新人研修 後編 試練の終了検定

 禅宗には禅問答というものがある。公案という問題を出されてそれに答える。ただそれだけのものだが、ほとんどの問題には正解がない、正解がないのに答えを出さねばならないのは苦行以外の何物でもない。よって禅問答は精神を鍛える修行のひとつになっているのである。


 この禅寺では夜の座禅の時間に一人ずつ老大師に呼ばれて禅問答をすることになっていた。雲水たちに対しては毎日ではなく数日おきに行われるが、日乃出は1か月しか滞在しないため毎日呼び出されて老大師と向き合った。日乃出に出された公案は次のようなものである。


 僧が趙州じょうしゅう和尚に問うた。

「犬には仏性があるでしょうか」

 趙州和尚は答えた。

「無」

 これについて答えよ。



 まったく訳がわからない日乃出である。答えよも何も、そのままである。


「つまり犬は死んでも仏にならないという意味ではないのですか」


 これが最初の日乃出の答え。無論、老大師は首を横に振る。


 それからはこの問題が日乃出の頭を悩ますことになった。昼食後の自由時間は写経でもして過ごそうかと考えていた日乃出であったが、頭の中でこの問題がちらついて、まるで集中できない。

 パソコンでもあればググってそれなりの解答を得ることもできようが、そんなものはない。それどころかネット環境さえないのだからどうしようもない。


 困った日乃出は世話役の雲水に公案や禅宗の書物はないかと相談を持ち掛けた。すると「図解・ほとけ様とお坊さん」という漫画とイラスト満載の、一目で小学生低学年向けとわかる本を貸してくれた。

 やや抵抗はあったがそれに目を通す日乃出。仏教に関しての知識はほとんどない。家に仏壇はあるが仏教徒というわけではない。キリスト教徒でもないのにクリスマスツリーを飾るのと同程度の信仰心しかないのである。


「そうか、そういうことか」


 対象が小学生だけあって一読しただけで完全に理解できる。日乃出に出されたのは数ある公案の中でも初級中の初級。ピアノの教則本のバイエルのようなもので、これが解けないようでは禅僧を諦めた方がよいというほど初歩的な公案だった。

 その程度のものすらわからないのかと気落ちする日乃出。更に本を読み進めていくと、衝撃の事実が明かされた。仏性は人だけでなく、命あるもの全てが持っていると仏は教えていたのだ。


「難しい言葉だけど『一切衆生皆仏性有り』って言うんだよ」


 などと解説役のウサギさんが漫画の中で喋っているのである。


 つまりこの趙州和尚は犬にも仏性が有ることを知っていて「無」と答えたのだ。とんでもないひねくれ者である。


「……訳がわからない……」


 ここに至ってようやく日乃出は問題の本質が理解できた。本質は理解できたが解答は遥か彼方に遠ざかってしまった。老大師には毎晩呼ばれてどのように考えたかを話さなければならない。正直に、


「何がなんだかさっぱりわかりません」


 などと答えれば眉間に皺を寄せて厳しい顔付きになる。正解を求めているのではない。考えるという行為を求めているのである。どのようなことでもいいから、毎日何がしかの思考の跡を老大師に提示しなくてはならないのだ。


 作務で体が疲れ公案で心が疲れる。追い詰められた日乃出は他の雲水たちに教えを請いたいと思い始めた。この公案は初歩中の初歩。ここに居る雲水たちは、皆、この公案をクリアしているはずである。

 老大師を納得させる解答を、それが無理ならヒントだけでも教えて欲しい、日乃出は作務の最中、一緒に作業をしている世話役の雲水に何度も尋ねそうになった。


 が、結局それを実行に移すことはなかった。雲水たちは今この瞬間も各自の公案を考え続けている、他の雲水たちと相談することなく己一人だけで考えているのだ。ならば自分もまた一人で考えるべきだ、日乃出はそう思ったのだ。

 そうは思ってもわからないものはわからない。老大師に呼ばれる度に眉間に皺を寄せられ、首を横に振られ、己の無能を自覚させられるのはかなり辛い。そんな毎日が続くうちにだんだんやけになってきた日乃出は、


「この和尚さんは性格が悪かったので、わざと反対のことを言ったのでしょう」とか

「たまたま酒を飲んでいて正常な判断ができなかったのです」とか、

「仏性を無精と聞き間違えたのでしょう。犬は無精とは無縁な働き者ですからね」


 などと、遅刻した小学生の言い訳以下の稚拙な解答を乱発する始末である。


 そんな日乃出を前にして老大師は首を横に振り続けるものの、眉間に皺は寄らなかった。むしろ嬉しそうな顔をしている。解答は稚拙でもよいので、とにかく頭を絞り続けることが一番大切なことのようだ。


