財務状況 経費圧縮への努力


 朝食の後片付けを済ませた日乃出は6畳の自室へ戻った。次の業務は昼まで作務を行うこと。つまり主婦業で言うところの家事である。が、その前に小休憩を取ることにしていた。


 日乃出は携帯電話やスマホを持っていない。生まれてこの方、一度も所有したことがない。それは母や祖母も同じだった。必要ないと判断していたからだ。中小企業に勤めていた父ですら携帯を持っていなかった。


「あんなもの、単なる監視道具じゃないか」


 生前の父はよくそう言っていた。会社から支給されたとしても持ち歩いたりせず、会社のデスクに放置しておくとまで宣言していた。そんな両親の元で育った日乃出であるから、大学に入っても携帯にはまったく関心がなかったし欲しいとも思わなかった。


 ただパソコンだけは違った。情報を簡単かつ迅速かつ大量に入手できるネットの有意義性は、日乃出の父もよくわかっていたのだ。それゆえ日乃出が高校生の時にパソコンを購入し、更にケーブルテレビ会社と契約して明四津家にネット環境を導入、整備した。


 今でこそ、ネットの利便性はスマホの方が優れているが、日本で最初にiPhoneが発売されたのは日乃出が大学3年の時。アンドロイド端末が発売されたのはその翌年である。昔はネット端末と言えばやはりパソコンだったのだ。


 自宅警備員となった日乃出は、父によって整備されたネット環境をどうするかで悩んだ。貯蓄を取り崩して生活するためには月々の経費を極限まで絞り込む必要がある。ネットの有益性はケーブルテレビ会社に支払う代金に見合う価値があるのだろうか。


 悩んだ末、日乃出は残しておくことに決めた。2年後の地デジ化に伴って、居間に鎮座しているブラウン管テレビは廃棄することにしている、新聞も葬式の日に契約を解除した。残る情報源はラジオとネットと時々回って来る自治会の回覧板だけである。現代は情報化社会。必要な情報を素早く知ることは極めて重要だ。それは自宅警備員にとっても例外ではないはず。何よりスーパーの特売品がわからなくなるのはかなりの痛手だ。


「うむ。やはりここは父の意志を継いで、ケーブルテレビ会社との契約は打ち切らないでおくことにしよう」


 こうして明四津家のネット環境は生き残ることとなった。今現在、父のパソコンはない。日乃出が自宅警備員になった時には既に7年以上も使っていたので調子が悪く、またその年にWin7がリリースされたので思い切って買い替えたのだ。

 その買い替えたパソコンも今年で8年目。最近、調子が悪い。そろそろハードディスクが逝ってしまうのではないかと冷や冷やしながら使っている。


「さて、今日はどうなっているかな」


 ラジオのニュースを聞きながら、ディスプレイに表示された本日の主要な出来事に目を通す。特に為替の動きは毎日チェックを怠らない。


「80円前後か。このままオレが死ぬまで変わらなければいいんだが」


 日乃出は毎日豪ドルの対円レートをチェックする。資産のほとんどを豪ドルで持っているからだ。

 



 両親と祖母の命を奪った交通事故について、日乃出は後日警察で簡単な説明を受けた。それは秋の紅葉狩りへ向かう途中に起きた。2車線の山道を走行中、ガードレールを突き破り崖下に転落したのだ。前後を走っていたドライバーの証言と、山道に横たわっていたタヌキの死骸から、突然飛び出してきたタヌキを避けようとしてハンドル操作を誤り、転落したのだろうということだった。


「どうしてタヌキなんか……」


 タヌキ1匹を助けようとして死んでしまうなんて、あまりにも悲しく口惜しい事故だった。しかもそのタヌキも死んでしまったのだから、完全なる無駄死にである。更に相手は野生動物、誰かに飼われているわけではないので、事故の責任を問うこともできない。日乃出はやるせない思いに唇を噛み締めることしかできなかった。

