘導していくいたずら好きなピクシーも油断出来ない存在だ。

 その妖魔の森の最奥、エルフの集落があった。彼らがここに住んでいることはエデュリニア人の大半が知る事実だった。が、その集落を、エルフそのものを目にしたものは限りなく少ない。森自体に立ち入る者がいないのと、エルフ達もまた人と接触しようとしない種族だったからだ。

 馴染みのないものは畏怖される。『妖魔』の森という名が付いた理由もそんなところからだった。

 エデュリニアに生きる亜人にはエルフの他に代表的なものではドワーフもいる。南エデュリニアにはドワーフの文明社会、地下帝国の入り口があり、南エデュリニア及び北エデュリニアでは地下帝国から出てきたドワーフ達の姿をよく見られる。その為にこのずんぐりむっくりな造形の、職人気質の種族には、親しみを持っている人間が大半だろう。彼らは人間と物の取り引きし、人間の街で商売をし、お互いに酒を交わす。エルフとは真逆の性質だった。

 ドワーフの他、小柄で足の早い流浪民族モロロ族などの、人間の社会に溶け込む存在はまとめて『人類』と表され、直接的な対立は無くとも得体の知れないエルフは妖魔だった。




「アリュシオール、古老が呼んでる」

 細長い手足、色白の肌に先の尖った大きな耳したエルフの少女は部屋の隅に声を掛けた。呼ばれて本から顔を上げたエルフは少女よりも更に若くまだ子供だ。利発そうな少年エルフは生意気に座ったロッキングチェアーの上、訝しげに目を細める。

「私を? なぜだ」

「あたしに聞かないでちょうだい」

 そう答えた少女の名はオリベラ。お揃いのような麻の服に、二人共輝くような銀の髪に緑の瞳だが、姉弟ではない。

 オリベラは抱えていた籠からリンゴを三つ取り出すと、分厚い一枚板の、天板が立派なテーブルの上、折りたたまれたクロスにそれを乗せた。

「じゃあ伝えたからね。ちゃんと行きなさいよ」

 軽く睨む素振りを見せながらオリベラは表に出て行く。残りのリンゴも配らなくてはならないのだ。部族の中の誰がやってもいい仕事を、自分が指名されたことが、少女は不満だった。

 一方、文句を言う相手を無くして扉を見るだけになった少年の名前は、呼ばれた通りアリュシオールといった。ここエルフの集落『ヴェナトール』で彼は二番目に若い。一番若いのは去年生まれた赤ん坊だ。

 若いからと言って古老からの呼び出しをすっぽかしていい理由にはならない。ゆっくりと立ち上がる動作にアリュシオールの面倒な気持ちが表れていた。

 テーブルに本を置くと代わりにリンゴを掴む。午前中の眩しい木漏れ日に目を細めながら家を出た。ヴェナトールでは古老の言うことは絶対なのだ。振り返り、つる草で覆われた家を名残惜しそうに睨んだ。読んでいた本はあとちょっとで次の章に移るところだった。

 前を向けばアリュシオールの自宅と同じような家々が点在している。木造の平屋は文化的な方で、中には木をくり抜いて出来た家もある。ツリーハウスも、ここでは変わり者が住む家ではなかった。

「アリュシオール」

 途端に呼び掛けられる。去年までは最年少だったアリュシオールに、必要以上に目を掛ける者は多い。弓矢片手に話しかけてきた男、フェンディオールもそうだった。

「一緒に少し見回りに行かないか?どうもススリの落ち着きがないんだ」

 年寄りエルフは肩に止まった毛むくじゃらの小動物に困った視線を投げる。猫のような狐のような顔をし、長い尻尾をフェンディオールの腕に絡ませたススリは「キィ」と鳴いた。

 フェンディオールは古老に入ってもおかしくない年だが、のらりくらりとかわしながらいつも森を出歩いている。言うなれば変わり者だった。アリュシオールの方も同類と思ってか、この老エルフのことは無碍にしにくい。少々、残念そうな顔をして見せた。

