第三話 エモノの違い

「絶対にあり得ねえ」


 レイは巨木の捻れた幹の上に腰掛けて、握り飯をほおばりながら言った。二メートル程離れた地面から、ジルがたくあんをむさぼりながら返す。


「まだ言ってんのかよ。単純に師匠が強すぎるだけだよ」


「いや絶対にあり得ねえ」


 レイは顔の辺りを飛び交っている羽虫を手で払ってから、傍らに置いてある最後の握り飯に手を伸ばした。


 巨木の天辺にとまった鷲が、羽を二、三度くちばしでつついた後、辺りをきょろきょろと見回している。


「攻撃を開始したのは俺の方が断然、早かったし、切り返してから俺の鳩尾までの距離と、振りかぶってからじいさんの背中の距離じゃ、こっちの方が半分以上短い。それに普通に考えれば、払うより振り下ろした方が加速が乗るし、剣速も速いはずなんだ」


「それでも先に入ったってことは、じいさんの剣速がこっちよりも倍以上速かったってことだ。それがあり得ねえ。居合いじゃあるまいし、まして逆さ突きでそんな剣速が出るわけがない」


 考え込むレイに、ジルが弁当箱の隅を箸でつつきながら言った。


「お前の振りがよっぽど遅かったんだろ」


「バカにすんなよ。俺はそれほど、じいさんと実力の差はねえ」


「ははっ、そりゃ自信過剰だ。烏丸九郎とたいして実力差ねえってことは、剣士の世界十強には入ってるってことだぞ」


 ジルは無責任に笑うが、レイは本心だ。


 自分がそんなに強いとは思ったことはないが、大人を含めてこの町で彼に勝てるのは烏丸九郎しかいない。


 習いたての頃は全く手も足も出ず、ひたすら打ちのめされるだけだったのだが、最近では勝機が見えるようになってきた。九郎が手を抜いているというのは大いに考え得ることだが、それを抜きにしても彼は烏丸九郎が到底敵わない存在だとは思わない。


 ジルの、烏丸九郎が世界三強の剣聖だったと言う類の話に全く脚色がなかったとしても、それはもう十年以上も前のことだし、ジルは本に書いてあることから烏丸九郎の強さを想像しているに過ぎない。


 剣士の実力は実際に立ち会ってみないと分からない。


 ジルの屁理屈の相手をしているときりがないので、彼は一人で考えることにした。


(あり得ないことが起こったってことは、それには原因があるはずだ。あの時、俺とじいさんの違っていた所……。身長差、体重差…格好…、いや、そんな小さいことじゃない。何か大きな違いがあったはずなんだ。じゃないとあんな結果にはならない……)


 彼の頭上、空の頂点から少し傾きかけた太陽の下で羽を繕っていた鷹が、二、三度羽を羽ばたかせ、勢いよく飛び立つ。


 そして、その鋭い爪で呑気に飛んでいた小鳥を捕らえ、急旋回した後、遙か上空に消えていった。


(…獲物……)


 次の瞬間、彼は理解した。


「そうか、分かった。得物だ!」


「――ああ? エモノがなんだって」


 レイの大声に食事を済ませて芝の上に寝転がっているジルが首を起こして、面倒臭そうに聞き返す。


「武器だよ武器。あの時、俺の得物は木刀だったけど、じいさんのは竹刀だった」


「竹刀の方が木刀よりだいぶ軽いから、剣の重みの加速は乗らないけど突きのような直線攻撃なら木刀よりも剣速が速い。そうか、あれはハンデだと思っていたけど実はそうじゃなかったのか。騙された!」


「いや、お前が勝手に引っかかっただけだろ」


 ジルは技術論に興味はない。彼にとっては烏丸九郎が絶対無敵の存在であり、小ざかしい技術でレイを負かしたということを認めたくないだけなのかもしれないが。


 彼は再び横になって、今度は四つ葉のクローバーを探している。


 やはりこいつに言っても無駄だったかと後悔しながらも、レイは不安定な幹の上に器用に立ち上がった。遠くには連なる山々が見える。その向こうに何があるのか、彼は知らない。


