第二話 名前のない男

 じめじめした薄暗い闇の中に階段を下る乾いた音が無機質なリズムを響かせている。


 苔むした螺旋の石積みは楽譜のように闇の先から次々と浮かび上がってきて、この階段が終わりなく続いているのではないかという一抹の不安を感じさせる。


 石段の一つ一つは微妙な角度で中央に傾いていて歩く者の平行感覚を狂わせる。訓練を受けていない、並みの人間ならば渦の中心に引きずり込まれるような感覚に囚われ、十数段下っただけで足を踏み外すだろう。


 だが、そんな心配は無用の長物だ。この階段を下る者の中に並の人間はいない。


 彼は一つの灯りもないその空間を、右手をポケットに突っ込んで左手で煙草をふかしながら単調に下っていく。


 流れのない空気は冷たく、そして死んだように重たい。


 煙草の火だけが彷徨さまよえる鬼火のように、虚ろな蠕動ぜんどうを繰り返す。


 数分経って、彼の足は錆びた鉄格子の窓のついた分厚い鉄板の扉の前で止まった。

 その刑務所の独房から取って付けたような扉の上部には数個の文字が刻まれているが、それらはほとんど苔と赤錆に蝕まれて、文字としてその意味を成していない。


(まったく、誰がこんな陰気な地下室を設計したんだ? ……まあ、陽気な地下室ってのも聞いたことねえけど、とにかく何から何まで湿っぽいんだよ、ここは――)


 彼は行き所のない無意味な愚痴と煙草の煙を大きく一つ吐いて、ドアノブのないその扉を押した。


 不快な金属の摩擦音を残して開かれた鉄扉の隙間から漏れた光が、部屋と階段の間の空間を満たす。


 しかし部屋の内部に照明はない。


 だが、壁、床、天井、部屋全体が幽玉鉱オブストンのように青白く、陰気に輝いている。それは月明かりほど乾いていないが、墓場の燐火ほど湿ってはいない。


 その光の中央にある安楽椅子に、大男が指を組んでその両肘を膝に乗せ、首をうなだれて座っている。


 彼はあまり広くないその部屋に足を踏み入れた。


 そして男の名を呼ぼうとして、詰まった。


 この男に名前はない。


 彼の上司に当たるのだから、肩書で呼んでもいいのだが、この単語は似合わないのにも程がある。だから誰も男のことを団長とは呼ばない。


「寝ているのか」


 問いかけに大男は、ゆっくりと顔を上げた。


 それは異形。


 いや、梟のような丸く大きな目と、顔の端まで裂けた嘲りの口が描かれた仮面を被っている。



「……煙草は、遠慮、してもらえませんか……」


 仮面の男は組んだ指を解きながら、ゆっくり穏やかに言った。しかし、彼はそれを無視して問う。


「あんたが直々に指令とは久しぶりだな。相変わらずしけた面ツラしてやがる」


「……煙草は、遠慮、してもらえませんか……」


 男がひどく緩慢に喋るのは疲れているからではない。


 男が椅子に腰掛けているのも疲れているからではない。


 その両足には鉄の足枷がはめられ、そこから伸びた頑丈な鎖が椅子の足に絡まっている。この男の精神こころ肉体からだの全ては、ここに囚われているのだ。


 彼はそこでようやく煙草を口から離して自分の掌に押しつけて火を消し、そして再びくわえた。


「で、また有難くない任務か」


「…厳密にいうと、多少、異なりますが…、似たようなもの、です……」


 男が完全に否定することは決してない。


 彼は面倒くさそうに男を一瞥してから頭を掻いた。


「――で、内容は」


「…そこに、資料が、あります……」


 男は死人のように冷たく白い指で、扉の近くの小さな一本脚の卓をゆっくりと指した。


 その上に書類が一枚、置いてある。彼はそれを手に取って数秒眺めた後、視線を戻した。


「――これだけか?」 


「…ええ…」


 書いてある内容と、資料数のギャップがありすぎる。任務の資料が紙切れ一枚など聞いたことがない。しかし、彼はそれ以上を要求しなかった。代わりに再び目を書類に落として問う。


「で、これを回収して来いと?」


 男は一度与えたもの以上のものを決して与えない。


「…そうです…、我々にとって…、とても…重要な…こと、です…。もしかしたら…それが、『はじまり』…となるかも、しれませんから……」


 男は解いた指を再び組み始めた。


 安楽椅子の脚が軋みながら揺れる。その度に鎖が擦れる音を出す。


 彼は書類を卓の上に戻した。


 今は何も知る必要はない。この任務の真意を理解もするつもりはないし、したところで彼が抗えるほど安い問題でもなさそうだ。運命には流されるのが一番被害を受けずに済む。


 もっとも、全てがそういう風にできてはいないだろうが。


「了解、任せておけ。適当に片付けてやるよ。――まったく、事あるごとに人の休暇を邪魔しやがって……」


 愚痴をぼやきながらいい加減に片手を挙げて部屋を出る。仮面の男はその背中に逆十字を切った。


「では……幸運、を……」



 彼は一度だけ振り向いた。


 仮面の男はすでに首を落とし、膝の上に肘をついたいつもの格好で動かない。


 名前のない男ネームレス


 昔、どのくらい昔かは彼にも分からないが、男の名を知らないものはこの世界に存在しなかっただろう。


 しかし、今は、男の名前を知るものはこの世界に存在しない。



 彼自身でさえも。



 重い鉄扉が今度は音もなくゆっくりと閉まる。


 その扉の表の朽ちた文字は、確かこう書かれていたはずだ。


 『精神の牢獄マインド・プリズン



 空間は、再び闇で満たされる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る