さよなら、私の夏時雨

白乙

さよなら、私の夏時雨


 死者を乗せて走るバスがあるらしい。

 廃線となったとある田舎のバス停で、夜中の十二時ぴったりにその場所にいると、どこからか音もなくバスがやってくるそうだ。

 一見普通のバスなのだが、そのバスには決して乗ってはいけない。

 それは死者があの世へと渡るためのバスであり、生きている人間が乗れば……そのままあの世へと連れていかれてしまうから。


 幅三メートルほどの白く焼けた土の道が、東の果てから西の果てまで続いている。道を挟んだ向かい側には、全長二メートルをゆうに超えるひまわりが隙間なく植えられていた。澄んだ青空の下、彼らは常に天高く登る太陽に向けて背筋を伸ばしている。

 日村亜沙子は炎天下の中、乾いた道に立つバス停の看板に並んで立っていた。つば広の麦わら帽子の隙間からも容赦なく日は差し込んでくる。背中までのびた髪は帽子にしまいきれず、ゆるく編みこんでサイドに流した。ノースリーブのシフォントップスに薄手のストール、紺色の幅広ガウチョという万全の暑さ対策を備えた服装だったが、炎天下に晒される熱射に大してあまり効果はなかったようだ。

「いい天気ねえ……」

 熱に浮かされてた亜沙子の言葉は、空の青さに溶けていく。

亜沙子の左側にはやや錆び付いたバス停の標識が置かれていた。時刻表はすでに取り外され、彼女の頭二つ分上にある案内板の文字は太陽のひざしで霞んで読めなくなっている。

亜沙子は流れる汗をハンカチで押さえながら、その案内板の向こうに立つ人物へ声をかけた。

「お久しぶりね、元気にしてた?」

「……」

そこには亜沙子よりも若い、二十代くらいの女性が立っていた。白いつば広帽子とワンピースを身につけた、清楚な女性だ。背中まで伸びた艶やかな黒髪は真夏の熱気に反して涼やかに風になびいている。ネクタイ状に巻かれたカーキの細長いストールが程よいバランスで組み合わされ、夏によく合うおしゃれな服装だ。

ただし、その身長は亜沙子よりもはるかに高い。

バス停の標識塔、木製のバス停留所、畑に植えられたひまわり。そのすべてから頭一つ分飛び抜けた彼女は、自身の体半分以下しかない亜沙子の方へ目線を動かした。亜沙子はそれが嬉しくて、笑顔で彼女の名前を呼んだ。

「また会えて嬉しいわ、八尺さん。今日はどんなお話をしましょうか」

 通称“八尺様”、有名な都市伝説の怪異であると同時に、亜沙子のバス待ち仲間でもある。


 八尺さんと出会いは、もう十年以上前のことになる。

 東北の片田舎で生まれた亜沙子は、学生時代からこのバスを使っていた。一時間に一本、悪ければ三時間に一本という非常に不便な公共機関だ。三十代も半ばをすぎた亜沙子は今ではもっぱら車を使う人間だが、ふとした時にこのバスを利用する。一人になりたい時、昔に思いをはせる時、考え事をしたい時など、排気ガスを撒き散らすバスに揺られて、気の向くまま小旅行をするのだ。

 そんなある日、いつものようにバスを待つ亜沙子の隣に、いつのまにか大きな影が立っていた。二メートル以上ある身長と白いワンピース、頭にはつば広のハット、首には細めのストールを身につけた姿と、今と全く変わらない姿をしていた。亜沙子はその特徴的な姿から、オカルト好きの知人から聞いた怪異譚の八尺様を思い出した。

 八尺様。その名の通り八尺、つまりおおよそ二メートル四十センチの身長をもつ女性の名前で、都市伝説として語られる畏敬の存在だった。その正体は噂話から生まれた妖怪とも土地神の姿の一つとも言われており、彼女に目をつけられた人間は、大変不幸な目にあってしまうという。

