自戒を込めて花束を

和平 心受

第1話 手段と目的

 自戒を込めた独白。


 2017,04,03 カクヨム移住。


 とは言ってもその僅か前に活動は開始していた。最終的なきっかけはツイッターに流れた、けものフレンズのキャンペーンである。


 とは言え創作自体で言えばブランクこそ大きいもののずっと以前から行ってきた。確かkanonくらい。

 まぁ、それくらいから妄想の翼を発散させる方法に、コトバという手法を選んできた程度のものだ。

 実際、芽も出ず評価もされずの最底辺の戯言である。


 さて、何が言いたいかと言うと、創作は楽しい、と言う事だ。


 文章は楽しいと思うのだ。物語を創る事は楽しいと思うのだ。その手段がある事が嬉しい訳だ。


 私は絵が書けない。厳密に言えば下手だ。中学生のラクガキが精一杯であろう。努力も継続もしなかった。当然だ。

 故に消去法だとか、逃げだとか言われても否定は出来ない。

 が、少なくとも私だけは知っている。

 取り憑かれたように文字を打ち、文字が見る見る列をなし物語を形成していく様、ふとした瞬間に湧いて出るリズム。言葉遊びが綺麗にハマった時など自分を褒めてやりたい程だ。

 しかし苦しい事もある。文字が踊らない時、物語が進まない時、展開がハネない時に先行きが見えなくなった時。

 そして、誰にも認められない時。


 近年私が陥ってしまった点こそが最後の一点、承認欲求だ。

 これが悪い事では無いのは理解している。人間誰しもそういった欲求はあるものだし、自分が生み出した物語という自分の分身を認めて貰いたいと思うのも最もだ。

 しかし承認はあくまで結果の一形態である事をしばしば忘れてしまう。それが目に見えるカタチで表示され、はたまた見比べる他者が高い評価を受けている事を知った時、この承認欲求は負の方向への認識を齎す方向へ傾く。そもそもが比較を始める事事態が間違いではあるのだ。何せ当初の目的は「認められたい」「誰かに見て欲しい」だった筈なのだ。これが比較を始める事により「○○より」という上下を定める欲求が付随される。

 そして負の感情の悪い所は、強く粘着質である点であり、この払拭が中々に難しい。

 こうなると創作も一定の方向に歪むと考える。その最も安易な手段が、「認められる方法」に変化する。

 「創作をしたかった」「思いついた物語を作り上げたかった」創作意欲が、「認められる話を作りたい」「チヤホヤされたい」と承認欲求に置き換わる。いや支配されるが正しいのか、あるいは侵食。まぁ比重の問題である。

 これに陥ると創作も物語も方向性が変わる。読者、つまり読む側の人を意識した作りへと重点を置く事となる。流行り物、好かれるキャラ、求められる展開。それら既出のテンプレに似た何かを寄せ集める事になるのだ。


 これを否定するものではない。


 が、私のしたかった事かと言えばこれはNOだ。


 私がしたいのは脳裏に浮かぶ物語を創り上げる事であり、書けと言われた物を書く事ではない。

 私が書きたい話を、私が出したいキャラで、私が思いつく展開で、綴りたいのだ。 

 無論、浅学非才の身である。全てをオリジナルで脳内より作り出せる筈もない。物語は流れるものであり、その世界もまた有るものであるから、一定の理が存在し、万象から生み出すにはそれこそ知識とひらめきが必要だ。故に、必要な部分は他から賄う必要はある。が、それもまた綴られる物語に即して居るか否かが優先されるべき事柄であろう。


 心も弱い私は何度も同じ問題に辿り着く。

 故に何度も問い続けなければならない。


 なぜ文字を綴るのか。

 なにをしたいか。

 なにをつくりたいか。

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