業務上過失傷害及びその補償

 金曜日の昼、日乃出は苦しみのどん底にいた。入日と初めて会ってから今日で4日目。一昨日のチキンソテーに続いて、昨日も入日は昼前に来て食事を作ってくれた。鰆のムニエルレモンソース掛け。晩春から初夏に向かうこの季節に相応しい爽やかな一品であった。


「……やはり来ないか」


 納豆入り玄米飯を食べ終わった日乃出はポツリとつぶやいた。正午はとっくに回っている。しかし入日は姿を現さない。日乃出にとっては喜ぶべきことであるにもかかわらず気分は暗く沈んでいる。


「4回だ。たった4回豪勢な飯を食っただけで、これほどの飢餓感に苦しめられるのか」


 日乃出が待っているのは入日ではなく、むしろ彼女が作る料理だった。8年ぶりに口にした人並みの食事。それが日乃出の食欲に火をつけた。いつもの納豆、漬物、味噌汁だけでは満足を得られないのだ。


 電話をしてみようか、一瞬そう考えた。だが入日の訪問を切望していると役場の人間に勘違いされるような気がして思い留まった。


「薬物にハマるとそこから抜け出すのは並大抵の努力じゃ無理だって聞くけど、その苦しみが理解できた気がするな」


 収まらぬ飢餓感と食い物への渇望。だが日乃出は耐えた。8年間の粗食修行は伊達ではないのだ。庭に出て丸い小石を拾って来ると、きれいに洗って口に含んだ。何かを舐めていると食欲が静まる。氷でもいいがすぐ溶けてしまうし、水分を余計に摂取してしまう。空腹を忘れるには小石を舐めるのが一番である。


「やはり断った方がいいな」


 小石を舐めながら日乃出は考えた。入日の料理はあくまでも仕事の一環、永遠に続くものではない。丑光のようにこの担当から外されれば、もうここには来ない。遅かれ早かれ元の食生活に戻らざるを得ないのである。


「だったら体が飽食に慣れ切ってしまう前にやめるべきだ」


 たった4食でこの有様なのだ。仮にひと月この食生活が続いたら、元の粗食に戻れるかどうか、さすがの日乃出も自信がなかった。次に入日が来るのは土日の休みを挟んで3日後の月曜日。その頃には粗食に耐えられる体に戻っているはず。きっぱりと断るのだ、日乃出はそう心に決めた。


 しかし、その時は思いの外早くやってきた。翌日の土曜日の昼前、当たり前のように入日が姿を現したのだ。今日はスーツでも作業服でもなく私服を着ている。


「えっ、どうして。今日は土曜日、役場は休みのはずじゃ……」


 驚く日乃出に入日が答える。


「ふっふーん、あたしは仕事熱心な職員なのです。役場が休みの日に訪問すれば、『せっかくの休日を返上してボクのために来てくれたんだね』って日乃出君は感激するでしょ。そうすれば平日の訪問時に比べて好感度は数倍アップ、親密度は急上昇。あたしが頼まなくても『サインします』って言い出してくれるはず。ね、そうでしょ」


 相変わらずの自分勝手でご都合主義的思考である。それなら平日来なかったり休日来たりするような気紛れはやめて、カレンダー通りに訪問してくれた方がよっぽど好感度が増すというものだ。


「昨日、どうして来なかったんだい」


 普通の口調で尋ねる日乃出。自宅警備員らしい言葉遣いは一昨日からやめてしまっている。入日と話しているとどうしても普通の口調になってしまうので、丁寧に喋っても仕方ないと判断したのだ。

 日乃出の言葉を聞いて入日がにんまりと笑う。


「あれー、日乃出君。もしかしてあたしに一日会えなくて寂しかったのかなあ」

「ち、違う。ちょ、ちょっと気になっただけだ」


 さすがに「料理が食べられなくてひもじかった」などとは言えない。適当にごまかす日乃出である。


「ふーん、まあいいです。昨日は役場の新人実習があったんです。みんなで町立の施設へ行って、お話を聞いたり職員の仕事の補佐をしたりしてきました。楽しかったですよ。来週の月曜日もあるので次にここへ来るのは火曜日ですね」


