町外出張に伴う日々雇用職員採用


 日曜の朝、日乃出は普段着に身を包んで玄関の前に立っていた。夏は作務衣か甚平、冬は綿入り作務衣と半纏で過ごしている日乃出にとって、シャツにジャケット、綿パンという服装は実に8年ぶりのことである。


「やれやれ、まさかこんなことになるとはな」


 日乃出は昨日の出来事を思い出した。いきなり入日の口から出た遊園地へ行こう宣言。さすがに即答はできなかった。

 買い物のような短時間ならまだしも半日家を留守にするなど、自宅警備員の職務に携わるものとしては許されざる行為である。


「遊園地は無理だ。もっと近く、たとえば時鐘東公園とかで手を打ってくれないか」

「あんな公園、ブランコとベンチしかないじゃない。どうしても辰巳たつみレジャーランドへ行きたいの」

「しかし家を留守にするわけには……」

「お願いを聞いてくれるって言ったじゃない。どうしても駄目だって言うのなら立ち退き同意書にサインして」


 絶体絶命の日乃出である。だが、そこは自宅警備員8年間の経験が物を言う。しばらく考えた後、日乃出は名案を思い付いた。押入れから電話機を持ち出し、室内機器に繋いでダイヤルする。


「もしもし日乃出です。ポチ先輩、じゃなくて番犬ポチ君のことでちょっとご相談が……」



「日乃出ちゃーん、来たわよ」


 普段着で玄関に佇んでいた日乃出に声を掛けたのは、ポチ先輩の飼い主である老婦人だ。家を留守にする自分に代わり、明四津家の一日自宅警備員をポチ先輩に務めてくれるよう、昨日電話で依頼したのだ。そして今朝、ポチ先輩を連れて屋敷に来てくれたのである。


「おはようございます。そして私の頼みを快く引き受けていただきありがとうございます」


 深々と頭を下げる日乃出に対して老婦人は明るく笑って答える。


「いいのよ~、日乃出ちゃんの頼みだもの。遊園地でデートなんでしょ。応援しないわけにはいかないじゃない。もういい年なんだから、がっちりモノにするのよ」

「あ、はあ……」


 日乃出は言い淀んだ。デートなどという単語はもちろん、同伴者があるという話すらしていない。遊園地へ行くと言っただけでここまで妄想を広げられてしまったのだ。しかもその妄想はかなり真実に近いのであるから、女の直感は侮れないものだとしみじみ思う日乃出である。


「日乃出くーん、おはよう」


 まずいことに老婦人が帰る前に入日がやって来た。老婦人は驚いて声を上げた。


「あらまあ、お相手は入日ちゃんだったの。お似合いじゃない」


 どうして自分と入日がお似合いと判断したのか問い詰めたくなった日乃出であるが、ポチ先輩の飼い主にそのような無礼な振る舞いはできないので思い留まった。


「あ、おば様。おはようございます。ポチちゃんを貸してくれてありがとうございます」

「これくらいお安い御用よ。入日ちゃんも大きくなったわね。役場の仕事はどう?」


 二人は顔見知りなのだろう、親し気に会話をしている。考えてみれば入日はあの悪名高い暮六尽逢魔時の孫。この町の住人なら知っていて当然、むしろ数日前まで名前すら知らなかった日乃出が異常なのである。


「さてと、あたしはこの辺で失礼するわ。ポチ、しっかりお留守番するのよ」


 一日分の餌と水を置いて老婦人は帰っていく。ポチ先輩はいつもと変わらぬ威風堂々とした態度でそれを見送った。実に頼もしい姿だ。


「ポチちゃん、今日はお願いね、わしゃわしゃ」


 入日に頭や腹や背中を撫でられても、ポチ先輩は顔色ひとつ変えず不動の犬座りである。日乃出は感動した。


『さすがです、ポチ先輩。これでオレは安心して出張に行けます』


 心の中で感謝の辞を述べながらポチ先輩に最敬礼した日乃出は、入日と共に門扉へ向かった。


「どうぞ、出発します」


 黒塗り高級車に乗せられて辰巳レジャーランドへ向かう四人。運転席と助手席には黒服の地上げ屋二人。後部座席には日乃出と入日である。


「えっと、入日君。君はいつも彼らに送り迎えしてもらっているのかい」

「そうだよー。明四津家へ行く時だけじゃなくて、役場の行き帰りとか、食材の買い出しとか、近所のコンビニへお菓子を買いに行く時とか、いつも乗せてもらっているのよ」


 なるほどと納得する日乃出。暮六尽の命令とはいえ、こんな小娘のお守りをするのはさぞかし大変なことだろう。気の毒な役目を押し付けられている二人に対し、日乃出は同情を禁じ得なかった。と同時に、乗用車ではなく町営バスで明四津家へ通っていた丑光にもご苦労様と言いたくなった。