 正直、怖くなかったかと言われれば嘘になるだろう。

 ただ、彼女は亜沙子に危害を加えることはなかった(元々は男や子どもを狙う怪異であるらしい)し、喋りはしないが声をかければこちらを向いてくれる。話し相手というには少々物足りないが、バスを待つお供にはうってつけの相手だった。

 そのため亜沙子は親しみの意味を込めて『八尺さん』と呼び、バスを待つ間に秘密のおしゃべりをしているのだ。


+ + + + + 


「はい、どうぞ」

 亜沙子は手元の水筒から冷たい麦茶をカップへそそぎ、八尺さんに差し出した。バス停脇のベンチに座った彼女は緩慢な動作でそれを受け取り、こくりこくりと音を出しながらほどゆっくりと飲みこんでいく。怪異ゆえ汗ひとつかかない八尺さんだが、亜沙子が何か差し出せばいつも無言で受けとってくれた。

 亜沙子はその隣で、もう一つのカップへそそいだ麦茶を口に含んだ。一口、また一口と飲み込むたび、冷たい感覚が喉を通り過ぎていく。真夏の太陽光線の前には一時しのぎでしかないが、一瞬でも夏の暑さを忘れさせてくれるのは嬉しいものだ。

「おいしい?」

 亜沙子の声掛けに、八尺さんからの返答はない。ただ、黙々と飲み続けているのだから嫌なわけではないだろう。大きな体で指先のカップからちびちびとお茶をすするその様子が、亜沙子には少しほほえましく見えて。

亜沙子は彼女の本当の名前を知らない。そのため彼女のことを八尺さんと呼んでいるわけだが、そもそも八尺さんがどうしてこのバス停に現れるのかもわからない。

覚えている限りでは、彼女はバスに乗るためにこの場所にいるわけではなかった。八尺さんがバスに乗りこむところを一度も見たことがないからだ。

(もしかしたら身長がつっかえてしまうから乗らないのかも、なんて)

 ふふ、と思わず笑みをこぼすと、彼女が亜沙子の顔を覗き込むような仕草をする。顔を見上げるが、表情はわからない。身長差がありすぎるせいなのか怪異である彼女の特徴なのか、八尺さんの顔はいつも靄がかかっているように見えるのだ。

「ごめんなさい、なんでもないの。今日はそうねえ、どんな話をしようかしら」

 笑いをごまかすように、亜沙子は言葉を紡いだ。

 バスを待つ間、しゃべらない八尺さんに話すのは当然亜沙子の話だ。家族がどうとか、仕事がどうとか、この間読んだ本の話とか、そんなささやかな日常の話だ。とはいえ、これだけ暑いとうまく頭が働かない。

「暑い、夏……そうだ、怪談話なんてどう? 夏には定番よね」

 ウンウン、と亜沙子は一人で何度もうなずいた。八尺様は変わらずお茶をすすっている。決して亜沙子の話に興味がないわけではなく、いつもこの調子なのだ。

「じゃあとっておきのお話! せっかくバス停にいるんだし、バスにまつわる怖いお話にしましょう」

 亜沙子は水筒をベンチのわきに片づけ、少しづつ話し始めた。

「ある雨の日、とある男が一人旅の途中で迷子になったの。すっかり夜になったから、男は廃線になったバス停の停留所で一晩泊まることにしたんですって。そうしてその夜、男がふと目を覚ましたら、タイヤのこすれる音が聞こえてきたの。停留所からのぞいてみると、道の向こうから明かりが見えて、バスがやってきた……」

 亜沙子はしゃべりながら、自分の胸の前で両手を強く握る。細い指のすき間から手汗がにじんだ。

「けれど廃線だったバス停に、しかも真夜中にバスが来るはずないの。驚いた男の目の前でバスは止まり、扉がゆっくりと開いた。覗きこんでも、バスの中は薄暗くて誰もいない……けれど時々ささやくような話し声が聞こえたそうよ。しばらくするとバスの扉が閉まって、また走り出したんですって!」

