第10話

 長い間、忘れていた恋。恋はいつも憧れで終わった。昔の僕の恋人は人柄は好きだったがそれは恋ではなかった。もうじき日付が変わろうとしている。僕はもう寝ないといけない。明日学校があるからだ。とある国立大学の大学院。そこで植物の研究をしている。


 植物の種を撒いて花を咲かせる研究。しかし、その植物は遺伝子組み換えされている。貧困から人類を救うための手段。僕はいつか世界を救う研究者になろうと思い、植物の研究を始めた。


 一人暮らしのマンションの部屋。僕はふと眠る前に見たテレビのバラエティ番組で清水を見た。そしてそれからしばらくして僕は彼女に恋をした。それは長く美しく切ない恋だった。僕は彼女と会い、時を共にした。そして彼女は僕に惚れ、僕は彼女を抱いた。しかし、テレビに出る女優という肩書を背負った彼女。僕は植物の研究者として25歳で起業し、26歳でテレビに出るようになった。僕が作った種はソーセージより売れ、連日ニュースやバラエティ番組に呼ばれた。そして清水が僕に取材に来た。




 長い夢を見た。僕はその夢が何か覚えていなかった。過去は記憶に過ぎない。未来は想像に過ぎない。今この瞬間にしか僕はいない。


 朝日がカーテンの隙間から差し込む。部屋の電気は消えているけど薄明るい。無意識のうちに僕は起き上がり、カーテンを開けていた。ふと昨日テレビで見た清水のことを思い出した。自分とは全く違う世界に生きる彼女。でも彼女が有名になる前は自分と似たような人生を送っていたんじゃないか。そんな気がした。僕は彼女のすべてを知らないし、彼女は僕のことすら知らない。


そしてきっと彼女は僕のことを知らないまま死んでいくのだろう。それもなんだか奇妙な気がした。そして僕もきっと死ぬまでには彼女のことを忘れているかもしれない。ただなんだろう。この胸に釘をさされたような感覚は。それがもちろん恋だとは知っていた。恋とは苦しいのだ。僕は昔、恋をしたとき、これは精神病なんじゃないかと思ったことがある。自分は今正常な状態じゃない。それだけは確かだ。


 学校へ行く準備をする。と言ってもシャワーを浴びて、歯を磨き、服を着て、水をコップ一杯飲むだけ。そんなの二十分あれば済む。そして起きてから三十分くらいで家を出て駅まで歩いていく。今日は空が晴れ渡っていた。この間までは雨の日が続いていたが、今日は快晴だ。心地の良い春の風が吹き、通りには桜の花びらが見えた。東京の郊外の駅から都心に向かっていく。駅前にはたくさんの店が並んでいるけど、どこか落ち着いている。


僕が電車に乗ったときは空いているのにだんだんと車内は混み始め、ある駅を過ぎたところから車内は悲惨な状況になる。僕は運よくいつも座っているが、立っている人は大変だと思う。僕は清水がどこに住んでいるか知らないけど、おそらくここからそんな遠くないところに住んでいるのではないだろうか。二十代も後半に差し掛かり、芸能人を見る目も子供の頃とは変わった。所詮彼らだって、僕たちと同じ人間なのだ。そして彼らはテレビに出ている、ある種のセンスや優れた外見を持った人物であるに過ぎない。もちろんそれだけでもすごいと思うが。


 僕の高校からの友達。日本最高の大学に行き、官僚になった友達は芸能人を見て「大変だよな」と言っていた。そいつはそもそもテレビも見ないし、芸能人に興味もなかった。僕は彼よりは芸能人に憧れを抱いていた。そしてもっと若かったころには芸能人になりたかったのだ。もちろん僕は別に容姿が優れているわけでもなく、なんの才能もなかったので無理だった。しいていうなら絵を描くことと勉強が少しできたくらいだ。


 中央線の沿線の景色が僕は好きだった。もちろん車内が混むまでの間だったが。最寄り駅につくと、僕はそこから十分ほど歩いていき、友人と同じ大学に通った。友人は学部をその大学で過ごしたが、僕は大学院からだった。僕は都内の理系のまるで工場みたいな大学に四年間通った。本当に大学と思えないくらい地味だった。キャンパスには、こういってしまうと誇張かもしれないけれど、大量の地味な男と少数の変な女がいた。僕はこの大学で彼女を作ることをあきらめ、バイト先で出会った子と一年半付き合っていた。


 その子は見た目もかわいかったし、性格もとても魅力的で、僕と話があったが、直感的に僕は将来別れるような気がしていた。そして些細なすれ違いから喧嘩して別れた。別れるときはあっけなく、連絡がとれなくなってしまった。僕はそれからしばらくの間彼女のことを思い出していた。胸の中には切なさや寂しさが広がり、誰かと一緒にいたいと強く思った。




 大学の最寄駅からキャンパスまで歩いていく途中、僕はマクドナルドで朝食を食べた。ハンバーガーをかじりながら、昔流行った曲を聴いていた。最近の曲は知らないし、きっといい曲もいっぱいあるのだろうけど、調べる気にもならず、昔買ったCDの曲を何度も聴いている。いったい今聴いた曲を何回聴いたのかも検討がつかないし、検討をつけようとすら思わない。店内の外は車や人がせわしくなく行きかい、皆大変だなと思う。学生とは気楽な身分なのだとつくづく思い知る。そしていずれは忙しく社会で働く自分を想像してみて少し憂鬱になる。


 大学院では修士を終え、博士課程に所属していた。中学や高校の頃の友人はとっくにもう働いている。なかには年収が一千万を上回ったやつもいた。そいつはとにかく人づきあいがうまく、外資系の企業に文系の大学を卒業して入った。25の今年開いた高校の同窓会でそいつは腕に外国の、名前は忘れたが高そうな時計をしていた。他にも商社に入ったやつや医者になったやつがいた。昔から地味だった僕はもちろんそいつらと比べても地味だった。


 ハンバーガーを食べ終えると僕は店を出て大学まで歩いていった。辺りには大通りとビルしかなかった。歩道と車道の間には木が植えられていた。植物の研究をしている僕から見ると排気ガスの二酸化炭素だらけなのできっと木々も喜んでいるだろう。そして今日は太陽がさんさんと輝いていたので、光合成にはうってつけだ。きっとどれくらいか知らないがたくさん酸素を排出するのだろう。酸素はもちろん僕たちにとって必要だが、なんとなく酸素を吸っているせいで死んでいく気がする。エネルギーを使って生きるとはろうそくのようなものなのだろう。ろうそくが命みたいなものだ。少しずつなくなっていく。ちなみにろうそくが燃えているのも酸素のおかげだ。