 やがて車は目的地へ着いた。日乃出は一銭の金も持って来ていない。入日が全て負担するという条件で遊園地行きを了承したからだ。さりとて年下の女性に金の支払いさせるのは、さすがに後ろめいた気がする。


「オレはパスポートじゃなく入園だけでいい。乗り物で喜ぶような年じゃないし」

「何を遠慮しているのよ、日乃出君。アトラクションを楽しまなきゃ来た意味がないでしょ。それにあたし招待券を持っているからお金要らないんだ。オマじいがここの株主で、毎年余るくらい年間パスポートをくれるんだよ」


 オマジイ? と一瞬首を傾げた日乃出であったが、すぐに逢魔時のことだとわかった。あの古狸を「オマ爺」と呼べるのは世界中を探しても入日ただ一人だけだろうと思われる。


 それから二人は遊んだ。最初は渋々付き合っているような態度だった日乃出も、やがてその表情に明るさと活気が溢れてきた。この遊園地の目玉は辰巳ジェットコースター。その名の通り、最初は暴れまくるドラゴンのような迫力だが、最後に行くにつれ田んぼで日向ぼっこしている蛇のように穏やかになる竜頭蛇尾なアトラクションだ。


『子供の頃を思い出すな。ここにも何度か連れてきてもらったっけ』


 すっかり忘れていた幼い頃の記憶が日乃出の中に蘇ってきた。日乃出と一緒に大声を上げる父。怖くてバーにしがみついている母。ベンチに座って三人を見守る祖母。そんなささやかな幸福に満ちた日々が確かに日乃出にもあったのだ。


「楽しい? 日乃出君」

「ああ、楽しいというより懐かしい感じかな。童心に帰った気分だ」


 入日が満足そうに頷く。同時にカバンの中へ手を突っ込んでいる。


「ねえ、あたしと日乃出君の親密度……」

「凄くアップしたでしょ、だからサインして、って言うつもりだろうけど無駄だよ。サインはしない」

「ちょっと、あたしのセリフを取らないでよ」


 入日は今日も立ち退き同意書を持参しているようだ。常人離れしたこの熱心さには、呆れたのを通り越して敬意さえ感じ始めている日乃出である。


 夢中でアトラクションを楽しんでいるうちに昼になった。この遊園地は食べ物、飲み物を自由に持ち込める。二人は芝生広場へ行って入日お手製の弁当を開いた。おにぎり、サンドウィッチ、から揚げ、フルーツ。ピクニックの定番であるが、良い食材を使っているのだろう、スーパーで売られている物とは段違いの美味さだ。


「相変わらず料理だけはプロ級だな」


 日乃出の褒め言葉を聞いて満更でもない入日。しかし続いて聞かされた言葉に表情が曇った。


「申し訳ないが、オレのために料理を作るのはこれで最後にしてくれないか」

「えー、どうしてですかあ」


 不満顔の入日に日乃出は説明する。昨日の話は全部が全部作り話ではない。入日の料理を毎日食べられるのならいいが、そんなことはあり得ない。食べられる日と食べられない日がどうしても発生する。一旦御馳走に慣れてしまうと、粗食だけで過ごさねばならない日は例えようもなく苦しいのだ、と。


「金曜日は一日中食べ物のことばかりを考えていた。君が作る料理は喜びよりも苦痛をオレに与えているんだ。それにどれほどウマイ料理を作ってくれたところで、オレは決してサインをしないだろう。金と時間をドブに捨てるようなものだ。君にとってもオレにとっても、この料理は何のメリットもないんだ」


 入日は黙って聞いていた。日乃出の話が終わっても、顔を伏せたまましばらく何も言わなかった。が、やがて思い直したように顔を上げた。


「わかりました。日乃出君に苦しい思いをさせるのなら、作る意味がないですからね。あたしの『お料理でサイン作戦』は終了することにします」


 思ったよりも簡単に納得してくれた入日を、日乃出は意外に感じた。根は素直で聞き分けの良い娘なのかもしれない、と思う。


「でも残念だなあ。お料理はあたしの唯一の取柄なのに。これまでも誰かと仲良くなりたい時は、クッキーやケーキを作って友達になっていたんだ。今回もそれでうまく行くと思ったのに……日乃出君、思ったよりも手強かったなあ」