 亜沙子は自分で語りながら、思わず身をすくませた。八尺さんは黙々とお茶を飲んでいる。

「夜が明けて、通りかかった近所の人に話を聞いたら、それは死者の乗るバスだって話してくれたの。その地域で昔から伝わる怪談で、死者をあの世へ連れて行くために各地を転々と回っているんですって。『万が一生きた人間が乗り込めば、そのままあの世まで連れて行かれてしまうのよ』って……ちょっと薄気味悪いわよね」

 亜沙子の問いかけに、八尺さんの返答はない。カップから口を離した彼女の黒髪を真夏の熱風がさらりとゆらす。

(うーん、やっぱりこの話は外れだったかしら。元々がおばけみたいな人だし)

 亜沙子はもんもんと考え込みながら、ため息をつく。バスはまだ来ない。

 元々このバスは田舎特有の運行が不安定な路線で、運行表通りバスが来ることもあれば一時間以上遅れてくることもある。ひどい時には夕方、三時間待っていてもこない日もあった。それもまたこのバスの醍醐味でもある。バスが来なければ運が悪かったと迎えを呼んで帰るだけなのだ。

 それでも今日はまだ帰りたくなかった。もっと彼女と、八尺さんと一緒に居たかった。なぜかいつだって彼女の隣は居心地がいいから。

「……時々ね、どうしてか無性に死んでしまいたくなることがあるの」

 だからこそ、こんなどうしようもない話をしてしまう。八尺さんがしゃべらないのをいいことに、唇からすべり落ちる言葉を止められない。

「仕事がつらいとかそんな理由じゃなくて、たとえばすごく綺麗な夕陽を見て、なぜだかさびしくて泣きそうになって。流れていく時間の中に、私だけ置いて行かれるような気がして……そんな時にふと、ああ死にたいなって思うことがあるの」

 亜沙子は少しだけ八尺さんの方へ寄りかかるように体をかしげた。彼女は何も言わず、ただ受け止めてくれた。ほんのりと香った彼女の匂いは、どこか懐かしい感じがした。

「もしそのバスが目の前にきたら、私は乗ってしまうのかしら」

 熱をまとった風がひまわり畑のすき間をすり抜けていく。その長身を揺らしたひまわりは、しかしすぐにしゃんと体を起こし、群青色の空へ向けてまっすぐに背を伸ばしている。その様子がひどくまぶしく見えて、亜沙子はゆっくりと目を閉じようとした。

 その時、目の前にカップが差し出された。

「?」

「……」

 八尺さんだ。彼女はもう一度、空いたカップを差し出してくる。

「もしかしてお代わりがほしいの?」

 こくりと小さくうなずいた。

「やだ、気がつかなくてごめんなさい! はいこれ……」

亜沙子はあわててカップを受け取り、水筒のお茶を注ぐ。八尺さんへお茶を差し出そうと立ち上がった時、ふと、体が傾いだ。

(あれ?)

 足の力が抜けて、そのまま崩れ落ちるように地面に座り込む。水のはねる音がして、持っていたカップを取り落したことに気づく。カップを拾い上げようと腕を伸ばしても持ち上がらない。ピントのずれた視界がブラックアウトする。

 立ちくらみだ。ふわふわとした意識の中で亜沙子は理解した。ぐわりぐわりと頭を揺さぶるように耳鳴りが起こる。立ち膝すら辛くなり、そのまま地面に倒れこもうとする。

 隣で何かが動いた気配がした。閉ざされた視界と聴覚の中で何かに身体を支えられた。

(ごめんね、迷惑かけちゃって)

亜沙子はそう声をかけようとして、そのまま意識を手放した。


 雨粒の音が聞こえて、亜沙子は目を覚ました。

 亜沙子の身体はいつのまにか停留所のベンチに横たわっていた。外は薄暗くなり、あれほど眩しかった青空も、ひまわりの群れもすっかり見えなくなった。点々と灯る外灯の明かりだけが、さあさあと落ちる小雨でモザイクがかった景色をぼんやりと映し出している。