 ちなみに高速道路上だけでも年間3万匹を超える動物が命を落とし、その4割はタヌキである。それを考えればさして珍しい事故でもなかったのだ。


 遺族となった日乃出にとって最大の関心事は、自分がどれだけの遺産を相続できるかだ。祖父は既に他界。祖母の実子は母だけ。母と父の実子は日乃出だけなので、3人の遺産は全て日乃出が相続することになる。


 祖母、それに両親の預貯金は、合計しても大した額にはならなかった。父は数年前に会社を早期退職していたからである。


「そろそろどうだと肩を叩かれたんでな、思い切って辞めて来たよ」


 早い話がリストラである。日乃出が高校生の時に行ったリフォームはその時の早期退職金で行ったのだ。


「手元には年金が貰えるまでの生活費と日乃出の教育費を残しておけばいいだろう」


 それからは貯蓄を取り崩す生活である。基本的に金には無頓着な父だった。


 こうなると頼りになるのは交通事故の死亡保険金である。運の良いことに父が加入していた損害保険会社の担当者が非常に面倒見の良い人で、相続の相談にも乗ってくれた。今回は自損事故なので運転していた父に自賠責保険は適用されない。任意保険に付帯している自損事故保険のみである。母と祖母には自賠責保険が適用されるが、母は専業主婦、祖母は高齢だったため逸失利益が少なく、算定された死亡保険金は少額だった。


 これに土地と屋敷の評価額を加えて遺産総額を決定。そこから相続税を算出して引き、更に不動産の名義変更等の経費、その他雑費を引いたものが日乃出の手にした遺産であった。


「これが婆ちゃんたち3人の残りの人生と引き換えにした金額なのか」


 10月はあっという間に過ぎ、ようやく落ち着きを取り戻した11月。預金通帳を見た日乃出はそうつぶやいた。まだ二十歳そこそこの大学生が持つには多過ぎる金額。しかし3人の命の代償としてはあまりにも少な過ぎる金額。せめてこの金を有意義に使ってあげたい。刹那的な享楽や浅薄な動機で使うのではなく、自分自身の、そして明四津家の役に立つ使い方がしたい、そう思っていた日乃出の元に銀行から封書が届いた。


『お客様の資産運用についてご提案があります。よろしければご来店ください』


 日乃出はそれまで銀行の通帳を持っていなかった。お年玉やお小遣いを貯めるために、子供の頃に作ってもらった郵便局の通帳をずっと愛用していたのである。しかし郵便局には預入限度額があった。大学に入ってゆうちょ銀行になっても、それだけは変わらず続いている。遺産として残された現金部分はその限度額を超えていたのである。


 仕方なく日乃出は銀行の口座を開設した。選んだのは父が口座を持っていた銀行である。日乃出が学生生活を送っている町と実家のある町のどちらにも支店があるので都合が良かった。そしてその口座に全遺産を預入したのだ。封書が届いたのは口座を開設した支店からだった。


「せっかく手紙が来たんだし、行ってみるか」


 軽い気持ちで日乃出は出かけた。その窓口で勧められたのが豪ドル預金である。


「今年の9月に起きたリーマンショック、ご存知ですよね。あの影響で世界の株式市場も為替市場も大変なことになっているのです。これを見てください。豪ドルは今年の8月頃から一気に暴落を開始。先月には対円で56円台をつけています。あり得ないレートです。過小評価され過ぎです」

「はあ、そうなんですか」


 熱心に説明する銀行の女性行員に対して気のない返事をする日乃出。話の内容がよくわからないのだ。株だのドルだのにはまるで興味が無い。新聞やテレビのニュースなどでも、どうしてこんな一部の人にしか役立たない情報に、これだけの紙面を割いたり、これだけの時間をかけて報道したりするんだろうと、目にするたびに苦々しく思っていたほどだ。大学の専攻も文系ではなく理系、生物学科である。経済の知識は受験に役立つ程度にしか持っていなかった。


「これだけの安値なのです。買わない手はないでしょう。いかがですか。初めての外貨預金、それを豪ドルで始めてみては。大丈夫、豪ドルが対円で60円以下になることなど、今後2度と起きないと考えて、まず間違いないでしょう。元本割れの心配はほとんど無用と思われます」