 大学へ着くと、僕は実験室の中に入る。僕が今やっているのはトマトの花を咲かせる研究。トマトの花が咲けば実がなる。そこでトマトの花を遺伝子導入によって限界まで咲かせ限界まで実をつけさせるという研究だ。実験室の中には無菌状態を作り出すクリーンベンチという機械が置かれていて、何千万も何億もする測定機械がずらりと並んでいる。その反対側には超高解像度の顕微鏡、これも一億くらいするらしいが、が三台ほど置いてある。トマトの細胞に、とある遺伝子を組み込むとトマトの花の数が増える。そこで僕はこの大学院に入ってからの三年間、ひたすらトマトの花を大量に咲かせ、実をつけさせてきた。そして今日ついにその研究成果を見ることができた。一つの苗に数百個の赤々としたトマトの実がついている。なんとも異様な光景だったが、僕はひとまず教授にそれを報告しに行った。


「これはすごい成果だ。だれもこんな植物を見たことがないだろう。あまりにも実の数が多すぎてずっと見ていると気持ち悪い」


 そういって教授は僕の研究成果を称えた。




 それからしばらくして僕は教授とともに特許を出願したが、教授は特許を僕に譲ってくれた。


「私はあと十何年で死ぬだろうし、どうせこれが世に出るころには死んでいる。それにほとんど君一人で出した研究成果だ。君の好きにするといい」


 特許は数か月でとれた。僕の研究成果はニュースになり新聞の一面を飾った。日本にある有数の食品会社が僕の元を訪れた。食品会社の担当者は僕に特許を譲ってもらうか、一緒に商品を開発しようと提案してきた。そして決まって彼らはこう聞いた。


「遺伝子組み換え食物だから評判も気になるし、栽培してるとき、ほかのトマトの種と混じったら大変じゃないですか?」


「僕は日本すべてのテレビ局に天才研究者という名目で呼ばれている。僕はそこで遺伝子組み換え食物の安全性を訴え続ける。それは誰が反対したとしてもだ。僕はこれで世界を救う。そしてほかの種とは決して混じらない。なぜならこのトマトは種を作らないからだ」


 僕はいろいろ考えてこのトマトを作ったのだ。そして僕は大学の研究所を後にし、テレビへ出演するようになった。僕は某大手調味料メーカーや商社と組んで、世界中にこのトマトの種をばらまいた。遺伝子組み換え作物が法律で許可されてるところもあったので、そこでは飛ぶように売れた。農家を中心に一般人までも買った。ヨーロッパの新聞は「ソーセージよりも売れた」と僕たちのトマトの種を取り上げた。


 僕は連日NHKやら日テレやらフジテレビなんかに呼ばれ、同じことを繰り返した。


「遺伝子組み換え作物は安全で、それは世界を救う」


 オバマのYes We CanやトランプのMake America Great Againと同じだった。僕は違う人々にそれは大体アナウンサーやタレントだったりしたが、同じことを繰り返した。そして政府も国会で少しずつ遺伝子組み換え作物について検討し始めた。僕はその頃、手に余るような収入を手にしていた。東京の西部の郊外の安いマンションから世田谷の超高級マンションに引っ越した。そしてこの辺りに清水がいてもおかしくないだろうなと思った。


なんたって世田谷の自由が丘のすぐそば、近くには高級な住宅や洒落た店しかないのだから。そして僕はいずれ彼女と出会うと直感した。今では僕は清水以上に名前が世に知れ渡っていた。それは主にトマトのおかげだった。超低コストでトマトが栽培できるようになったことで、先進国から後進国へとトマトが流通した。そして後進国でトマトが栽培されるようになり、トマトは供給過多になり、水よりも安く手に入るようになった。そこで貧しい人たちもトマトだけは食べられるようになった。そこで栄養失調が劇的に減り何百万の人々が救われた。僕はすでにノーベル賞の候補にすら挙がっていた。


 ありあまる名声と富を手に入れた。芸能人の知り合いも政治家の大物とのコネも持っていた。付き合おうと思えば誰とでも付き合えそうだった。街を歩けば人々が声を掛けてくる。そんな異常な日常もすぐに僕の中で当たり前の日常になった。何もかもが満たされたのに心の中に何もないのはなぜだろう。そんなことを思った矢先、僕は仕事で清水を目にしたのだった。




 その日の朝僕は高層マンションの最上階の部屋で目を覚ました。昨日芸能人たちと家でパーティーをした。僕のキングサイズのベッドにはまだ二十歳のそれほど有名でないモデルの女の子が裸で寝ていた。パーティーの後、僕は彼女を部屋に呼んだのだった。そのモデルの子は僕が誘うまでもなく、僕の寝室まで付いてきた。ほっそりとしていて胸のふくらみや腰の曲線の美しい体だった。アルコールが体中を回っていたので、僕たちはシャワーを浴びることもなく、そのまま抱き合っていた。こんな風に出会ったばかりの女の子と寝るのは僕が有名になってからはしばしばあった。


僕は目を覚ますとシャワーを浴びに行った。シャワーの冷たい水がぼんやりとしている僕の意識をいくらか覚まし、体の火照りを洗い流した。金があり、広い家に住み、女にも不自由しない生活。僕があれほど憧れを抱いていたのはこんな現実だったのだろうか。そしてこんな生活はいつまで続くのだろう。僕は国会中継や新聞やニュースを日々チェックしていた。日本で遺伝子組み換えが許可されるのか、それによって僕の会社の株価は変動する。


日が経つにつれて、ついこの間上場を果たしたのに、株価は右肩上がりに上昇していた。そして僕の資産はもう莫大なものになっていた。中国の経済不況や原油価格の下落の影響を受けるんじゃないかと思ったが、それらはあまり関係なかった。トマトの種で成功した金で僕は新たな研究を始めていた。トマト以外の作物でも成果を応用しようとしていたのだ。そしていずれは僕の会社が世界の食料を牛耳ることになるのだろう。僕がシャワーを浴び終わって、寝室に戻ってくると、モデルの女の子は白い下着を身に着けて、カーテンを開け、窓の外を見ていた。


「昨日は夢のようだった」


 僕が戻ってくると優しい声で女の子は僕に言った。


「私いつかこんなところで自分が好きなように遊びたかったの。そしてそこにあなたがいた」


 僕はテーブルの上に置いてあった煙草のケースから一本取り出し、ライターで火をつけて吸った。シャワーを浴びた後の体はすっきりしていて、煙草が僕の頭をぼんやりとさせた。カーテンは開け放たれ、太陽の光が直に部屋に差し込んでいる。美しい女が目の前にいて、部屋はこれ以上ないくらい住みやすく、厳選された食材を毎日食べることができる。