 納得の日乃出である。さすがに気紛れで来なかったわけではないようだ。


「ねえ、それよりも早く中へ入れてよ。今日の荷物は結構重いんだから」

「ああ、実はそのことで話が……」


 と日乃出が言いかけているにもかかわらず、我が家のように玄関の戸を開け中へ入り込む入日。日乃出も後を追って中へ入ると、居間から台所へ向かおうとする入日の前に立って言う。


「入日君、悪いけど料理を作るのはやめてくれないか」

「へっ?」


 きょとんとしている入日に日乃出は言葉を続ける。


「つまり、その、君の料理をこれ以上食べたくないんだよ」

「どうして? だって水曜日も木曜日もあんなに美味しそうに食べていたじゃないですか。あ、もしかして味が口に合わなかったんですか。それとも嫌いな食材だったんですか。それならどんな物をどんな味でどんな風に調理して欲しいか教えてください。その通りに作ってあげますよ」


 明るい顔で問い返してくる入日を前にして、日乃出は返答に窮した。「ご馳走を食べると粗食に満足できなくなるから」と正直に話せばいいのだが、粗食には慣れているはずの自宅警備員としてのプライドがそれを許さない。日乃出は苦し紛れの作り話をでっち上げた。


「いや、料理に不満があるわけじゃないんだ。君と一緒に食事をするのが嫌なんだ。この屋敷を奪おうと企む暮六尽逢魔時、オレはあの男を憎んでいる。その孫である君が作った料理というだけで、無条件にまずく感じてしまうんだ。一緒に食べているだけで、味気なく思えてしまうんだ」


 さすがにこの言葉はショックだったのだろう。入日の顔から血の気が引き、頬が若干引きつっている。


「う、嘘よ。あたしの料理が美味しくなかったなんて、嘘に決まってる」

「嘘じゃない。本当だ」

「じゃあ、あたしのお料理を食べて『ウマイ!』とか『おいしい!』とか『これならどこにでも嫁に行けるね!』とか言ってくれたのも、全部嘘だったんですか」


『おいおい、ウマイとおいしいは言ったけど、嫁に行けるなんて言った覚えはないぞ。何を勝手なことを言っているんだ、この小娘は』と日乃出は思ったが、ここで話をややこしくしても仕方がないので、そこは目をつぶって話を進める。


「すまない。君をがっかりさせたくなくて心にも無いことを言ってしまったんだ。悪いが今日は何も作らずこのまま帰ってくれないか」

「イヤ、絶対にイヤです。最初に言ったはずですよ、料理を作らせてくれないんなら食材を捨てるって。捨ててもいいんですか」


 忘れていた。迷う日乃出。しかしここで譲歩しては、毎日食材を持って来て同じ脅しをかけるに決まっている。後顧の憂いを断つのは今しかない。心を鬼にして日乃出は言い放つ。


「やむを得まい。捨ててくれ。そして帰ってくれ」

「本当に食べないんですか」

「食べない」

「勿体ないなあ。今日はすき焼きの予定だったのに。奮発して100グラム2000円の黒毛和牛を600グラム買ってきたんだよ。捨てちゃうのかあ~」


『な、なんだって!』

 心の中で悲鳴を上げる日乃出。なぜそれを早く言わないんだ。言ってくれれば今日のすき焼きを食べてから料理の中止を宣言したのに、などと悔やんでも後の祭りである。


「ねえ、ゴミ箱はどこ?」

「こ、こっちだ」


 声を震わせながら台所へ入り、勝手口から外へ出る。焼けたコンポスト容器は片付けられ、今はゴミ箱代わりのバケツが置かれている。


「じゃあ、捨てるね」


 入日がバケツに近付く。日乃出は体の震えが止まらなかった。明四津家2か月分の食費に相当する食べ物が捨てられようとしている。しかも牛肉だ。最後に食べたのは、確か卒業して帰省する時に立ち寄ったチェーン店の牛丼特盛Aセット。この8年間一度も口にしていない牛肉が、今、自分の目の前で捨てられようとしている……日乃出は悪夢を見ているような気がした。