 今ならわかる。日乃出もあれからそれなりに勉強したのだ。このような勧誘方法は明らかに金融商品取引法違反である。元本割れの危険性は決してゼロではないからだ。


 しかし当時の日乃出にはそんな知識はなかった。しかもこの行員は「まず間違いないでしょう」とか「思われます」などと巧みに断定を避ける口調で話している。何となく安心感を抱き始めた日乃出に止めを刺したのは金利だ。


「豪ドル預金の金利を見てください。1か月定期で3%以上。対して円定期の金利は0.2%ほどです。せっかくの大切な資産、大きく増やしてあげたいですよね」

「こ、こんなに差があるのか。15倍も違うなんて……」


 預金金利のことなど、これまで考えたことはなかった。郵便局の通帳を作ってもらった頃には円預金の金利は既に0.1%程度、存在しないと言ってもよいほどの価値しかなかったのである。金利など名目に過ぎない世の中でずっと暮らしてきたのだから、無頓着になるのは当たり前だった。


「やります。初めての外貨預金、始めますっ!」


 日乃出は呆気なく銀行員の術中に落ちてしまった。にんまり顔の行員から預金規定を手渡される。


「詳しいことはここに書いてありますから、読んでおいくださいね」


 これも明らかに順序が逆である。しかも外貨預金のリスク説明を完全に省いている。金融機関が破たんした場合、預金は1千万円まで保護されるが、外貨預金は対象外である。破たん状況によっては全額戻ってこない危険性もあるのだ。当然、日乃出はそんなことは知らない。3%の高金利に目がくらみ、預金額の9割を豪ドルに換えてしまった。


「ありがとうございました」


 笑顔の行員に見送られ、お礼を言いたいのはこちらだとばかりに笑顔で銀行を後にする日乃出。このように行員任せの資産運用をしてしまった場合、後で顧客は泣きを見るというのがお約束のパターンなのである。が、


「おー、ホントに上がってる」


 今回ばかりは違っていた。銀行員の読み通りだった。その年の暮れから翌年の初めにかけて60円前後でウロウロしていた豪ドルは、2月頃から上昇に転じ、4月には70円を付け、以後、現在に至るまで一度も70円を割っていない。取り敢えず今のところはあの銀行員の言葉は間違っていないのだ。


 日乃出が公務員採用を断り自宅警備員になろうと決心したのも、この豪ドルの動きが大きく影響している。無収入となると貯蓄を取り崩して生活していかなくてはいけない。しかし金利が3%付けば、その額はかなり抑制できる。質素な生活に甘んじれば不可能ではないはずだ、そう考えたのだ。

 だが、世の中全てが思い通りに進むと思ったら大間違いである。


「あー、また下がってる」


 禅寺の修行を終え、新しいパソコンを買い、自宅警備員としての1年目は順調だった。2年目も難なく過ぎていった。

 しかし3年目を過ぎた辺りから暗雲が漂い始めた。豪ドル預金の金利が下がり始めたのだ。まるで真綿で首を絞めるようにじわじわと下がっていき、現在では1年定期でも1%程度になっている。


「これからは利子を考えちゃダメかもな」


 貯蓄からの取り崩しは年々多くなっていた。寿命が尽きるのが先か、預金が尽きるのが先か、今ではそんな状況になっている。もし年金支給開始年齢が70才に延長されたら、年金を貰えるまで預金が持つかどうか怪しいところだ。


「節約できるところは節約しないとな」


 日乃出はマウスをクリックして表計算ソフトを開いた。明四津家の経費が年毎に記入されている。1年間の支出は概算で次の通りだ。


 国民年金保険料……約19万円

 国民健康保険料……約5万円

 固定資産税……約15万円

 水道光熱費……約8万円

 ケーブルテレビ代金……約5万円

 食費……約8万円

 その他……約2万円

 計……約62万円


 これが明四津家の1年間の経費である。

 これとは別に火災保険と地震保険にも加入している。火災保険は長期で加入しているので満期となる7年後にどうするかを決める。地震保険は5年自動更新。築70年の家屋は耐震基準を満たしていないので、結構な額の保険料となっている。