「そんなに昨日は楽しかったの?」


 僕は純粋にそう聞いてみた。確かに昨日のパーティーは楽しかった。でも今の僕にはあまり楽しみを感じる感性が残っていなかった。


「子供のころみたいに楽しかったわ。そしてあなたと過ごした夜も素敵だった」


「酔っていたから、あまり覚えていないんだ」


「あなたってなんだか変わってるわね。私がこれだけ口にした言葉はあなたの耳に届いているの?」


「もちろんすべて聞いてるよ。僕は君がそう言ってくれてうれしいんだ」


「私はまたあなたとこうして時を過ごしたいの」


「好きな時に来るといい。いつでもいいよ」


「私はあなたのことが好きなのよ」


「知ってるよ。僕も君に好感を持っている」


 僕はそう言って、隣の部屋へ向かった。今日の夜からまた僕はテレビに出ないといけない。それまでに会社の打ち合わせもあった。彼女はしばらくすると僕の家から出て行った。そしてもう二度と彼女は僕の元へやってこない気がした。




 タクシーの窓の外からビルの立ち並ぶ街の景色を眺める。僕は車の振動に揺られながらさっきの女の子のことを思い出す。彼女の長い髪が揺れているのがなんだか好きだった。タクシーの運転手は信号の前で停止してはまた走り出し、そして時折交差点を曲がっていった。僕は今日とあるテレビ番組の収録があった


そして清水にインタビューされることになっていた。僕が彼女に恋をしてから、いろいろあり、僕の心の中はそれどころではなくなっていた。まだ僕が有名になる前までは抱いていた憧れも今は静かに消え去っていた。それでも僕の心の中に彼女の存在はまだ確かにあったのだ。彼女のどこに惹かれたのかわからない。この思いもいつかは消え去ってしまうのだろうか。様々な女の子と出会い、彼女たちの中の何人かとは夜を共にした。僕はそのたびに女の子に対して愛おしい感情を感じる。そしてそれは少しずつ消えていく。


 タクシーはテレビ局の前についた。僕は巨大なビルへと歩いていく。初めて目にする清水はいったいどんな人なのだろうか。僕の心は好奇心に満ちていた。僕の心はまだ子供らしい好奇心を失っていない。それだけは確かだし、自分でも誇りに思っている。


 マネージャーと落ち合い、僕はその建物の中に入っていく。胸が徐々に鼓動を打ち始める。テレビ局の中は見慣れた光景だった。僕はエレベーターに乗り、廊下を歩き、ある部屋に通された。


「よろしくお願いします」


 長い髪と白い肌。ワンピースを着た清水の姿がそこにあった。


「よろしくお願いします」


 僕は返事をして席に座る。番組のディレクターが挨拶をした後、一通りの説明を始める。僕の手元には台本が渡される。あらかじめどんな質問がされるのかも、自分が何を答えるのかも決めておくのだ。僕にしたところで、大体どの番組でも話すことは同じだった。まずどういう経歴で今に至ったのかを手短に話し、そこに苦労話なんかを一つか二つ混ぜる。遺伝子組み換えなんていう難しい話はしない。今となっては僕はただ娯楽の要素としてテレビに呼ばれていた。


 部屋は広く真ん中に大きな白いテーブルがあり、その周りには観葉植物が置かれている。僕はテーブルの上に置かれた水を飲みながら、時折清水の方を見ていた。僕は話半分に適当にディレクターの話を聞いて、適当に意見したが、彼女はやけに真剣に台本を読み、話を聞いていた。きっと根がまじめな性格なのだろう。でもどこか僕と似ている部分がある気がした。それが何かうまく言葉にできないけれど。


 収録が始まると、カメラに囲まれたスタジオで僕たちは対談をした。あらかじめ決まった内容を話し、時折冗談を言って笑うだけで済んだ。僕はたくさんの人に囲まれていたせいか、とにかく話すことに精いっぱいで彼女のことを考えている余裕はなかった。収録はスムーズに進み、休憩に入ったとき、清水が僕に話しかけてきた。


「どうして研究者になろうと思ったんですか?」


 彼女は水を飲みながら汗を拭いていた。


「なりたくてなったわけじゃない。僕の人生がそういう方向に向いていただけだ。君はどうして女優になろうと思ったの?」


「私はもともとモデルをやっていたの。たまたま応募したコンテストで優勝してね。それからずいぶん長かったなぁ。テレビに出れるようになるまで。いろいろとつらいこともあったし何度もやめようと思ったの」


「いろいろ大変だったんだね。僕は運がよかったのかもしれない」


「あなたの研究成果何度もニュースで見たわ。すごいわね。あなたの作ったトマト。化け物みたい」


 そういって彼女は笑った。僕はうれしいような若干馬鹿にされたような微妙な気持ちだった。話をしていくうちに変わった人だなぁと思う。


「今度、どっかで食事でもしに行きましょうよ。私、あなたの作ったトマト食べたことあるの。イタリアンの店なんだけど、そこではあなたのトマトでスパゲティを作っているのよ」


「君みたいな有名人と僕が食事してたらまずくないか?」


「大丈夫よ。眼鏡かけて帽子をかぶって変装するから。化粧も変えていくわ。あなたはそうねぇ。いまかけてる眼鏡をはずしてコンタクトにしてきてよ」


「考えとくよ。よかったら連絡先を教えてほしい」


 僕はそう言って彼女と連絡先を交換した。その日の収録は夜まで続き、その間に僕と彼女は少しずつ仲を深めていった。まるで夢のような時間だったが、それもやはり現実だった。イメージしていた清水とはずいぶん違ったが、僕は彼女といて居心地が良かったことは事実だ。




 帰り道のタクシーの中、僕は一人で車の後部座席の窓に寄りかかっていた。スマートフォンを手にもって、何度も清水の連絡先を眺めている。いつか彼女から連絡が来るのを待ちながら僕はその日、家に帰った。マンションの高層階にエレベーターで昇っていく。手に入れた栄光の大きさをこうして実感する。僕はいったい何のために研究してきたのだろう。そしてこれから僕はどうなるのか。疲れた体を休めようと、家に帰ると真っ先に風呂に入った。湯船にお湯を張りながら僕は頭からシャワーを浴びた。体中の汗が流れていく。僕が今日見た夢は現実だった。まざまざと憧れを抱いていた彼女と時を共にした。そしてしばらくの間、自分の存在というものについて考える。相変わらず奇妙なものだと思う。そして数奇な人生だった。


 風呂から出ると、この間テレビ局の友人からもらったすごく柔らかいバスタオルで体を拭いた。とても肌触りがよくて水をすぐに吸収した。バスタオルを床に投げ捨て裸のまま、冷蔵庫からスパークリングワインを取り出して飲む。これも誰かからもらったやつだ。もうもらった人の顔を覚えていなかった。一口飲むと、透き通るような爽やかさや鼻を突き抜けるような匂い、味の深みを感じる。ワインの瓶を持ったまま、僕はバスタオルを体に巻いたまま、ソファにもたれかかる。静かな部屋だった。外から風の吹く音が聞こえてきた。何もかもはうまくいっていた。会社の業績も著しくもうじき東証一部に上場する。日本ではついに僕のトマトが輸入されるようになった。東南アジアで作られたもので、品質もよかった。僕は会社を立ち上げてから資金を研究につぎ込んだおかげで目まぐるしくトマトは耐久性と甘みを増した。今では遺伝子組み換えしていないものよりもはるかに上質なものができるようになった。


