スプーンに曲げられた、私の世界
司馬仲
第1話
スプーン曲げ。『超能力』の代名詞とも言える、そのあまりにも有名な技。私がそれを初めて見たのは七歳の時。夕方にママと見ていたテレビ。白黒の画面に映る男の人が、手に持った銀色のスプーンをほんの少し撫でた後、彼が念を送ると、スプーンの首の部分がみるみるうちにくるりとねじれ、最後にはぽっきりと折れてしまった。それを見た私はとても感動したわ。興奮して興奮して、ママにこんな事を宣言したの。
「ママ、私もスプーン曲げるっ!」
私のそんな言葉にも、ママは優しく笑ってくれた。
「うふふ。エマったらすぐテレビの真似をしたがるんだから。さあ、そろそろ夕飯にしましょ」
その日の夕食はシチューだった。白いクリームの中に赤いニンジン、黄色いジャガイモ、透明なタマネギ。あと……緑色のブロッコリー。色はきれいだけど、ブロッコリーは嫌い。でもその日はちゃんと食べた。だってとても心がウキウキしてたから。
「エマ。今日はずいぶんと機嫌がいいな。何かいい事あったのか?」
パパったら知りたがりなんだから。でもこの時の私は機嫌がよかったから、ちゃんとお話ししたわ。
「パパ、私ね、スプーン曲げできるようになるの!」
「スプーン曲げか。じゃあエマは超能力者ってわけだな。こりゃいいや!」
「えへへ、そうでしょ! ほら、こうやってやるんだよ!」
私はシチューのついたスプーンの柄を右手でぎゅっと握りしめて、パパに見えるようしっかり腕を伸ばした。パパがそのスプーンをちゃんと見てるのを確かめてから、私はスプーンに『曲がれ!』と強く強く念じたの。……でもスプーンは曲がってくれなかった。当たり前よね、いきなりそんなことできるわけない。
「あれえ……おかしいな……」
「ははは、エマ。そう簡単に誰でもスプーン曲げができたら、超能力者なんて呼ばれ方はしないぞ。そうだな、普通能力者ってのがいいところだ」
パパがそう言って笑った。ママもつられて笑う。……私は、悔しかった。絶対に曲げてみせる。そう心に誓った。
それから毎日スプーン曲げの練習をしたわ。朝も夜も、学校にまでスプーンを持って行ってたのよ。みんなに見られないように練習するのは大変だった。だって超能力の練習をしてるなんて知れたらかっこ悪いじゃない。超能力は成功するからすごいの。できないところを見ても何にもならないわ。だからこっそり練習したの。
それから何年も経って、私は十四歳になった。まだスプーンは曲げられなかった。でもね、私この時に気づいたの。練習するにはこの場所はふさわしくないって。町の喧騒の中じゃあ集中力が発揮できないのよ。だから私、山に登ることを決心したの。
ちょっと遠いけど、私が住んでた町の外れに大きな山があった。そこは人っ子ひとりいない、まさに生活社会から隔絶された、超自然的な場所だった。スプーン曲げの練習をするにはうってつけ。山に籠ってひたすら修行しよう。あの頃の私はそう考えたの。本気だった。
山で生活するための装備を整えるため、私はアルバイトに明け暮れた。パパもママも、私が不良になったと思ってたわ。だってアルバイトでずーっと家に帰らなかったんですもの。学校でも居眠りばかりで勉強ははかどらない。成績はガタ落ち。補習すらサボってアルバイトに行ってた。スプーン曲げさえできるようになれば、勉強なんかできなくたって大金持ちになれる。そう本気で思ってた。私ってばバカよね。
そして一年後、十五歳になった私はいよいよ山に向けて出発した。誰にも何も言わずに。十五歳ですもの、超能力者になるために山に籠るなんて狂った人のやる事だ、ってさすがにわかってたから。パパにもママにも内緒。町中のみんなが寝静まった深夜、ごてごての編み上げブーツを履き、人がひとり入りそうなぐらい大きなリュックを背負って家を出た。少し歩いて、ふっと振り返って、自分の家を見ながら思ったの。スプーン曲げができるようになるまで、ここには戻ってこない、って。