「いや、古老の所へ行かなきゃいけないんだ」

「おお、……何かやったな?」

 ニヤリと笑うフェンディオールにアリュシオールは、

「心当たりが多すぎる」

と答えた。老エルフはからからと笑う。

「古老達はお前が大事なんだよ、アリュシオール。お前の頭が良いから」

 そうではなく、面倒なのだ、とアリュシオールは思う。が、黙っていた。

 集落を出て木々に溶け込むよう消えていくフェンディオールを見送り、また古老の元へと歩き出す。アリュシオールがふと視線を投げると、小川の脇で花輪を作る少女二人にあかんべーをされた。エルフであってもこの年頃は無邪気なものだ。幼年期と言われる年頃で、世を達観したような目をしたアリュシオールはエルフの中でも異質といえた。

 遠目に見える小屋の前、りんごを配り終えたオリベラが空いた籠を振りながらアリュシオールを監視している。それを片手で振り払う仕草をしながら、アリュシオールは古老達のいる森の奥へと続く「枝編みの道」へと入っていった。

 ヴェナトールの中心部にある、木の枝が無数に絡み合うこの道は、トンネル状になっていて古老の場所へと繋がっている。何者が、何故このような道を作ったのかは誰も知らない。何千年、何万年も前の神々の時代から存在するとも言われている。何処からともなく淡い光が漏れて辺りを緩く照らしていた。それは歩く者を幻想世界へと酔わせ、感覚を鈍らせた。五感、そして時間の感覚も薄れつつある奇妙な感覚。そしてそれらは抜けた先にいる古老達の神秘性を高めるのだ。

 枝編みの道を抜けてまた開けた場所に出るとアリュシオールは無意識に息を吐く。空に突き刺さるような高さの木々に囲まれ、ひっそりと佇む古老達の館はすぐそこに見える。辺りの草花がザワザワと揺らめき、触手を伸ばす。何者かを確認するように、またこちらを試すように蔓をアリュシオールに触れさせる。それらを鬱陶しげに避けながら少年エルフは館の前へとやって来た。

 呼びかけやノックは無意味だ。古老達は今ここにアリュシオールがいることを知っている。アリュシオールは無遠慮に扉を開け放った。

 古老の館は植物の塊である。大木をくり抜いて作られた部分もあり、普通の丸太作りの部分もある。またある箇所は蔓と藁を押し固めて部屋を形作っていた。その全てが今も生きており、侵入者に好奇の目を向け、相手をアリュシオールだと認めるとふわふわとマナを飛ばすのだった。

(小僧か)

 館の大部分を形成する大木がアリュシオールに語りかける。アリュシオールはそうだ、と意識の中で答えた。そしてそのまま館の広間を通り抜け、階段に進む。

(年寄りの説教を聞きに来たか)

 アリュシオールは今度は違う、と答えた。館が笑うように震えた。アリュシオールが階段の最後の段を上がるのと同時に、二階廊下の柱に掛かるランタンが燃える。アリュシオールの目に映る火の精霊サラマンダーが、魔法のランタンの中で萎縮しながら光を放っていた。そして奥にある両開きのドアがゆったりと開いていった。

「アリュシオールか」

 古老達の部屋、一番手前に座る老エルフがアリュシオールを見ていた。アリュシオールは自分で呼んでおいて、とも思うが反論は面倒だった。古老達は全部で六人いる。数に決まりは無いが、今はこの数だった。六人はドーム型の屋根の下、半円を作り座っている。その中で最長老であるランスイールが扉前にいるアリュシオールにため息ともつかないものを吐き出し、入るよう手で促した。

「また何かしましたかね」

 アリュシオールは自らそう進み出た。ランスイールは一瞬の間を置き、首を振る。

「何もしていない。そうであろう? お前は疚しい気持ちなど一切持っていないのだから。人間の本を読むのもそうだ。何の背徳感も抱いていない。……もうそれについてはいい」