 体を起こすと、すぐそばに八尺さんがしゃがんでこちらの顔を覗き込んでいた。きっとベンチまで運んでくれたのも彼女だろう。相変わらず表情はぼやけているが、こちらの様子を伺うような動作で自分を心配していることはわかった。

「八尺さん、運んでくれてありがとう」

 お礼を言って、彼女をベンチのとなりへ座るよう誘う。座りなおした二人はじっと外の景色を眺めた。

「……すっかり夜になっちゃった。迎えを呼ばないと」

 そういいながら、亜沙子の指は一向に動かない。細身の体はまだ昼間の熱をまとっており、空腹もそれほど感じていない。なにより隣には、八尺さんがいるのだ。もう少しだけ、このままでいたいと思ってしまった。

 亜沙子は八尺さんに身体を預けながら、ぼんやりとしたまなざしを真夜中の道へと向けた。

「雨は苦手なの。特に夜の雨は……なんだか悲しい気持ちになって」

「……」

「どうしてなのかしら。昔はこんなことなかったのに」

 亜沙子は肩にかけていたストールを抱き寄せるように握りしめた。

昼間あれほど鮮やかだった真夏の景色が今では暗い色に染まっている。音を立てて地面にしみこむ雨音は嫌というほど耳に残り、ときどき吹き抜ける雨風にゆれる草木の影がどうしようもなく不安な気持ちにさせた。

 昼と夜の世界があまりにも違いすぎて、亜沙子はまるで異世界に迷い込んでしまったように感じた。

(なんだろう、この気持ちは)

(私は一体、何を忘れているんだろう)

 薄ぼんやりとした視界と意識の中で、パンとなにかが弾ける音がした。

「!」

それが自動車のクラクションだと気付いたのは、バス停に近づいてくる二つのライトが見えてからだった。

 それは西の方角から道沿いにやってきた。火の玉のような薄ぼんやりとした明るさのライトが、ゆっくりと近づいてくる。雨粒を弾いて近づいてくるのは、見慣れた市営のバスだった。ただ、少し様子がおかしい。

 銀地に薄汚れた赤のラインが入った塗装はところどころはげかかっており、こうして動いているのが不思議なくらいボロボロだった。市街地を回るだけでは到底つかないような、まるで、世界中を旅してきたかのようにくたびれたバスだ。だが、それほど古い作りをしているというのに、恐ろしいほどエンジン音が聞こえない。まるでおもちゃのバスがひとりでに走っているような、そんな薄気味悪ささえ感じられる。

「八尺さん、バスが」

 無意識に口から言葉が漏れたと同時に、亜沙子の目の前にバスが止まった。ぷしゅう、とバスは排気口から息を吹き出す。

 バスの中は乗客でひしめき合っていた。窓枠に頭を寄せて眠る人影や子供らしき人影がこちらを覗き込むように見下ろしている。彼らはみな薄ぼんやりとしていて輪郭をとらえることが出来ない。

 困惑している亜沙子の目の前で、ドアが開いた。

 音もなく開いたドアの先には、一人の男がこちらに背を向けて立っていた。

「……うそ」

 どこか見覚えのある立ち姿に、亜沙子の心臓が跳ねる。

「優雨」

 乾いた亜沙子の唇から名前がこぼれた。声に反応した男がこちらを振り返る。その人影だけは、なぜか亜沙子の瞳にひどくはっきりと映し出された。

 少し傷んだ茶髪と、たれ目がちの瞳は相変わらず愛嬌があり、低い鼻も相変わらず。いつも大口を開けていた唇は控えめに、少し震えているようだ。薄く青みがかったYシャツにデニムの七分袖ジャケット、緩めのジーンズを履いた足元は、彼の好きなメーカーのスポーツシューズを身に着けていた。

 ああ、彼が、彼が乗っているということは。

このバスはきっと。

「優雨、本当に優雨なの?」

 忘れることのない、大切な彼の名前を、何度も口にする。

対する彼は目を見開いたまま、無言でこちらを見つめていた。

「優雨」

 亜沙子は腕をのばし、とっさにバスへ駆け込もうとした。それを長い腕が引き止める。

 八尺さんだ。

 背の高い彼女が腕をいっぱいにのばし、亜沙子の左腕をつかんだ。

「どうして止めるの?」

亜沙子は必死に腕をふりはらおうとするが、しかし彼女はびくともしない。

「おねがい、手を離して、優雨が」

 窓から影たちがなんだなんだとこちらを覗き込んでくる。バスが排気ガスを撒き散らし、ノイズ混じりのアナウンスが聞こえた。

『発車します』

 このままでは、バスが行ってしまう!