「よいしょっ、と」


 入日がラップを破った。傾けたトレーから牛肉が落ちていく。ゴミ箱の中へ、100グラム2000円の牛肉が……


「う、うわああー!」


 日乃出は悲鳴を上げた。これは地獄の責め苦よりも辛い仕打ちだ。我を忘れて日乃出は叫ぶ。


「やめてくれ、お願いだ。牛肉を捨てるのはやめてくれ!」




 10分後、仁王立ちになった入日の足元で日乃出は正座させられていた。


「ふーん、そんな見栄のためにあたしに嘘をついたんですか。最低ですね、日乃出君」

「すまない。どうしても牛肉への未練が断ち切れなかった。オレは未熟者だ。許してくれ」


 入日の料理が食べられず昨日一日苦しんだことも、本当の理由を言い出せず作り話をしたことも、全て洗いざらい白状してしまった日乃出。年下の入日の足元にひれ伏すという、丑光には死んでも見せられない恥ずかしい姿をさらけ出していた。


「あたしが作っただけで料理が不味くなるとか、一緒に食べると味気ないとか、君は単なるパシリの金づる、食材だけ置いてさっさと帰れ、料理は自分で作るからとか言われて、あたしはすっごく傷つきました。どう責任を取ってくれるんですか」


『おいこら、パシリとか金づるとか、そんなこと言ってないだろ。何を勝手に話を盛っているんだ、この被害妄想娘が』と日乃出は思ったのだが、そんなことを口にすれば入日の機嫌が一層悪くなるのは明白だったので、聞かなかったことにして素直に謝る。


「申し訳ないと思っている。心から謝罪する。許してくれ」

「そんな言葉だけの謝罪じゃ納得できません。目に見える形で償ってください」

「目に見える形? どうすればいいんだ」

「そうですねえ……じゃあ、あたしのお願いをひとつ聞いてください。それで許してあげます」

「願い……」


 危険である。女の「ねえ、お願い!」という言葉ほど危ういものはない。日乃出は考えた。8年間の自宅警備員の経験を総動員して熟考した。


『読めた!』


 単純だった。日乃出は恭しく答える。


「わかった。君の願いを聞こう。しかしひとつ条件がある。立ち退き同意書にサインしてくれという願いだけは聞けない。それ以外にしてくれ」

「ちっ!」


 入日の舌打ちが聞こえる。やはり狙いはそれだったようだ。役場の職員としての資質は皆無だが、職務に対する忠実さは人並み以上だ。ひとまず危機を乗り切って胸を撫で下ろす日乃出である。


「じゃあ、そのお願いをしない代わりに、願いを3つにして」

「3つ? どうしていきなり2つも増えるんだ」

「お願いと言ったら3つが常識でしょ。魔法のランプとかもそうだし」


 再び考える日乃出。何か目的があって2つ増やしたのか、それとも単なる思い付きか……しばらく考えてもわからなかった。


『どうする、要求を呑むか、それとも別条件を出すか』


 願い3つは多すぎるが、もしここで再びごねれば「そんなに言うなら今までのは全部なし。早くサインして」などと言い出す恐れもある。いずれにしても立ち退き同意書へのサインという最悪の願いは回避できたのだ。これで満足すべきではないか。日乃出は要求を呑むことにした。


「承知した。願いを3つ聞こう。それで何をお望みかな」

「このお屋敷の中を見学させてください!」


 屋敷の見学とは欲のない願いである。明治時代の建物ならいざ知らず、戦後に建てられた築70年のボロ屋など、見る価値があるとは思えない。何か目的があるのだろうか。日乃出は少し考えてから条件を出す。