そして改めて山を目指して歩いた。不思議なのよね。山に着くまでの間、パパやママ、お友達や近所のお店のおじさん、いろんな人たちの顔が頭に浮かぶの。人だけじゃないわ。自分の部屋の窓から見える街並みや学校の中庭、いろんな風景を思い出した。でも一番不思議だったのは、その時、私はぼろぼろと涙を流して泣いていたということ。今頭に浮かんだ全てのものと、永遠のお別れになっちゃうような気がしたの。……今思うと、あの時、スプーン曲げはできなかったけど、代わりに未来予知の力があったのかもね。……ふふ、なんちゃって。
歩いて歩いて歩き続けて、山の麓に着いた頃にはもうすっかり夜が明けて、涙も乾いてた。登山客も全くない山、あるのは獣道だけ。私はためらうことなくその獣道を進んだ。アルバイトして買った新品のマチェットという剣のような刃物で背の高い草をなぎ払いながら、ひたすら上へ上へ登ったわ。
何時間か登り続けて、私は運よく山小屋を見つけたの。山小屋といっても、何十年も前に打ち捨てられたような、ぼろぼろで崩れそうな汚い小屋。人間、特にあの時の私みたいな若いレディが住むような場所じゃあ絶対になかったわ。
でも私は迷わずその小屋に住むと決めた。腐りかけた木のドアをそっと押すと、ドアは大げさに軋みながらゆっくりと開いた。中はホコリとカビとクモの巣と、もともとはテーブルやイスだったであろう細かい木片だらけ。無駄に高い天井の
ドアの横二辺の壁には、私の目線よりちょっと高い位置に小さな四角い窓がひとつずつついていた。でもガラスが割れて木枠もぼろぼろで、窓と言うよりは、ただの穴って感じ。床の近くにいくつか開いている横穴と大差ない。
「きゃっ!」
窓から射す光に照らされた小屋の隅に、ぐちゃぐちゃに溶けたネズミの死骸を見つけて、そんな悲鳴をあげた。やめとけばいいのに、その死骸に近づいて、よく見ると小さい虫がたかってうにうにと
でも私はその小屋で生活する事を決心して曲げなかった。長らく誰も住んでないこの山に、これ以上の優良物件は無かっただろうし、そこに辿り着くまでずーっと歩き通しで、正直とても疲れてた。屋根があればもうどこでもいい、早く横になって休みたかった。……いわゆる妥協ってやつね。
さっそく私は背中のリュックを下ろし、新品の赤い寝袋を取り出した。ブーツを脱いで寝袋に入る。すると私はあっという間に眠ってしまったの。催眠ガスを吸った時もあれぐらいあっという間に眠ってしまうのかしらね。
次の日から私はスプーン曲げの練習を始めたわ。無くしても大丈夫なように二十本も用意したんだから。小屋の中でじっと動かずスプーンに意識を集中させる日もあれば、外に出て木々に囲まれながらスプーンに念を送る日もあった。雨の日は雨漏りに悩まされたわ。仕方ないから少しずつ屋根の補修なんかしたりもしたわね。素人でも意外となんとかなるものよ。でも風の強い日は怖かった。だって風が壁の穴を通って怪人の笑い声みたいな音をさせるんだもの。小屋自体も大きく揺れて軋んで、今にも屋根が落ちてきちゃいそうだった。
しばらくして、用意していた食糧が尽きた時は焦ったわ。そりゃあいつかは無くなるってわかってたけど、いざ無くなってみるとどうしたらいいかわからなかった。その時小屋にウサギが迷い込んできたの。あの時ウサギが現れてくれなかったら、私は飢え死にしてたかもね。動物を狩って食べる、という方法に気づかないまま。
私は死んだウサギの耳を片手に小屋を出て、血のついたマチェットで近くの草を刈り取って平らな地面を作った。そこにサバイバル術の本を見ながら木と石を組んで、小さなかまどのようなものを作り上げた。粗末な出来だったけど、ちゃんと火が点いて、ウサギもしっかり焼けたのよ。調味料を持ってこなかったから味は薄かったけどね。
そうやって動物を狩ったり、後で見つけた川で魚を釣ったりして飢えを凌いだの。もうあんな生活はごめんだけど、あの頃はそれなりに充実感を感じてた。ひとりでも、不思議とさみしくなかったし。多分、孤独を感じる暇も無いほど、毎日生きるのに必死だったのかもね。