 スペインのトマトを投げ合う祭りがテレビでやっていた。そこでは僕のトマトが使われていた。既存の農家からはいろいろな声が上がったが、結局金の力で抑え込んだ。その辺は何とかしてくれるプロがいるのだ。スペインのテレビ局の人が取材しに来て、僕は日本語で話すと通訳がそれを話した。視聴者はどう思っていたのか知らないが、取材をした人はえらく感心しているように見えた。僕は海外の新聞社などからも取材の予定が入っていた。


ニューヨークタイムズ、ガーディアン、ブルームバーグ、名だたる一流のマスメディアが僕の元を訪れることになっていた。僕がソファから起き上がり、フルーツジュースを飲んでいるとき、スマートフォンが鳴った。清水から連絡がきていて、来週に今日話した店に行くことになった。仕事で多忙な彼女は久しぶりの休みらしく、僕はその日の予定をすべてキャンセルした。仕事なんてやろうと思えば毎日やることはあったし、休もうと思えばいつでも休むことができた。マネージャーに一言電話で告げるだけで済んだ。




 その日、せっかく清水と会う日だというのに外はどんよりとした曇り空で霧雨が降っていた。マンションの高層階から見下ろす街の景色はどこか暗く、人通りも少なかった。マンションの目の前にある大きな公園にも人の姿はなく、ただ木々が風に揺れてなびいているだけだ。僕は冷蔵庫からサンドイッチを取り出して、コーヒーと一緒に食べながらテレビを見ていた。政府が遺伝子組み換え作物の輸入を許可してからまだ日は浅い。時折テレビをつけると自分の姿を見ることも、前は奇妙に思えたが今は慣れた。


ソファにはこの前うちに泊まっていた女の子の下着があった。彼女がこの下着のために帰ってくるのかどうか僕にはわからないが、僕はそれをゴミ箱に投げ入れた。返してほしければいくらでも金はある。僕には持っている自分の会社の株だけで一生使い果たせないくらいの資産がある。まだ若い僕にこれだけの資産と人脈があるというのもなんだか考えれば考えるほど不思議だった。何のとりえもない地味な存在だと思っていた自分に突然、身の丈に合わない地位や名誉が授けられたのだ。僕はただ毎日テレビに出たり、会社の経営方針を決めたり、研究の状況を把握したり、その他もろもろのことに追われ、自分の今の状況を考える余裕がなかった。そしてその状況は日々変わりつつある。




 待ち合わせをした都内のレストランは個室になっていて、店内はやけに静かだった。平日の昼間、外は雨が上がり涼しい風が吹いていた。ウェイターに部屋まで案内されると、そこには清水の姿があった。彼女はいつもとあまり変わらない見た目をしていて、そういえば僕も眼鏡をかけたままだった。


「この間はお疲れ様」


 彼女はそう僕に言った。


「こちらこそ。お互いテレビやなんやらで忙しいね」


「あなたほどじゃないわ。悪いわね。私の都合に合わせてもらっちゃって。でも心の中ではこれっぽちも悪いなんて思ってないのよ」


 彼女はそういって運ばれてきたワインのグラスに口をつけた。


「君はなんだか不思議な言い方をするよね。出会ったころから思っていたけど。それは自然にやってるの?」


「私にもよくわからないわ。とにかく食事をしましょうか。このサラダに入ってるトマト、あなたの会社のよ」


 テーブルの上に置かれたトマトは確かに僕の会社のものだった。流通に関してはある程度は把握していたが、さすがにどこの店に卸されたのかまで全部は知らなかった。サラダには甘じょっぱい味のするドレッシングがかかっていて、トマトの甘みを引き出していた。店内の雰囲気から食材から味付けまで何もかもがよくできた店だった。そしてその中で食事をしている清水もこの空間の中にすんなりと溶け込んでいた。店内に響くピアノの音、気温や空気、そして口に運ばれるもの、目の前にいる美しい女の子。僕はそんな空間の中に浸り、それを味わっていた。


 次々に料理が出されていく中、話に聞いていたスパゲティが運ばれてきた。口に入れた瞬間にバジルの苦みとトマトの甘味が溶け合い、それは人に勧めたくなるのもわかるようなものだった。


 僕は清水の方を眺めながら話をし、上品な料理を口に運び、白ワインを飲んだ。アルコールがほんのりと体を温めた。それはもしかしたら彼女と一緒にいるせいかもしれない。彼女はまるで無邪気な子供のように笑った。


「私、今日は何にも予定入ってないのよ。不思議ね。いつもは一日にいくつも仕事があるのに、たまにこうやってぽっかりと休みの日ができるの」


「休みがなかったら大変だよね。きっとマネージャーが配慮してるんだろ?」


「事務所は毎日のように私を働かせようとするわ。これは偶然なのよ。あなたもそういう偶然みたいのって感じるでしょ。なんか運命みたいな」


「確かに僕もそういう経験をしたことはあるよ。いつだったか小さい頃、偶然その日見た夢と同じ光景を見たことがあった」


「それってデジャブっていうやつじゃないかしら。たしかフロイトが夢で見たことある景色を現実で再度見た時に感じるっていう」


 清水はそう言って、口元をナプキンでぬぐい、ウェイターが皿を下げにやってきた。しばらくの間話していると、デザートとコーヒーが運ばれてきた。コーヒーを一口飲むと、豆の味を感じるようなおいしい味だった。


「私、今夜予定ないのよ」


 彼女はそう言って僕の目を見つめた。


「僕の部屋に来る? 自由が丘のすぐそばの閑静な住宅街の中の高層マンション。景色も何もかも悪くないよ」


 冗談交じりに僕はそう言った。


「私、高いところから見る景色が好きなの」


 彼女はそう言って笑った。


 僕は手短に会計を済ませて、その店を彼女と一緒に後にした。彼女は眼鏡をかけて、ニットを深々とかけていた。僕は持ってきたキャップを目元を覆うようにかぶり、外に出た。すぐ近くのタクシーを拾い、僕の家まで彼女を連れていく。途中見る景色がいつもより愛おしく見える。彼女の存在がそうさせているようだ。ビルの上に大きく飾られた看板さえ、僕には愛おしいものに感じた。


タクシーの運転手は僕達の正体に気付かないまま、淡々と車を運転していた。車の進め方から止まり方から曲がり方まで何もかも熟知しているようにスムーズだった。車内では僕達は一言も話さなかった。そして僕の胸ははげしく鼓動を打っていた。そっと彼女の体に触れて見たくなったが、僕はそれをしなかった。ふと僕はこうやって清水と一緒にこの先も一緒にいるのだろうかと思いをめぐらさせた。もしかしたら彼女と結婚してもいいんじゃないかと思うくらい、僕は彼女に惹かれていた。