「いいだろう。だが一人では見学させられない。必ずオレが付き添う。それでいいかな」

「うん、それでいいよ」

「了解。それで残り2つは?」

「う~ん……それは後にします。それよりもお昼にしようよ。あたしお腹空いちゃった」


 時計を見ればとっくに正午を回っている。この提案には日乃出もすぐに賛同できた。

 それから二人はすき焼きの準備に取り掛かった。運のいいことにゴミ箱へ落ちた牛肉は100グラムほどで、ほとんどの肉はトレーに残ったままだった。


「日乃出君の反応を見ながら、じわじわとお肉を落としていくつもりだったんだあ」


 などと憎まれ口を叩く入日が神様に見える日乃出である。


 料理の支度はすぐに整った。卓上電気コンロに乗せた鍋ではネギと豆腐が出し汁の中でほどよく温まっている。そこに薄切りの牛肉をくぐらせ、小皿のタレに絡めて口に運ぶ日乃出。あまりの美味さに気が遠くなりそうだ。8年ぶりというだけでなく、こんな高価な牛肉を食べること自体が初めてだった。明四津家は貧乏ではなかったが、さすがに黒毛和牛を食卓に乗せられるほどの金持ちでもなかったのである。


「ふふふ、美味しいでしょ」


 入日は牛肉をほとんど食べない。きっと食べ慣れているんだろうなと、少し羨ましくなる日乃出である。


「ねえねえ、今日のすき焼きで日乃出君とあたしの親密度、すっごく上がったよね」


 キラキラと目を輝かせながら入日が話し掛けてくる。食べ終わった日乃出は素直に返答する。


「ああ、そうだな。これだけの物を食べさせてもらって感謝の言葉もない」

「じゃあ、これにサインを……」

「悪いがそこまでするほど親密度は上がっていない」


 入日が差し出す書類を突っ返す日乃出。本当に自分の職務にだけは忠実な娘である。


「う~ん、まだ駄目かあ。じゃあ、お屋敷、案内して」


 日之出が食後のお茶を飲み干した途端に入日が立ち上がった。よほどこの屋敷の中を見て回りたいのだろう。日乃出も膨れた腹を抱えて立ち上がると、居間を出て歩き出す。


「廊下のこっちがトイレ。一応洗浄機付き洋式便座になっている。それからここは洗面所と風呂。で、少し行って親父の書斎。本が多いだろう。隣は両親の寝室。それから少し行ってオレの部屋」

「へえ~、ここが日乃出君の部屋……こたつしかないんだ。殺風景にもほどがあるよね」


『殺風景とは失礼な。質素と言ってくれ』と心の中で文句を言いながら日乃出は案内を続ける。


「で、客間、納戸と続いて、最後は二間続きの座敷。間の襖を取り払うと20畳の大広間になる。奥座敷には床の間と仏壇。南に縁側もある」

「ここが大広間かあー」


 入日は和室の中を見回している。明四津家の屋敷で一番格の高い部屋だ。二間を仕切る鴨居の上には透かし彫りの欄間も嵌め込まれている。


「思った通りの素敵なお部屋。見られてすっごく嬉しいよ」


 入日は満足そうだ。喜びが顔だけでなく体全体に溢れている。どうしてこれほどまでに屋敷を見たかったのだろう、日乃出がその理由を訊こうとすると、先に入日が日乃出に問い掛けてきた。


「ねえ、日乃出君って一日のほとんどをこのお屋敷で過ごしているの」

「ああ、そうなるね。外出するのは週に一度の買い物くらいだ」

「立派なお屋敷だけど、籠もりっきりはよくないよ。たまには遠出も必要だと思うな」


『余計なお世話だ。遠出なんかしたら腹が減って、いつもの粗食じゃ我慢できなくなるじゃないか』というようなセリフは自宅警備員の品位にかかわるので、口にはしない日乃出である。


「そうだ、2つ目の願いを思い付いたよ。日乃出君、明日の日曜日、何か予定ある?」

「ある。朝の体操、掃除、草取り、休憩、夕方の体操、夜の座禅。予定で一杯だ」

「そう。そんな予定だったら実行しなくても全然問題ないよね」


『おいおい、どこまで自分勝手なんだ、このお嬢さんは』と日乃出が心の中で愚痴る間もなく入日が2つ目の願いを言った。


「明日、あたしと一緒に遊園地へ遊びに行く、これが2つ目のお願いよ」

「ゆ、遊園地!」


 突拍子もない願いを聞かされ、魂消たまげた顔で入日を見詰める日乃出であった。

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