山に入ってから二年ぐらい経って、私が多分十七歳になった頃……ああ、『多分』っていうのは、正確な月日が途中でわからなくなっちゃったから。テレビもラジオもカレンダーも持っていかなかったのよ。
とにかくそれぐらいの長い時間が経った頃、私は山を降りる事になったの。……スプーン曲げができるようになったからじゃないわ。あの日……そう、あの日。まあ、正確に何年の何月何日かはわからないんだけど。あの日……山全体に、火がかけられた。――戦争が起こったのよ。
私は外の情報を全部シャットアウトしてたから知らなかった。私が家を飛び出してからしばらくして、この国は隣の国と仲が悪くなっていた。なんでも、私の国で、子どもが行方不明になったそうなの。それが隣国による誘拐だと叫ばれて以来、ふたつの国は一触即発の関係になってしまった。もともとこのふたつの国はお互いに交易が盛んで、いろんなものを売り買いしてた。でもそれができなくなって、両国ともだんだん生活が苦しくなっていったの。それでやっぱり国民のために仲直り……ってなればよかったんだけど、そうはならなかった。両国とも互いの領土を奪おうと準備を始めた。……そう、戦争の準備。
先に準備を終えて仕掛けてきたのは隣国の方だった。それがあの山への放火だったの。あの山は隣国との国境近くにあった。木が行軍に邪魔だからって焼き払うことになったのね。
その時私は小屋の中でスプーンを片手にじっと意識を集中させてた。目を閉じて。そしたら外から音が聞こえてきた。いつも動物を焼く時に聞く、炎が弾ける音。私は何も焼いてないのにおかしいな……。そう思っているうちにどんどん音は大きくなった。いつの間にかちょうど目線の高さに来るようになった窓から外を覗くと、そこから見える風景は、夕方でもないのに真っ赤に染まっていた。私よりも遥かに高く大きな火柱がそこかしこに立ち並び、草も木も何もかもを飲み込んで、どんどん成長を続けていた。呆然とその様子を眺めていたけど、とうとう小屋の壁に火が燃え移って、ようやく正気に戻った。早く逃げないと死んでしまう。私はせっかくアルバイトして揃えた装備を全部置き去りにして小屋を抜け出した。とっくに壊れて外れ、枠だけになっていたドアを走り抜けた時、持っていたのは薄汚れた鉄のスプーン一本だけ。まあ逆にそれでよかったのかもしれない。あの重い装備を全部持ち出そうとしてたら、きっとすぐ疲れて倒れてしまってただろうから。
少し錆び始めていたマチェットも、書いてる内容は全部頭に入ってるサバイバル本も、破れて穴が開くたびに着替えの服を縫い合わせてつぎはぎだらけになった寝袋も、そして私を二年間雨風から守ってくれたボロ小屋も……全部全部、私が別れを告げた途端に、赤く燃えて……崩れて……その姿を永遠に消した。
私は走った。いつもとはまるっきり違う、まるで地獄のような絶望の山を。息が苦しくて、何度も意識が途切れそうになったけど、気力を振り絞ってなんとか走り続けた。右に曲がったのか左に曲がったのかもわからない。ちゃんと麓に向かえているのかもよくわからなかった。それなのに、なぜだかスプーンはずっと離さずに持っていた。リレーのバトンでもあるまいし、どうしてあんな頑なに握っていたのかしらね。
「山が! 山が燃えてるんです! やまっ……ごほっ……山が……!」
奇跡的に山を降りることができた私は町の人々に向かって声を張り上げた。久しぶりに大声を出したせいか、喉がとても痛かったの覚えてるわ。
「おいおいどうしたんだよお嬢ちゃん。山が燃えてるって……当たり前じゃないか」
「えっ……?」
私の周りに集まった人たちはみんな、山が燃えているというのに涼しい顔をしていた。むしろ私の言う事に対して不信感を持ってるみたいだった。
「ど、どういう事ですか……?」
一番近くに立っていた若い男の人に尋ねると、その人は