清水。つくづく僕は彼女と過ごせば過ごすほど、僕は奇妙な迷宮に入って行くような気持ちになった。恋をする心を抑えようとする臆病な心が僕の気持ちを愛おしくさせる。なんだか変な感情だったが、それは無味乾燥な世界に訪れた何かだった。そして僕はそれを今もう少しのところで手にしようとしている。熟した果実を食べるようなそんな瞬間だった。いったいどんな味がするのだろう。




 隣にいるのは僕が何度もテレビで眺めていた清水だった。僕は幸運からこうして彼女と一緒にタクシーに乗り、僕の部屋に向かっている。今、窓の外の景色を眺めている彼女は何を考えているのだろうか。そして自分の人生がここまで急激に変わってしまったのはなぜだろう。自分という存在が生まれてくる確率というものが奇跡に近いという話は聞いたことがあるが、今こうして自分がこのような立場にいるのも奇跡に近かった。そしてなぜだかはわからないけれど、女の子たちは僕のほうへとやってくる。それが地位によるものなのか名声によるものなのか、それとも自分自身によるものなのか僕には見当がつかない。ただ今の僕は昔のようなひどく律儀な自分ではなく大胆になっていた。


 タクシーはマンションの駐車場の前で止まり、僕はそこから降りた。清水はタクシーに乗ったまま少しそこから離れた公園の前で降り、また僕のマンションへと歩いてきた。僕は一足先に部屋に戻り、彼女からの電話でマンションのエントランスの扉を開けた。部屋に彼女を招きいれると、彼女は部屋の中を物珍しそうに眺めていた。


「広い家ね。いったい何人住めるのかしら。まさかそんなこと考える人いないと思うけど」


「この間はここでパーティーをやった。何人だって入れるよ。もちろん僕一人で暮らしているけどね」


「あなたってそういうことするのね?」


「そういうことって?」


「女の子を呼んでパーティーとか」


「なんで知ってるの?」


「仕事先の人から聞いたのよ。業界じゃあなたのことで話題はもちきりだもの。週刊誌だっていくつもあなたの写真を持ってるのよ。どうもそれはあなたの会社のせいで止められてるみたいだけど」


「そんなこと気にもしなかった。君と会っているのがばれないといいね」


「私、別にばれたっていいのよ」


 そういって彼女は僕のソファに座り、ニットと眼鏡をはずしテーブルの上に置いた。


「仕事に支障が出るだろ?」


「それくらい覚悟してるのよ。あなたってよっぽど鈍感なのね。まぁいいわ。喉が渇いちゃったから何かちょうだい」


「ソーダ、ウイスキー、ワイン、フルーツジュースとかがある」


 僕は冷蔵庫の前で彼女にそういった。


「水が飲みたい」


 彼女は僕にそういったので、僕は部屋においてあったミネラルウォーターのボトルから水を一杯グラスに注ぎ彼女に手渡した。彼女は僕からグラスを受け取ると一口でそれを飲み干した。こうやって彼女の姿を見ていると普段は快活そうに見えるけど、おとなしい一面もあるような気がした。僕は彼女のことを芸能人としてみていたが、今僕の家のソファで水を飲んでいるのは一人の若い女の子だった。


「疲れたから寝てもいい? なんだか急に眠くなってきちゃって」


「いいよ。毛布貸そうか?」


「お願い。あとクッションも持ってきて」


 僕は彼女に言われたとおり、部屋から客用の毛布とクッションを持ってきて彼女に渡した。清水はソファの上で体を丸め、クッションを枕代わりにして、頭から毛布をかぶって横になった。僕はしばらくの間、テーブルの椅子に座っていたが、そのうちに彼女は眠ったようだったので、僕は自分の寝室へ行って本を読み始めた。奇妙な平日の休日だった。少し窓を開けると午後の涼しい風が吹き込んできて気持ちがいい。彼女はどうやらぐっすりと眠っているようだ。僕はもう何度も読んだ古いアメリカの作家の小説を読み、センチメンタルな気分になった。




 清水が目を覚ましたとき、あたりは暗くなっていて、窓の外からはビルや住宅の明かりが見えた。


「おはよう」と冗談交じりに彼女は言った。


「おはよう。ずいぶん寝てたね」


「最近、あんまり寝てなくてね。なんかここにきたら急に眠くなっちゃった。それにおなかもすいた」


「冷蔵庫の中にサンドイッチがあるんだけど、食べる?」


「もっとちゃんとしたものが食べたい。何か頼んでよ」


 僕はそういわれたので、デリバリーをやっている店をいろいろと調べた。そして結局いつも使っている店に電話をかけて、料理を運んできてもらうことにした。


「中華は好き?」


「うん」


 彼女はそういってソファから起き上がった。僕のほうへと目をこすりながら歩いてきて、グラスをひとつ棚から取り出してその中に水を注いでいた。まるで昔からここに住んでいたんじゃないかと思うくらいにリラックスしていた。僕はデリバリーの料理が来るまで何か音楽でも聴こうと思い、オーディオでクラシック音楽をかけた。モーツァルトの曲だった。僕が一番好きな曲だ。


「この曲何?」


「モーツァルトだよ」


「なんて曲?」


「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」


「ずいぶん古い曲が好きなのね」


 彼女はそういうと水を飲み干し、またソファのほうへと戻っていった。そして寝転がりながらこっちのほうをじっと見ていた。僕はテーブルに座りながら彼女の視線を感じていた。そしてその視線が意味しているものを汲み取ろうとしていた。


 彼女はしばらくすると僕のほうへとやってきた。そして座っている僕の肩にそっと手を触れた。僕は自分の心臓が鼓動を打つのを感じた。


「もうじきデリバリーがくるよ」


「そんなの気にしなくていいのよ。また後で来てもらえばいいじゃない」


 僕は彼女の手をそっと握り、髪に手を回し口付けをした。甘くてとろけるような瞬間だった。モーツァルトの奇妙な明るい曲がクライマックスを迎えていて、この瞬間の雰囲気を壊そうとしていたが、僕たちはそんなことすら気にならなかった。彼女は目を閉じたまま、そのままにしていた。僕は髪の毛からゆっくりと手を肩のほうへと下げていった。彼女の肌に触れ、体温が伝わってきた。彼女は僕の体に腕を回した。僕たちはきつく抱き合いながらキスをし続けた。体はいままでにないくらいに熱を持ち始め、頭の中は彼女の存在でいっぱいだった。それくらい僕は彼女のことを愛おしく思っていた。彼女は僕から唇を放すと僕の手を握りながら寝室のほうへと歩いていった。僕は彼女と一緒にベッドに体を投げて、横になった。そしてもう一度抱き合いキスをした。


「あなたって他の女の子ともこういうことしたの?」


「したことないよ」


 僕はとっさにそういった。


「私、信じるからね」


 僕はうなずき彼女の髪の毛をなでた。そして彼女をベッドに仰向けにした。彼女は荒く息をしていた。僕は彼女を独占したい欲求にかられた。そして一枚一枚服を脱がせていった。彼女は恥ずかしそうにしていたが、徐々に慣れていったようだった。お互い裸になると僕達はまるで子供のようだった。そして気が済むまでお互いの体を確かめあった。