「離して!」

 亜沙子は八尺さんの方をふりむき、懇願するように彼女の顔を見上げたと。

 その時、ふと、首に違和感を感じた。

「痛っ……なに、これ」

 八尺さんの首に巻かれていたものと同じ、細長い紐のようなものが首には巻かれている。ずっとストールだと思っていたそれは、ささくれの目立つ古い荒縄だった。その縄の先が八尺さんの首とつながっている。

思わず八尺さんの顔を見上げた。するとどういうことだろうか。今まで霧がかってよく見えなかった彼女の顔がはっきりと見えた。しかも、その顔は。

「―――私?」

 その顔はまさしく、亜沙子自身そのものだった。ただしその顔立ちは今よりも十歳近く若い亜沙子の姿をしていて、ひどく顔をゆがめて泣いていた。その細い首には痛々しいほどに縄が食い込んでいる。彼女は、怪異などではなかったのだ。

(どうして、八尺さんが)

 とまどう亜沙子の脳内に、過去の記憶がフラッシュバックする。


 優雨が亡くなったのは、亜沙子が二十五の時だった。

 三つ年下の彼がいつものように仕事を終え、車で帰宅しようとした時だ。ひどいどしゃ降りで道が見えず、また真夜中で更に視界も悪い中、誤ってガードレールに車ごとつっこみ、高架橋から転落したらしい。雨のおかげで炎上こそ免れたものの、車は大破、病院へ搬送された時にはすでに息絶えていたそうだ。

 亜沙子にその話を知らされたのは朝方になってからで、本当に、突然の出来事だった。


+ + + + + 


 優雨の葬儀から三日後、亜沙子はようやく彼の残した荷物整理に手を出し始めた。『夕焼け小焼け』のパンザマストが鳴り響くのを聞き、ふうと気の抜けたため息をつく。

時刻は夕方の六時を過ぎていた。床にはまだ整理し切れてない書類や荷物が散乱している。

「……今日はもうあきらめよう」

 亜沙子は大きくため息をつくと、雑誌を結んでいた荒縄を放り出した。

生前の優雨の荷物はそう多くはない。服も靴も自分が所有している半分もなく、それらを片づけるのは簡単だった。だが、それよりも手が付けられないのが、本だ。

子どもの頃からホラー好きが転じ、怪談・都市伝説のたぐいが大好きな彼が集めたのが、今家の中をもっとも支配している書物の山だった。天井までの本棚三つ分と、段ボール十箱をこえる蔵書は量もさることながら、一冊一冊が辞書並みに分厚く、一人では手に負えない。

(明後日から仕事なのに)

 亜沙子は大きく伸びをしながら立ち上がった。身に着けている白いワンピースは、窓から差し込んだ夕日に染まって橙色の波を揺らす。しわの目立つそれはアラサーが着るには若すぎてとうてい外へは着ていけない。かといってそのまま捨てるにはしのびなく、こうして作業着代わりに来ているというわけだ。

(最後の記念くらいにはなるかな)

 そうぼやきながら、亜沙子はケトルのスイッチを入れる。熱湯の中で沸き立つ泡が、まるでケトルの中で何かが呼吸をしているように見えた。

「あ~、疲れた……」

 コーヒーを淹れ、二階へ向かう。居間も台所も物だらけで落ち着いて飲めたものではない。亜沙子は自室のドアを開けた。

遮光カーテンの引かれた部屋は、一足早い夜のようだった。いつものクセで電気のスイッチを押そうとして、やめた。夕方とはいえ、この部屋は窓が大きく、カーテンを引くだけで十分に明るくなる。ついでに窓も開けて空気を入れ替えればいい気分転換になるだろう。