「知らないのか? 今日あの邪魔なクソ山に火を放つって、国のお偉いさんからお触れがあったじゃないか。……もしかしてあの山に行ってたのか? 命知らずなお嬢ちゃんだなあ」
「え……そんな、まさか……ここは……」
そう、私は降りる道を間違えて……いえそもそも道なんて無かったけど、登った時と反対側を走って……私の住んでた町じゃなく……隣の敵国に逃げてきてしまっていたの。それに気づいて私は全身が凍ったように冷たくなる感覚がしたわ。
「どうした? ……お嬢ちゃん、なんか怪しいな……」
焦った。ここで私が向こう側の国の人だとばれればどうなるか、いくら勉強のできない私でもわかる。
「な、なんでもないです! ちょ、ちょっとうっかりしてて……つい山の方に行っちゃったんです!」
「そうか? ……まあそう言うならいいけどな」
他の人たちもとりあえずは納得してくれたみたいで安心した。でもその直後、私は信じられない言葉を耳にした。
「お、いよいよ軍隊が出発したぞ。お嬢ちゃんも見るといい。なんせ戦争だ。めったに見れるもんじゃないからな。裸になったあの山を一気に越えて、反撃されないうちに素早く向こうの国を制圧するんだぜ! かっこいいよなあ……」
私は息が止まりそうになった。彼の指す方を見ると、確かに大勢の兵士らしき人たちが列を成して、私が必死に降りてきた山へ向かって進んでいた。兵士たちの持つ銃がキラリと光って、私の目に焼きついた。その瞬間、私はハッと気づいた。あの山を降りて最初にあるのは私の住んでた町。私のパパとママが住んでる町……。そこに銃を持った兵士たちが……。つまり……!
「いやっ! だめ! 行かないで! お願い!」
私はパニックになりながら兵士たちの列に向かっていった。でもすぐに周りの人たちに押さえられてしまった。
「おい! 何を言ってる!? 気でも狂ってるのか!?」
「いやああ! 離して! パパが……ママも……みんな殺されちゃう!」
「おいみんな! この女狂ってる! 早く病院に連れて行くぞ! このままじゃ何するかわからん!」
「いやああああ……!」
私はわめき続けた。なんて言ってたか自分でも覚えてない。叫びすぎて喉から血が出たのだけははっきり覚えてるけどね。
……あの人が言ったとおり、私は狂ってたのよ。「スプーンを曲げたい」っていう、それだけの理由で、学校をサボって、必死にお金を貯めて、マチェットなんて物騒なもの買って、親にも黙って家を出て、二年間も山奥のボロ小屋にひとりで住んで、動物を殺してその肉を食べて、お気に入りだった服を躊躇無く切って寝袋に縫い付けて、挙句に……スプーン握って何もできないまま病院のベッドの上に縛り付けられて……パパもママも……みんなみんな見殺しにしただなんて……! 狂ってなければ何だっていうの!?
……数日後、退院して、私はこっそり自分の町に戻った。……何も無かった。私の家も、学校も、公園も、スーパーマーケットも、全部ただの瓦礫になっていた。人も、生きてる人はひとりもいなかった。二年前に枯れたと思ってた涙がその時になってこんこんと溢れてきた。数日前まで私の家族が生活していたであろう瓦礫の前に跪き、私は顔を覆って泣いた。
ふと、足元で金属音が鳴った。ビクリと情けなく飛び上がったけど、それはただ私のポケットに入ってたスプーンが地面に落っこちただけのことだった。スプーンを拾い上げて見つめる。
実際に手に取って感触を確かめることができる思い出は、もうこのスプーンだけ。あとは全部、思い出の中から出てこられない。パパもママも、学校の宿題も、あの小屋も寝袋もお手製のかまども……!
私はスプーンを胸に強く抱いて泣いた。わんわんと声をあげて。その泣き声も、暗く厚い雲が全部吸い込んで、誰の耳にも届きはしなかった。
スプーンに曲げられた、私の世界 司馬仲 @akira_akari
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