 料理以外は全く駄目だという認識だけはあるようだ。底なしの楽天家というわけではないらしい。日乃出は苦笑しながら答える。


「料理以外にも役に立っているよ。庭の草取りを手伝ってくれて本当に助かっている。これからもよろしく頼むよ」

「草取りかあ。あれ、あんまり好きじゃないんですよねえ~……そうだ、ねえ日乃出君。あたしに最後のチャンスをくれない」

「チャンス? どういう意味だ」

「パーティーをやりましょうよ。そこであたしは腕によりをかけてお料理を作って、日乃出君に食べてもらうの」

「いや、だから君の料理を食べたところで、サインをするほどの親密度は……」

「3つ目のお願い、まだ言ってなかったよね。これにする」


 こんなところで取って置きの3つ目を持ち出してくるとは、入日の決意は相当固いと判断せざるを得ないだろう。こうなっては断ることもできない。


「いいのかい、せっかくの願いをこんなことに使って」

「こんなことじゃないよ、大切なことだよ。はい決まったね。じゃあ、月曜は実習があって行けないから、火曜日の夕方、入日ちゃん主催のパーティーを開催します」

「ちょっと待て。どうして夕方なんだ」

「パーティーは夕方に決まっているじゃないですか。期待して待っていてください。絶対にサインしたくなるような料理を準備してきますから」


 入日はノリノリである。同時に日乃出も安堵していた。これで入日の料理からも3つ目の願いからも解放されるのだ。どんなパーティーになるかわからないが、所詮は入日の浅知恵、夕方に開いたところでこれまでと大差ない結果に終わるだろう。


「わかった。火曜日の夕方を楽しみに待っているよ」


 日乃出は快く了承した。


 昼食を終えた後、二人はのんびりと過ごした。アトラクションは午前中にほとんど楽しんでしまったので、午後からは昼寝をしたり、ポチ先輩を貸してくれた老婦人へのお土産を買ったり、思い出作りと称してあちこちで写真を撮ったり、入日はまるで遠足に来た小学生のようにはしゃいでいる。


「うふふ、楽しいねえ、日乃出君」


 これではデートと言うより父と娘の親子連れだな、と日乃出は思った。


 楽しい時はあっという間に過ぎる。ベンチでお茶を飲みながら休憩していると後ろから声がかかった。


「お嬢さん、そろそろ時間です」


 振り向けばお守り係の黒服二人組である。時刻は午後3時、なるほど約束の時間である。


「あれ、もうそんな時間かあ。じゃあ、先に行っていて」


 立ち上がった入日は速足で歩いていく。その方向にあるのはトイレだ。日乃出も立ち上がると出口へ向かおうとした。が、


「明四津さん、ちょっといいですか」


 男のひとりが声をかけてきた。


「何ですか」

「調子に乗るのもいい加減にしてくれませんかね。立ち退き同意書へのサインを餌にして、食事を作らせ、庭掃除をやらせ、挙句の果てに遊園地でデートですか。どこまでお嬢さんを馬鹿にすれば気が済むんです。今度は一晩一緒に過ごせとでも言い出すんじゃないでしょうね」

「いや、それは誤解ですよ」


 黒服の男は完全に思い違いをしている。むしろ日乃出の方が無理やり付き合わされているのだから。ここはきちんと話をしておいた方がいいと日乃出は判断した。


「料理も掃除も遊園地も入日君が自ら申し出たこと。私が言い出したのではありませんし、もちろん無理強いもさせてはいません。入日君に直接訊いてみてはいかがですか」

「どこの世界に好き好んでそんなことをする奴がいるんですかい。直接訊いたところでプライドの高いお嬢さんが真実を話してくれるはずがないでしょう。トボけるのもいい加減にしてくれませんかね」

「本当です。トボけてなどいません」

「だからトボけるのはやめろって言っているんですよ!」


 まるで聞く耳を持たない。日乃出はこれ以上の弁解をやめた。信じる気がない相手に何を話しても無駄だからだ。


「まったく会長もどうかしている。こちらに任せておけばすぐに済む話なのに、何だってお嬢さんを……」

「おい、会長のやり方に口を差し挟むのはやめろ」


 それまで黙っていた男が前に出た。こちらの方が格上のようだ。


「とにかく明四津さん、今後お嬢さんに対して目に余るような行為を働けば、こちらとしても黙っているわけにはいきません。その覚悟だけはしておいてください」

「お待たせ―、先に行っててくれればよかったのにー」


 入日が帰って来た。二人の男は何もなかったかのように出口へ歩いていく。日之出もまた入日と共に二人の後に続いた。今日一日の楽しさを奪われて一気に重くなった心を抱えたまま……

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