「もしあなたの言ったことが真実だったとしてもね、女の子はきっとあなたと最後まで一緒にいたいと思うんじゃないかしら?」


「僕は君に対してそう思ってるよ」


 彼女の白い肌はほんのりと赤くなっていて、汗が首筋にたれていた。僕は彼女の胸を手でやさしく包み込みながら、もう一度彼女の存在を確かめるようにキスをした。




 ベッドの上はまるでこの世界から切り離された場所のようだ。モーツァルトの曲の後ろについていたシューベルトの最期の交響曲の旋律がリビングから響いてくる。窓の外には輝く建物の明かりに包まれた街が見える。清水は僕の体の中で息をしていた。柔らかい彼女の肌の温もりを感じ、僕は長い間忘れていた愛情を思い出した。


「もう一回したい」


 彼女は汗だくの体を起こして、僕の上に覆いかぶさった。


「君となら何度でもできるよ」


「じゃあ朝がくるまでこうしていてね」


 僕は彼女の中に入ったまま、抱きしめていた。彼女は僕が腰を動かすたびに激しく息をした。そして目を閉じた彼女の唇に何度も口づけをした。これほど近い距離にいて、肉体の一部を共にしているのに、やはり僕達は別々の個体なのだと感じてしまう。だからこそ、僕達はお互いのことを求めるのだと思う。


「このままずっと一緒にいたいの。あなたが死ぬまでずっと一緒に」


「僕と結婚する?」


「あなたがそうしたいなら」


 相変わらず、不思議な言葉遣いをする人だと思う。なんだか変わっているなと僕はずっと彼女と関わっていて思っていた。そして僕は彼女を抱きながら、髪を撫でてその温もりをずっと感じていた。僕が射精を終えても彼女は僕の体を離してくれなかった。だから僕達はそのままずっと二人で唇を重ね合ったり、小声で冗談を言ったりして笑い合っていた。静かな夜の時間はあっという間に過ぎていく。窓の外の街が徐々に明るさを取り戻していくとき、彼女は僕の腕の中ですやすやと目を閉じて眠っていた。


僕は彼女の頬に手を触れながら、夜の明けていく街の景色を見ていた。太陽が昇る前の青い光に包まれた世界。ほとんどの人がまだ眠りの中にいる。そして僕はきっとこの世界の中で幸せな瞬間を味わえた数少ない運のいい人間なのだと実感する。僕には目を閉じて息をしている清水が愛おしくして仕方がなかった。そしていつまでも一緒にいたいと願った。




 目覚めた時、もう昼過ぎになっていて、清水はいなくなっていった。携帯電話を確認するとマネージャーや会社の人から何件も連絡が来ていた。僕は眠い目をこすりながら、彼らと電話で短い間、話をして、仕事は明日に回してくれといった。彼らは一様に僕の言葉に不満をもらしたが、決定権を持っているのは僕だ。そして彼らは僕の尻拭いを毎回することになる。マネージャーいわく、今日来ていたフランスのテレビ局からの取材がキャンセルになったらしい。僕にとってはそんなことは構わない。冷蔵庫からよく冷えたミネラルウォーターを取り出して、ペットボトルのまま飲み、そのままシャワーを浴びに行った。


テーブルの上には清水が残していったメモがあり、仕事に行ってくると書いてあった。外からは昼間の強い日差しが射しこんでいた。シャワーを浴びたら近くを散歩して、どこかのカフェで昼食でも取ろうと思った。僕は風呂場へ行き、シャワーの蛇口をひねった。高級マンションだけあって床や壁なんかが石でできていた。ひんやりとしていて、シャワーの水を浴びるとなお気持ちがいい。髪を洗い、顔を洗い、体を洗って全身から汗を洗い流す。明日から溜まっている分の仕事に追われると思うと少し憂鬱になったが、そんなことはなるだけ気にしないようにしながら僕は風呂から出て体を拭いた。


洗濯したばかりのシャツを羽織り僕はさっきの飲みかけのペットボトルの水を飲みながらソファに座った。テレビをつけると昼の番組がやっていて、もしかしたら清水が出ているかもと思い、全局見てみたが、出ていなかった。もしかしたら雑誌の取材や他のなんかかもしれない。彼女とは一夜を共にした限りで細かいところまではしらなかった。僕はテレビを見るのにも飽きると、テレビを消してオーディオのスイッチを入れた。


モーツァルトの交響曲第四十一番が最初から流れてくる。演奏はウィーンフィルハーモニー、指揮者はイタリアの有名な人で二十年も前の録音だ。僕は最初から最後までモーツァルトの曲を聴いた。そして第四楽章で時に涙が出そうになり、最後には心から感動した。やはりモーツァルトは天才なのだと思い知る。そして僕は今ここで何をやっているのだろうかと今一度考えてみた。こうして清水と出会った今、僕のそういった類の欲求は満たされていた。そして日々テレビに出て、不毛なことをしている場合ではないと悟ったのだ。僕はマネージャーに電話を掛けた。


「もう僕はテレビには出ない」


「いきなり何を言うんですか? もう三か月先までスケジュールが組んであるんですよ」


「そんなものすべてキャンセルしてくれ。僕は申し訳ないけれど、君と話すのもこれが最後だ」と僕は僕より年上のマネージャーに言った。


 彼はしばらくの間黙りこみ、僕に「本当にいいんですか?」と確認してきたが、僕は「構わない」と言い放った。


 僕にはまだやるべきことがあった。それはテレビに出て、くだらない冗談を言い続けて有名になることじゃない。世界を本気で救ってみせるという目的がまだ残っていた。




 僕はそれから神奈川の自社の研究所に向かった。三階建ての建物でそこに百人以上の研究員がいた。設備はどれも一流で全部あわせれば百億はくだらない。僕が研究所の入り口をカードを使って開けると、会議室で議論をしている声がしていたり、その反対側にはガラス窓の植物の飼育室があった。みなせわしなく動いたり実験したりしたりしていた。製薬会社や大手食品会社、大学から引き抜いてきた優秀な若手の、といっても四十を越えている人もいるが、そんな人たちが現場の指揮をとっていた。


「おはようございます」


 僕が研究所の所長室を訪れると白髪交じりの所長が僕に挨拶した。


「おはよう。研究は進んでる?」


「この間、新しい研究成果が出まして稲でも大量の実をつけさせることに成功しました」


 その所長はうれしそうに僕にそういった。もともとは某国立大学で準教授をしていた優秀な研究者だ。僕は学生のころ、学会で何度もその人の講演を聴いていた。そしてその人の研究のセンスを確信していたので、破格の待遇でその人を所長に招いた。