亜沙子はカップを片手に、エメラルドグリーンの布を思い切り開いた。目の前でフラッシュをたかれたような鋭い日差しが亜沙子を襲う。

「っ、まぶし」

思わず目をそむける。目を凝らしてみると、沈みゆく夕焼けが地平線からこちらへ向けて顔をのぞかせていた。思わず息を飲んだ。

(……きれいだなあ)

 亜沙子は窓を開け、身を乗り出しながらコーヒーをすすった。

 家々のすき間を縫うように、あまりにもピンポイントに日差しが差し込むので、スポットライトが当てられている気分だセールで、まとめ買いしたインスタントコーヒーもどこか特別なもののように感じる。

 夕方の涼しげな風が、窓から部屋に入り込んでくる。風にあおられた亜沙子のワンピースの裾が大きくひるがえる。

『若作り』

 ちょっときつめの防虫剤の匂いとともに聞こえたのは、優雨の幻聴だ。

 彼は一言多い人間だった。このワンピースだって、彼の好みだというから買ったというのに。鼻で笑いながら言うものだから、自分ももう二度と着ないなんて言って。出ていこうとした亜沙子をあわてて引き留めようとして。

(……『また着てよ、俺が見たいから』なんていうからさあ)

せっかくとっておいたのに。結局その機会は永遠に失われた。

 亜沙子は飲みきったカップを床に置き、沈む夕陽を眺める。まばゆい光は永遠に続くような錯覚さえ感じるのに、緩やかに流れる時間は確実に太陽を地面に落とす。途端に、亜沙子の心を寂しさで埋め尽くした。思い出の声も記憶も遠くなる。

(いかないで)

必死に腕を伸ばす。細い指が光をつかんで空を切る。何度繰り返しても、亜沙子の指は光をつかめない。目に直接飛び込んだ真夏の熱線が亜沙子の混濁した意識に深く深く突き刺さる。そのまま心臓まで溶かしてしまいそうで、怖くなった。そうしている間にも夕焼けは地平線へと飲み込まれていく。

 遠くへ行ってしまう。

 彼が、過去になる。

(―――そんなの耐えられない)

亜沙子は二階のベランダから高速道路の果てに続く地平線へ沈む夕焼けを眺めながら漠然とそう思った。

そして気付いた時には、手に荒縄をにぎっていた。


+ + + + + 


天井の梁(はり)に縄を通し、適当な長さで結ぶ。さらに輪を作って首をかける部分を作った。最後に何度か引っ張ってみて、結び目にほころびがないことを確認する。荒縄はきしきしとむなしい音を立てていた。

この時の私の頭は真冬の雪原を歩くように静かだったし、うっすらと雨粒に汚れた窓から差し込む夕焼けも、ひどく冷静に亜沙子の行動を見ていた。

 軽くはきだした息には、どれほどの感情が入っていたのだろう。震える指で縄を掴むと細くささくれたとげがチクチクと刺さってくすぐったい。空中に空いた穴に私の首を通し、後ろ手で縄を調節した。足元では自分の黒い影が、中央から部屋端の本棚まで細長く伸びている。

 亜沙子は痛いほど脈を打つ心臓を抑え、椅子を後ろへ思い切り蹴り飛ばした。

(―――っ!)

 首の圧迫感と息苦しさに、喉をむりやり締め上げた痛みに声も出ない。かっと見開いた瞳に地平線に沈む日差しは容赦なく刺さり、汗とともに涙としてこぼれていく。無意識に暴れる身体で縄は激しく揺れ、きしみを上げる。亜沙子は口を開け、嗚咽をもらした。

(くるしい)

どうしたことだろうか、先ほどまであれほど死にたいと思っていたのに。永遠に感じる一瞬の苦しみに、亜沙子の体は、心は、必死に生へと執着する。

(……嫌だ)

 何が嫌なのか。死ぬことか、もしくは嫌と思うことが嫌なのか。

(嫌だ!!)