 国民年金は付加保険料付きの2年払い。健康保険は均等割と平等割が7割減免されている。固定電話はケーブルテレビのオプションとして契約している。その他の内訳としては自治会費や衣服代、洗剤、ゴミ袋などの日用品である。


 所得税、住民税はゼロだ。毎年豪ドルを売って円に換えているので為替差益が発生しているが、5千豪ドルを売ったところで今のレートなら利益は10万円ほど。基礎控除額以下なので所得額はゼロとなる。

 ちなみにエンゲル係数は約35%。生活水準はかなり低いと言える。


 自宅警備員を始めて8年。予想外の出費もあり、相続した資産は思った以上に減っている。男性の平均寿命80才まであと50年足らず。65才から年金を貰えると仮定し、この額の出費を維持できれば、なんとか預金が尽きる前に寿命を全うできそうだ。


 だが、それはあくまで楽観的観測。年金開始年齢が70才になり、屋根が傷んで雨漏りが始まり、床下からシロアリが這い出し、通院を余儀なくされるような病気に罹り、物価が上昇してキャベツの最安値が200円になったりすれば、この楽観的観測はあっという間に消し飛んでしまう。ある程度の蓄えはどうしても必要だ。


 高校の時にリフォームをしてくれた父に、日乃出は改めて感謝した。当時は自分の居室がまったく変わらなかったので、不満を爆発させていたが、あのリフォームのおかげでこの家の寿命は大幅に伸びたと言って良い。


 屋根や外壁の補修、下水管の交換、それに加えて台所はシステムキッチンへ、和式トイレは温水洗浄便座の様式トイレへ、風呂は浴室暖房乾燥機付きユニットバスへと交換したのだ。

 もしあそこで手を入れなかったら、今頃大規模な補修が必要になっていたに違いない。そうなれば自宅警備員の職を辞さねばならない事態にもなっていただろう。


「食費は限界まで削っているし、次に節約するとなると光熱費か。冬のストーブとこたつをやめて重ね着で寒さをしのぎ、夏のエアコンと扇風機をやめて、うちわで我慢する。しかしそうなると寒さと暑さで病気になりそうだな」


 節約した以上の治療費がかかってしまっては本末転倒である。とにかくしばらくはこの収支バランスで生活を続けるしかなさそうだ。


「いざとなれば別の資産運用か」


 今では日乃出もよくわかっている。為替差益を狙うなら外貨預金よりもFXの方が圧倒的に有利だ。しかし、それは自宅警備員としての誇りが許さないのだ。FXは完全に投資だ。それこそ毎日24時間、レートの動きに気を配り、チャートを眺め、売り買いを判断することになるだろう。それでは投資家という職業を始めてしまうことになる。


 自宅警備員を始めるにあたって日乃出が己に課した就業規則のひとつに職務専念義務がある。家を守るという崇高な使命のために、副業は一切行わないと決めたのだ。投資などという職業をしていては、自宅警備の仕事が疎かになる。


 同じ理由で庭での野菜栽培も行っていない。明四津家の敷地は150坪。平屋は60坪なので庭がかなり広い。日当たりの良い場所で野菜を作れば今よりも食生活が豊かになるのは確実だが、日乃出は作ろうとはしない。農業という職業に従事することになり、副業を禁止した就業規則に違反するからだ。


 当然のことながらバイトなどは言語道断である。どれほど生活が苦しかろうと、副業をする時間があろうと、世界一の自宅警備員になるためにはそんなことに心を奪われてはいけないのだ。


「そうだ、その通りだ。初心忘るべからず。8年かかって粗食に慣れたオレなんだ。暑さ寒さにだってすぐに慣れる。ネットが無くても不安はない。服はボロでいい。そう考えればもっと切り詰めることだって可能だ。千円節約できれば、それは、千円稼いだのと同じなんだ。金を稼ぐつもりで節約に励めばいいんだ」


 日乃出はパソコンを終了させ、ラジオのスイッチを切った。いざとなればこの2つを切り捨てることもできる。金への執着、物への執着を捨てること、それが正しい自宅警備員への近道に違いないと日乃出は思うのだった。

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