第1章 始まりは突然に~その3

春といっても、3月はまだまだ寒さが厳しい季節。

朝は特にその厳しさを感じます。

重ねて日中との寒暖差によって霧の濃い日が続いており、芭蕉を迎えにきた駕籠もその霧に紛れて、芭蕉庵の前に到着しました。

芭蕉から「見送りはよい」…と言われていたので、ソラは雨戸越しにそっと顔を覗かせていました。町駕籠まちかごとは違う、漆塗りの高級な駕籠ということは遠目にでも確認できました。身分の高いお方の駕籠であることに違いありません。

駕籠は芭蕉を乗せ、再び霧の中へ消えて行きました…。


江戸城下、武家屋敷。

当時、武士と町人のエリアがはっきりと分かれておりました。

その中でもひと際大きいお屋敷の一室。

仄暗ほのぐらい部屋にろうそくの灯がユラユラと揺れて、人影がまるでお化けのように漂っています。襖が一枚、音もなく開くと、四角い顔のお武家様が人影に話しかけました。

光圀みつくに様、芭蕉様がお着きになりました。」

人影はなんと!天下の副将軍、水戸光圀みとみつくにだったのです!

「どれ…役者が揃ったな…。」

立ち上がりながら光圀は呟きました。

「は?」

「いや、何でもない…独り言じゃ。今行く…。」

光圀は、足下に敷かれた大きな絵を見おろすと、口髭とあご髭を一緒に大きく撫で回しました。

絵には、恐ろしい鬼と勇ましい龍が睨み合う姿が描かれておりました…。揺れるろうそくの灯りで、まるで生きているかのように見えます。

「さて…噂の言霊師ことだまし…、どんな器か…」

光圀は再びぽつりと呟くと、部屋を出て行きました。


無駄に大きな客間に、芭蕉は眼を閉じて静かに座っておりました。

同じ部屋にもう一人、細身のお武家様がまるで監視役のように、芭蕉とは離れて座っています。


そこへ光圀が襖を開けて入ろうと……したのですが、一旦襖を閉めて光圀の後ろに付いてきた四角い顔のお武家様にこそこそ話しかけました。

「あれが松尾芭蕉?何かわしのイメージと違うんだけど…?」

「はぁ…どんなイメージでした?」

「え?坊主っていうか…禿げたおっちゃんって感じ?」

「それはよくわかりませんが、あの方がちまたでブイブイいわせてる俳人の芭蕉様で間違いございません。」

「あ…そうなの?」

光圀は気を取り直してへやへ入り直しました。後ろから四角い顔のお武家様も入室し、細身のお武家様の隣に腰を下ろしました。


「わざわざご足労、かたじけない。気を楽にしておもてを上げてくれ、芭蕉殿。」

「こちらもわざわざお声掛けいただき、誠に恐縮でございます。ただ、句会の打ち合わせであれば、ふみでも良かったのですが……。」

芭蕉は「句会の打ち合わせ」ということでここに呼ばれていました。

「いやいや…この度は俳聖・松尾芭蕉としてお迎えしたのではないのじゃ…。」

光圀は後頭部をポリポリと掻きながら、困ったように笑いました。

「はて?それはいったいどういう事です……。」

それに対し何となくそんな気はしていた芭蕉は、眉ひとつ動かさずにいました。

すると光圀は、静かだがもの凄く強い口調で答えました。

「言霊師・松尾宗房まつおむねふさ殿としてお呼びした!」

これにはさすがに、芭蕉の眉がほんの少し動きました。

「お言葉ですが…上様。宗房の名と言霊師の技は、故郷・伊賀の里へ封じて参りました…。今ここにおりますのは、俳人の松尾芭蕉でございます。」

そんな事はどうでもいい…そんな感じで、光圀は先程と少しもトーンを変えず、話を続けます。

「では……天海上人てんかいしょうにんの弟子として話がある……と言ったら……どうじゃ?」

「!?」

さすがに芭蕉の顔色も変わってしまいました。


「心して聞くがいい………近々、魔王信長が復活する!!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る