「よし、次こそじいさんに一撃入れてやる。俺は世界が見たいんだ」


「ん?何だお前、この町を出て行くのか」


 ジルがゆっくり起き上がってレイを見上げた。


「ああ、でもじいさんが許可してくれねえんだ。そんな腕じゃ野盗にでも襲われて、野垂れ死にするのがオチだってね。だから俺は爺さんをものの見事にぶっ倒して、実力を証明してやるんだ。そうすれば、許可せざるを得ないだろ」


「……またその話か。お前も物騒なこと考えるな。ここにいれば、それなりに平穏に暮らせるのによ」


 ジルは側に生えている草を一本ちぎってくわえる。


 しかしその言葉の後にお前が師匠を倒すなんて無理だけどよ、と付け加えるのを忘れなかった。そして、仰向けに寝ころんだ。なんだかんだ言っても彼は平和主義者だ。


「そんなのはつまらない。世界にはじいさんよりももっと凄い奴がいて、もっと凄いものがあって、もっと凄いことが起こっているに違いないんだ」


 ジルの知っている話ではレイの両親は彼が小さい頃に事故で亡くなっていて、親戚である烏丸九郎に引き取られてこの村に来た。彼と両親は別の国で暮らしていたらしいが、レイはそのことをあまり喋らないし、実は覚えていないだけなのかも知れない。


「賞金稼ぎにでもなるつもりかよ」


 ジルは冗談のつもりで言ったのだが、レイは遠くの空を眺めながら真剣に答えた。


賞金稼ぎポットハンターか……悪くないな」


「おいおい、本気になるなって。第一、能天気なお前が賞金稼ぎなんて絶対似合わねえ」


「ジルに能天気なんて言われたくないね」


 どのみちレイは大雑把な計画しか立てていないらしい。結局のところ彼もまた楽天家だ。手を額の上にかざして、遠くを眺めている。


 一陣の風が吹いて巨木の木の葉をさらっていく。雲は空の青に溶けるようにゆっくり流れていく。


「――お、人だ」


 不意にレイが町の南の霧降山きりふりやまの裾から蛇行して伸びてくる街道を指さす。


 彼はずば抜けて視力がいい。ジルにはアリほどの大きさのものが、マッチ棒大の街路樹に見え隠れして、ひどく緩慢に動いている程度にしか分からない。


「……町の方に向かってるな」


「行商人じゃないのか」


 ジルは興味なさそうに答える。こんな田舎町にはその類の人間しかやって来ない。


 つい三日ほど前にも鼻がやたら丸くて赤い、ピエロのようなふざけた顔をした指輪売りの行商人がやって来て二日程滞在していたが、誰も何も買わないし何の掘り出し物もないと悪態をつきながら去っていった。


 そもそもこの田舎町に指輪など欲しがるような者はいない。その行商人は来る場所を間違えたのだ。指輪売りならもっと大きな街に行けばいい。


「いや、そういう風な格好じゃないな」


「お前、ホントに見えてんのかよ」


 こんな距離から服装まで分かるはずがないのだが、彼には見えるらしい。


「タテガミみたいな羽毛が襟についた黒いコート着てるな。結構、背は高いぞ」


 言い終わらない内にレイは幹から飛び降りて、駆け出す。


「お、おい。どこ行くんだよ」


「確かめに行く」


「何で、そんなことしなけりゃならねえんだ。ガキじゃあるまいし……」


 文句を言いつつも、ジルもレイの後を追う。だが、ジルはあっという間に離されてしまう。


「なんで、そんな、全力疾走なんだよ」


 息も切れ切れに背中に向かって叫ぶ。レイは多少いらつきながら叫び返した。


「いや全然、全力じゃないんだけど。て言うかジル、お前足遅いな……」


「…うるさい」

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