 公案を考え始めてからは毎日が矢のような速さで過ぎていった。粗食は相変わらずだったが、考えに耽っていると不思議と空腹を忘れられる。気がつけば修行体験の最終日は数日後に迫っていた。

 それでも日乃出は公案に対して満足な答えを見つけられなかった。老大師からはこの1か月の修行の感想と共に、最終的な公案の解答をレポートにして提出せよと言われている。


「文書として残るとなると、あまり恥ずかしい解答は書けないな」


 日乃出にも一応見栄はあるのだ。


 天は自ら助くる者を助くという偉い人の言葉がある。他人に頼らず自助努力する者には幸福が舞い降りるという有難いお言葉だ。ある日、その言葉を実感するような出来事が起きた。


「泡か」


 それは何の変哲もない池にできた泡だった。しかしそれを見た瞬間、日乃出は閃いた。さっそくレポートにまとめ、最終日に老大師に提出した。その中身はこうである。


「仏性とは何でしょうか。人には仏性が有ると言っても、それは目に見えず手に触れることもできません。そんなモノの存在をどう証明すればよいのでしょうか。仏性などというものは本来無いのです。そう見えているだけなのです。コップにできた泡を考えてみてください。泡とは水の無い部分。言ってみれば空です。その部分に水が無いから泡が存在しているように見えるだけなのであって、そこには本来何も無いのです。仏性とて同じこと。あまねく生き物の世を覆う仏性は空間のようなものです。空間の本質は無。その無の空間に悪や邪や憎などの、仏性とは相反するモノが水のように満ちているのです。それら仏性ならざるものが完全に消失した理想として、人は仏性を希求するのです。あるはずの仏性ならざるものが無くなって初めて、仏性は立ち現れてくるのです。初めから仏性ならざるものが無ければ仏性もまた無いのです。水が無ければ泡が生じないのと同じように」


 これを読んだ老大師は首を縦に振った。日乃出は感動した。老大師が首を横に振らず縦に振ったのを見たのは、これが初めてだったからだ。

 日乃出の出した解答が本当に正しいのかどうか、それはわからない。「ミカンとは何か?」と問われて「丸い物です」と答えるように、恐らくは、公案のある一側面だけを表現したに過ぎないのだろう。それでも紆余曲折の末、自分なりに納得できる結論へたどりついたのだ。老大師はそれを認めてくれたに違いない。


『やった!』


 心の中でガッツポーズをする日乃出。この1か月の苦労が報われる思いがした。そんな日乃出の心中を察したのか、老大師はこう言った。


「もう1か月滞在しては如何ですかな。新しい公案をお出ししましょう」


 さすがにこの申し出には首を縦に振れなかった。自宅常駐を義務付けられている自宅警備員が1か月も自宅を留守にしているのである。これ以上の外泊が許されるはずがない。ただ、最後の最後でそれなりの解答が出せたことだけは嬉しく感じた。




「あの禅寺での日々以上に、充実し役に立つ1か月は二度と味わえないだろうな」


 日乃出は目を開けると立ち上がり障子を開けて縁側に出た。ひさしの下から空を見上げる。8年前、初めて禅寺で迎えた朝に見たのと同じ、紺の中に濃い橙色の光が射し始めている明け方の空だ。


「あの厳しさを経験したからこそ、今の貧乏な暮らしにも耐えられるのだ。粗食も座禅も作務も今の方がよっぽど楽なのだからな。そしてあの公案も」


 正直、禅問答など日常の生活には何の役にも立たないだろうと思っていた。しかしそれは違った。ひとつの言葉をじっくり考えること。老大師の話す言葉を熟考し、その意味を探る、禅問答で養ったその習慣は自宅警備員として大いに役立っているのだ。


 自宅にやって来る様々な訪問者。


「消防署の方から来ました」と言って不要な消火器を売りつけようとする者。

「水道管の点検です」と言って浄水器を買わせようとする者。

「家屋の無料診断を行っています」と言って余計なリフォームをさせようとする者。


 日乃出はそれらの悪徳訪問者を確実に見抜くことができた。他人の言葉をよく聞き、その裏を探る修練を積んでいたからできたのだ。


 日乃出は再び仏壇の前に座った。この築70年の家よりも長く明四津家を見守って来た仏壇だ。金具の一部は破損し、金箔は剥げ、木の扉は歪んできちんと閉じない。それでも日乃出にとっては家と同じく大切にしたい物のひとつだ。


「婆ちゃん、言い付け通り、オレはしっかり家を守っているよ」


 再び目を閉じれば祖母と両親の懐かしい顔が瞼の裏に浮かぶ。そして今朝はその2人に加えて、8年前に別れて以来一度も会っていない禅寺の老大師や雲水たちの顔もまた、ぼんやりと見えてくるのだった。

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