 投げるような仕草をしながらランスイールは話題を終わらせた。銀色とも白髪ともつかない長い髪と、同じくらい長い髭がゆれた。

「今日、お前に話したいのは他のことだ。『セブ』にお前と同じ年頃の娘がいるのは知っているか?」

 セブはここヴェナトールと同じ妖魔の森の、エルフの集落だった。アリュシオールがヴェナトール以外のエルフの集落に行ったのは何年も前のことで、そこがセブだったかどうかも覚えがなかった。「いえ」と短く答える。

「いるのだ。その娘とお前を結婚させることになった」

 ランスイールの言葉はひどく平坦で、感情がなかった。アリュシオールは呆気にとられ、彼にしては長い時間、惚けていた。そして思い返したように徐々に沸く怒りで、唇が震えだした。

「何を、言い出すのかと思ったら……」

 何を馬鹿なことを、とはさすがに言えずに、子エルフはそのままそれを飲み込む。本音はその一つだった。

「古老、私はまだ子供を作る体になっていない」

 怒りの一番の理由はこれだった。エルフにとっての結婚は、恋愛の先にあるものでも家と家の結びつきでもない。子孫を残す行為、これだけだった。エルフは感情で動く生き物ではない。それがよく表れているのが、彼らの結婚制度の概念である。その結婚をまだ体の出来ていないアリュシオールに課すとは、愚行の他にならない。

「今すぐの話ではない」

 横から口を出すのはアルステル。古老の中では一番若い。少し前までは、狩りや見張り護衛を率先して行う『星鹿団』にいたため、今でも腰にレイピアを差している。若いエルフと古老達の橋渡し役が多いのも彼だった。

「もちろんお前が大人になってからの話だ。それまではお前がセブに行くわけでも、向こうの娘がヴェナトールに来るわけでもない」

「だったらその時に決めればいい」

 吐き捨てるようなアリュシオールの返答に、古老達は顔を見合わせる。その動きがさらにアリュシオールを苛立たせた。

「あなたたちが今、こんな話を持ち出したのは私を牽制したいからだ。『問題ない』と言いながら、私のやることを抑制したくて堪らない。だから結婚という先の道筋を叩きつけて、私を縛ろうとしているのだ」

 一気に言い終えると、アリュシオールは踵を返す。こんな話をする古老達以上に、頭に血を昇らせている自分に腹が立っていた。結婚という制度を勝手に決められて、怒りを感じるのは人間臭いではないか。自分は大丈夫、と思いながら人の書物に感化されたか、と爪を噛みたい気分だった。

 古老達の方はといえば、この生意気な子エルフの反応に表情が変わるわけでも、ため息の一つ出るわけでもなかった。しかし、その仮面が脱がされる自体が起こる。唐突に屋敷が震えだしたのだ。

「なんだ?」

 ランスイールはそう呟き、扉の取っ手に手をかけていたアリュシオールの足は止まる。

(侵入者だ)

 屋敷の声に全員の動きが止まった。

「コボルト族の子供でも迷い込んだか」

 アルステルが質問とも呟きとも付かない声で言うと、屋敷は一際大きな思念を飛ばす。

(人間だ)

 再び、全員の動きが止まった。妖魔の森を恐れる人間同様、エルフ達も急激に数を増やし続けるこの種族を、他の種族には無い警戒の念で見ていることが、この一瞬にして張り詰めた空気に現れていた。

「アルステル、速やかに退去させてくれ」

 そう言ったランスイールの声にはすでに感情は無かった。アリュシオールはアルステルの返事を聞く前に部屋を出る。人間の書く書物を読み漁ってるアリュシオールだが、人間に特別な興味があるわけではなかった。彼は純粋に世界に興味があっただけなのだ。それを満たすには事細かに物を書き残す、寿命の短い種族の書物は打って付けだった。ただそれだけであって、人間一人が迷い込もうとも、エルフの生活には何の影響も無いのだ。

 きっとこの人間も古老達の速やかな対処によって、危険な森の中へ戻されていく。それは死が待っていることと同じだったが、エルフには何の興味も、心動かされる要素も無いことだった。

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