「僕もそろそろ研究に戻ろうと思って」


 僕は秘書が持ってきたお茶を飲みながら言った。


「というとここで研究なさるのですか?」


「いや、実は前々からアメリカの色々な大学に教授として呼ばれているんだ。あっちの方が設備も人材もそろっているし、なにより研究がしやすい。会社の経営は続けていくが、僕ははじめからもう一度すべてを自分でやり直そうと思っている」


 所長は呆然とした顔で僕のことを眺めていた。そしてしばらくの間、あごに手を添えて考え事をしていた。


「相変わらず、考えることが突飛ですね? でも設備も人材だって日本でもいくらでもそろいますよ。わざわざアカデミックでアメリカに行く必要もないんじゃないですか?」


「昨日、モーツァルトの交響曲を聴いたんだ」と僕はふいに言った。


 自分でもそんなことを口にするとは思わなかった。部屋の中はしばらくの間静寂に包まれた。所長は僕が次の言葉を話し始めるのを待っていた。僕はそのとき清水富美加のことを考えていた。アメリカに行ったら彼女となかなか会えなくなってしまう。それだけが気がかりだった。


「それで?」と所長は耐えかねたように僕に言った。


「僕が発見したのはたまたまの偶然なんだよ。その後の成功は全部君たちのおかげだ。僕はもう一度自分の力で成功を手に入れたい」


 僕はそういい終えると、秘書に挨拶をして部屋を後にした。人生の中の不思議な流れによって僕はこんなに大きな研究所を作り上げてしまった。そして今僕はそこを去ろうとしている。正直なところ僕も自分が何を考えているのか本当のところわからない。ただ思い立ったことを我慢することができないだけだ。建物の外は雲ひとつない快晴だった。旅立ちを決意した日にはふさわしい。神奈川の川沿いの道を僕は歩き始めた。川の水の流れの音がとめどなく耳に響き渡る。この場所に研究所を作ろうと思ったのもここの景色が好きだったからだ。いつか釣りにでも行きたいなと思った。そのときは清水も連れて行こう。そして誰も知っている人がいない場所で心ゆくまで遊ぶのだ。




 研究所から家までの道のりはどこか懐かしく、まるで子供のころに小学校から家に帰るときのようだった。僕は無意識のうちに背負っていた心の重みがなくなったように感じていた。そして自分の感情や欲求というものを隈なく見渡してみたが、それは目の前に広がる美しい夕日や川の景色に比べればどうでもよいものだった。電車の窓の外から見る景色が夕焼けに包まれていた。もう何度こういった景色を見てきたのか忘れたが、きっとアメリカに行ったら懐かしいものに感じるのだろう。僕がこの人生で求めたものは何だったのだろうと思いをめぐらせる。どこかの天才のように退廃的でもなかったし、かといって堅実にひとつの目標に向かって生きてきたわけでもなく、不良になったわけでもなかった。別に自らの意思で地味な存在を演じていたわけでもなかった。


 電車から降りると並木道の住宅街を歩いていく。日が沈みかけていて、電灯に明かりが灯り始める。公園では小さな子供たちとそれを見守る親たちがいた。いったい彼らが何を考えて日々を生きているのか僕にはわかるような気がしたし、わからない気もした。高層マンションのエントランスを通ってエレベーターに乗り、上層階に上がっていく。体が一瞬重力を感じ、また元に戻る。重力の不思議に一生取り付かれた人もいれば、僕のように植物の神秘に取り付かれた人もいた。遺伝子を人間が操れるようになってから、生命に関して人は多くのことを知った。僕もまさか自分自身が遺伝子によって形作られたとは想像もしなかった。だから植物の遺伝子を組みかえれば思い通りの新しい植物が形作れるという発想に至ったのだった。でもそんなことは生物を勉強している人なら皆知っている。僕はたまたま運よくたくさん実をつける遺伝子を発見したに過ぎない。


 部屋の鍵を開けると、そこに清水がいた。彼女の長い髪が部屋の明かりに照らされていた。彼女は白いシャツの上に薄い茶色のジャケットを羽織っていてレースのスカートを履いていた。どうやら仕事帰りのようだった。


「どうして入ってこれたの?」と僕は聞いた。


「合鍵を見つけたの。ここを出て行くとき、鍵をしていったほうがいいと思って」


「よく見つけたね」


「あなたの机の引き出しを開けただけよ」


 彼女はそういって僕に微笑みかけた。僕は冷蔵庫のほうへいき「何か飲む?」と彼女に聞いた。


「さっき冷蔵庫からあなたのお気に入りのフルーツジュースを飲んじゃった。もうご飯は食べてきたし、お酒も今日はいらないわ」


「じゃあ僕だけ簡単に食事をするよ。今日は研究所に行って帰ってきたばかりなんだ」


 僕はそういって棚からパスタを一束取り出して、鍋でお湯を沸かした。


「研究所に何しに行ったの?」


「アメリカに行くことを所長に話したんだよ」


 鍋のお湯は温度が上がって徐々にぐつぐつという音がし始めた。


「アメリカって、いったい何をしに行くの?」


「大学で教授をするんだよ。そこで一から研究をやり直す」


「本気で言ってるの?」と彼女は言って僕の目を真剣に見つめた。


 普段は冗談交じりのことしかつぶやかない彼女が見せた本当の姿のように見えた。見た目からして相手に恐さなどは与えないし、温厚な性格だったが、僕はそういわれて胸の中に釘を打ちこまれたような気持ちになる。優柔不断な僕はいつも適当に人生の選択をしてしまうが、本当のところこうするのが正しいのか確信が持てずにいた。


「日本にいたら、きっと僕は今の環境のまま経営者としては成功するかもしれないけれど、一流の世界を変える研究者にはなれない気がした。こんな僕の性格だからきっと甘えてしまうと思うんだ。それにこの先もずっと日本にいる未来が想像できない」


「私とはどうするの? まさか私も連れて行くつもり?」


「君は日本にいたほうがいい。なによりも君が掴み取った仕事をこんなところで捨ててほしくない」


 パスタをゆでるために沸かした鍋の中のお湯は沸騰を続けていて、その音が部屋の中に響き渡っている。いまさらパスタをゆでる気もなかったし、興奮のせいで食欲はなくなっていた。僕がふと彼女のほうを見ると彼女の目は涙で潤んでいた。本当に見ているだけで綺麗な女性だった。そして僕は自分の人生の選択の仕方に確信を持った。今こうしてこの瞬間にいるのは間違いなく自分が選択をしてきたおかげだ。そしてそれは正しかった。なぜならこうしなければ彼女と出会うことはなかったのだから。


「わかったわ」


 彼女はそうつぶやいて、ソファに腰を下ろした。さっきまで元気のよかった彼女の目が悲しげで疲れているように見えた。たぶんこれ以上何もしないほうがいいんだろうと僕は感じた。だから、僕はそのまま何も言わず浴室のほうへ行った。彼女はかばんを手に持ち「鍵置いていくわね」といって部屋から出て行った。浴室の洗面台の前で僕は服を脱いだ。このあたりの店で買ったシャツやらなんかだった。僕は少し自暴自棄な気分になり、服を投げ捨てると、浴室で頭から冷たい水を浴びた。そしてこの先にどんな人生が待っているのだろうかと思いを馳せた。それが生易しいものではないことは想像がつく。