 何もわからぬまま、それでも亜沙子の心は、声にならない悲鳴を上げ続ける。

 その時、亜沙子の体が宙に浮いた。

「―――痛っ!」

 とっさに声がでたのは、亜沙子がしりもちをついた時だ。腰から思い切り落ちた亜沙子は、後ろへ蹴り出した丸椅子に頭をぶつけた。クッション部分だったからまだよかったものの、それでも一メートル以上の高さから落下したせいで痛みは相当だ。止めと言わんばかりに、顔面に叩きつけられるように縄の切れはしが落ちてくる。亜沙子の首を絞めつけていた部分はすっかり緩み、縄が擦れたせいで血がにじんでいた。

「げほ、うえっ……」

 亜沙子はせきこみながら、乱れた髪の隙間から天井を見上げた。太い梁には結ばれていたロープはちょうど境目でちぎれており、梁に吊るされたロープの先が無様に揺れている。もがく亜沙子の体重に、細い荒縄は耐えられなかったのだ。

「あ……」

 か細い声がもれた。自分はなんてことをしたのだろう。首にしみ込んだ痛みが、熱をもった後頭部が、亜沙子が生きていることを証明している。

 それは同時に、自分が彼の元へと行けなかったことを意味していた。

「あ、あああ……っ」

 嗚咽とともに大粒の涙がこぼれた。縄の跡が残る首元をかきむしるように両手で掴む。しゃがみこんだ亜沙子の影は、声をあげながらその場へうずくまった。

 橙色と黒い影に染まった部屋で、亜沙子の声は止まることを知らず反響した。


『発車します』

ノイズ交じりのアナウンスが聞こえて、亜沙子は意識をとり戻した。

 あわてて前を向くと、バスの扉がちょうど閉ざされたところだ。

ぼやけたガラス越しに彼と目があった。彼は呆然と亜沙子を見つめ、そして。

(―――笑った?)

 とっさに腕を伸ばした亜沙子だったが、バスは私の腕を振り切り、音もなく雨の中を進んでいく。そうしてバスの姿が、煙のように消えてしまった。まるで幻か何かのように。

やがて雨は止み、晴れ渡った空の果てから朝日がのぞいた。夜が明けたのだ。

肌を刺すような熱を持つ朝の日差しは、雨ふり後の澄んだ空気で冷やされ、少し和らいだように感じた。霧がかった景色が少しずつ彩を取り戻していく。

(いって、しまった)

 力の抜けた亜沙子の腕がようやく解放された。気付けば首にあの縄はなく、つながっていた八尺さんの首元で元通りになっている。そうして八尺さんもいつの間にか、亜沙子と同じくらいの身長に縮んでいた。いや、元に戻ったのだ。

 亜沙子が八尺様だと思い込んでいたのは、ただの自分の影だった。

『……私は』

 隣の影が、ぽつりと声をもらした。初めて聞いた彼女の声は今の自分より少し高めで、とても耳になじむ。

『あなたが何度忘れてしまっても、私はずっとここにいる。この痛みとともに、あなたの代わりに覚えているから』

 細い指先が、首元で揺れる荒縄に触れた。それは彼女の細い首に食い込むようにきつく巻かれ、ちぎれた縄の先は彼女の指先にされるがままに揺れている。

『だからもう、全部忘れて、幸せになって?』

 それはそれはきれいにほほ笑む彼女に、亜沙子は思わず叫んだ。

「いやよ、私だって……っ!」

 忘れない、とは言えなかった。現にあのバスに乗った優雨の姿を見るまで、彼は亜沙子の記憶からすっかりぬけていたのだ。せわしなく流れる日常の中で、首の擦り傷が痕も残さず癒えたように。それとともに、亜沙子の中で抱えきれないほど大切なものが増えていった。