なぜなら科学者としてはまだ自分は未熟で才能があるかどうかすらもわからないのだ。いきなり一流大学の教授としてしかも英語圏の環境でやっていけるのか、頭につのるのは不安ばかりだった。シャワーの水があまりにも冷たかったので、僕の体はすぐに震えだした。水滴がとめどなく体を流れていく。人生とはきっとこんなもので僕はこの中の一粒の水滴のようなものなんだろう。センチメンタルな気分になるといつもこんなことを考え始める。そしてこのマンションの浴室に施された装飾やなんかがひどく馬鹿げたものに見えた。




 風呂から出ると、外の空気がやけに冷たく感じた。きっと冷たい水を浴びすぎたせいだ。バスタオルの生地の感触が心地よくて、体を拭いているうちに自分の体温を取り戻す。奇妙なくらい静かな部屋だった。僕の胸は相変わらず釘に刺されたように傷んだ。僕は大学院で研究をしていたまだ有名になる前に頭の中で一つの仮説を立てたことを思い出す。それは人間には意識と無意識が存在し、無意識が主に行動に影響しているという仮説だ。だから自分の意識の中では自分自身が選択をしているように思っていても、それは無意識の力によるものだったりする。運命や神など神秘的に感じるものはすべてこの無意識のせいだと思った。そして実はこの無意識が想像以上の力を持っていると思った。


 僕は体を拭き終わると、冷たい水を飲み、服を着た。コットンの服は僕の体を温めた。そしてぼんやりとした意識のまま、テレビをつけた。僕はパソコンを開き、インターネットで清水が出ている番組を探した。そして深夜のドラマに彼女が出演していることがわかった。僕は冷蔵庫からワインの瓶を取り出して、コルクを開けた。カリフォルニア産の白ワインだった。たまたまこの前スーパーで買ったやつだ。僕はそれをグラスに並々と注ぎ、飲み干した。アルコールが体を巡ってそれが脳に達したのを感じる。香りと後味のよいワインだった。


僕は電話でピザを注文し、しばらくの間、本を読んでいた。オーディオのスイッチをつけて、クラウディオ・アバドが指揮をしたシューベルトの交響曲第九番を聴いた。センチメンタルな気分をよりセンチメンタルにさせるうってつけな曲だ。僕はこのとき、普段は感じることのない寂しさを感じていた。人生には苦労がつきものだと思うが、時々幸せな瞬間がやってくる。そしてその幸せが去っていくとき、胸の中に寂しさが広がる。


 インターホンが鳴ったので出ると、青い制服を着たピザの配達の人だった。僕はお金を渡してピザの平べったい箱を受け取った。箱の外側にも熱が伝わってくる。大してうまくもないピザを片手に僕はワインを飲み続けた。つまみみたいなものだったし、夕食もかねていた。そういえばさっき沸かしたお湯がそのままになっていたことを思い出し、僕は鍋からお湯を捨てて、鍋を棚に戻した。オーディオのスピーカーからシューベルトの美しいメロディーが聞こえてくる。ちょっとモーツァルトに似ているなと思った。確か二人ともオーストリア出身だったはずだ。


父親がヨーロッパを旅行した帰りに買ってきてくれたのがモーツァルトのCDだった。別にそんなもの日本でも手に入ると思ったが、いざ聞いてみるとその美しさに魅了された。それ以来、僕はこうしてクラシック音楽を聴いている。音楽とは不思議なものでいくら疲れていても聴くことができる。本は疲れているときはあまり読まない。そういう時は横になりながら、落ち着いた曲を聴くのが一番だ。


 ピザを食べ終えて箱をゴミ箱に捨てる。その頃にはワインの瓶も空になっていた。僕はもう三回くらい同じ曲を聴いていた。小説は半分ほど、読み終え、今日中に全部読んでしまおうかと思った。イタリアの作家が三年ほど前に書いた作品でその中に音楽家がでてくる。僕がこの本を読もうと思ったのも、その音楽家がでてくることを知っていたからだった。僕には小さいころから音楽への憧れがあった。でも親は特に音楽をやらせなかったし、僕も一度自分でピアノをやったことがあったがすぐに飽きてしまった。


 夜の時間は昼間よりも早く過ぎていく気がする。アメリカに行くまでにやらなければいけないことはたくさんあった。論文も読まなければならないし、いろいろな手続きをしないといけない。僕にはカリフォルニア大学に知り合いの有名な教授がいたが、その人からのオファーを受けようと思った。ロサンゼルスにある大学だが、一度行ったときはとても住みやすそうな環境だった。カリフォルニアの穏やかな気候の中研究に集中することができそうだった。もし時間があれば清水を連れてきてもいいだろうなと思った。


 深夜、僕は部屋のカーテンを閉めて、テレビの前に座っていた。清水の出ているドラマがすでに始まっていた。彼女が出ているシーンを僕は眺めていた。そしてつくづく魅力的な人だなと思った。演技はともかく何か人を引き付けるものを感じた。そして僕の家にいた彼女とは別人のように見えた。


 ドラマを見終えると、僕は寝る支度をして、ベッドの中にもぐりこんだ。眠りはアルコールのおかげですぐにやってきた。そして清水富美加のことを思い出しながら僕は深い眠りについた。




 あれからの日々を僕は断片的に思い出すことがある。


 僕はそのとき、カリフォルニアのUCLAから車を飛ばし、海岸沿いの方へと向かっていた。日本とは違って大気は乾燥していて、一年中穏やかな気候だった。照り付ける太陽の日差しが、フォルクスワーゲンのセダンの窓を照らしている。途中通る街並みは主にコンドミニアムやビルや一戸建ての住宅が広々と並んでいて、それらの色は落ち着いていて、背の高い木がところどころに生えている。車道の横をヘルメットをかぶったロードバイクが走っていた。この辺りは大学が多く、バックパックを背負って歩いている大学生の姿をよく見かけた。


 大通りにでるととても広い車線に出て、まばらに車が行きかっている。助手席の方の窓からは芝生に覆われた広大な土地が柵に囲われていた。


 まっすぐとどこまでも続いているような広い道が夕日に照らされている。きっと今がもっとも美しい時間帯なのだろう。僕は太陽が昇る朝と沈む夜が好きだ。


 海沿いにはたくさんのアパートが建っていた。僕は路肩に車を停めて、海の方へと歩き出す。道路は海の中へと伸びていて、途中で止まっている。その先には青い波立つ海と対岸の街が見える。左を見ると果てしない水平線が見えた。午後の照り付ける日差しが海面を銀色にきらめかせる。涼しい冷たい風が僕の体を通り過ぎていく。着ていた半袖のシャツが風になびく。



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