今の亜沙子には、あのバスに乗る資格がない。

 そんな亜沙子を、目の前の影は静かに肯定した。

『私は八尺さん。あの日ちぎれたあなたの影で、あなたが名前を付けて認めた、あなた自身。いつかあのバスに乗るその時まで、私はずっとここで待っている……この痛みとともに』

 そう亜沙子の影は、八尺さんはつぶやいた。そうして少しずつ目の前の彼女は影が伸びるように膨らみ、元の八尺サイズへと戻っていった。

 首が痛いほど見上げた自分の顔は、あまりに晴れやかで。

震える腕をのばし、亜沙子はその手を握り返した。

「……わかった、お願い」

 口からこぼれた言葉は、とても小さな声だった。

「でもね、私はまた何度だって思い出すわ。きっと何度だって、あのバスに乗ろうとする」

ひまわり畑の隙間からのぞく朝日が、亜沙子の瞳の奥深くをゆるく溶かしていく。やがてそれは一滴のしずくとなってこぼれ、存外ぬくもりのある彼女の手のひらを濡らしていった。

「だからお願い、そのたびに私を引き留めて。私がまたワガママを言ってバスに乗ろうとしても、腕をつかんで離さないで。私は生きなければいけないって、何度だって思い出させて」

 最後に見た優雨の顔。あれは安堵の笑みだった。自分の後を追ってバスに乗り込もうとした亜沙子を、結局乗れなかった恋人の姿を、しょうがない奴だとあきれながら喜んでいたのだ。

『生きていてよかった』、と。

(だから私は、生きなけれならない)

 これは死者から亜沙子へ託された痛みだ。

 未来へつながる呪いだ。

 亜沙子は生きなければならない、この痛みと共に。

 あの日ちぎれた影と手をつないで。

 

 泣き崩れる亜沙子を抱き寄せて、八尺さんは何度も何度もうなずいた。


 まどろみの中、ベッドで眠る私の肩を誰かが揺らした。

「―――ママ、起きた?」

 最初に目に入ったのは六歳になる息子の顔だった。私似の小柄な鼻がヒクヒクと動いている。いつもは私が起こしてもぐずって起きないくせに、日曜日になるととたんに早起きになるのはいかがなものだろうか。

 私はあくび交じりに身体を起こした。ぐっすり寝たのに、いや、寝たせいなのか、ひどく体が重い。

「んん……もう朝?」

「うん、パパがご飯できたから起こしてきてって」

 枕元の時計を見ると、時刻は八時をすぎていた。普段なら完全なる寝坊だ。

 美沙(みさ)の姿もないのを見ると、どうやら気を利かせた旦那が、私の代わりに早起きの息子と娘の世話を焼いていたらしい。まったくできた人だ。これでもう少し趣味の収集癖が抑えられれば、何も文句はないのだが。

「そう、ありがと。今日はママが一番ねぼすけね」

 うーん、と伸びをしてから息子の頭を撫でると、息子が不思議そうに首をかしげた。

「ママ、どうしたの?」

「なにが?」

「おめめ泣いてる」

 ほら、と言って自分の頬に小さな手が触れた。離れた指先に水の粒が付いている。自分でも触れてみると、目元からまだ暖かい涙がこぼれていた。

「ほんとだ」

「怖い夢でも見たの?」

 息子の問いかけに、はてと首をかしげる。記憶をたどる脳内はおぼろげで、ほとんど思い出せない。ただ、ひどく懐かしい夢を見たような気がする。

 今はもう廃線となった実家近くのバス停で、懐かしい誰かと話をしていたような。

「……怖い夢じゃなかったけど、忘れちゃった」 「えー?」

「亜輝(あき)が起こしてくれたから、もう大丈夫だよ」

 そういって息子の頬をつつくと、旦那によく似た顔が照れ臭そうに緩んだ。

「さ、パパが待っているからご飯食べにいこう。ママは顔を洗ってくるから、先に行ってて」

「うん!」

 元気な返事をした息子はベッドから飛び降り、階下のリビングへと駆け出す。私はベッドから体を浮かせ、タオルを片手に洗面台へと向かった。

 今日もまた、亜沙子の新しい一日が始まる。



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