第一章 ニューペキン

 地球共和国の一角、アジア大陸の東端にその都市はある。ニューペキン。かつて中華人民共和国という国の首都だったところである。しかし、その当時のものは何一つ残っておらず、今では月と地球を往復するシャトル便の空港を中心に、歓楽街と学生街、それにビジネス街が栄えている。

 その学生街にある大学は全部で七大学であるが、その中の一つに、法学部の名門、ガイア大学がある。法学部の卒業生のほとんどが法曹界、政界、官僚界に入り、共和国の中枢として働いている。

 ガイア大学の敷地はとてつもなく広い。その広いキャンパスを颯爽と歩いている女子大生がいた。片手には電子手帳を持ち、肩からブランドもののショルダーバッグを提げている。長い髪にスレンダーなボディ。それにピッタリと張り付いたような黒のニットスーツは、超ミニスカートで胸元も大きく開いており、谷間が見えている。長い脚は、輝くばかりに美しく、それを支えているのは、ヒールの低いパンプスである。そんなケバケバしい格好にもかかわらず、顔は知性と理性を感じさせる。決して品の悪い女には見えない。いや、むしろ深窓の令嬢という表現があてはまるくらいだ。しかし、その歩き方の豪快さは、それをも否定していた。

「政治思想史か」

 彼女は電子手帳を開いて、心なしか嬉しそうに呟いた。

「今地球と月が怪しいことになってるみたいだから、何か生々しい情報でも聞けるかな」

と彼女は言い、法学部棟の方へ歩いて行った。


「相変わらず受講生が少ないな」

 彼女はそれが不満のようだ。膨れ面をしたまま、教室の中央の席に腰を下ろした。

 講義の行われるこの教室は、全部で三百席くらいある小ホールで、コンサート会場のように後方が上がっている造りになっている。

「隣、いいか?」

いきなり後ろから声をかけられ、彼女はハッとして振り向いた。そこには体育会系そのものの筋肉質の角刈り男が、Tシャツジーパン姿で立っていた。彼女はどうやらその男を知っているらしく、呆れ顔で、

「何も隣じゃなくてもいいでしょ。他にも席はいくらでも空いてるじゃないの、レージン・ストラススキー」

 レージンと呼ばれた男は、後ろの席を飛び越えて彼女の隣に強引に座り、

「そのフルネームで言うのはやめてくれよ。まるで他人みたいじゃないか、カシェリーナ」

と言ってウィンクした。カシェリーナと呼ばれた彼女はプイと顔を背けて、

「私と貴方は他人でしょう。人が聞いたら誤解するようなこと言わないでよね」

「ハハハ」

 レージンは頭を掻いて笑った。そして、

「小学校からずっと同じ学校で、大学まで同じ二人が、他人だなんてあまりにも悲しいじゃないか。来年春の卒業論文は二人の共同作業で提出しようぜ」

「小学校と中学校は学区が同じだったから一緒で、高校は貴方が私の担任を脅かして私の志望校を聞き出したから同じになったんでしょ。大学だってそう。でも貴方みたいな勉強嫌いな男が、よく法学部に入れたわね」

とカシェリーナは言ってのけた。レージンはまた笑って、

「ハハハ。これも愛のなせるワザさ。愛する女がいるところなら、石にかじりついたって行くぜ」

 カシェリーナは呆気にとられて、

「大したものね。そこまで一生懸命になれるとこだけは、尊敬するわ」

「なら、そう邪魔者扱いするなよ、カシェリーナ」

 レージンがカシェリーナの肩に手を回すと、彼女はそれをピシャリとはねつけて、

「厚かましいわね。そういうところが嫌いなのよ。下心見え見えなんだから」

「ひでえなァ。俺、下心なんて少しもないぜ」

 レージンは叩かれた手を撫でながら言った。カシェリーナは、

「貴方を一度、犯罪心理学教室のウソ発見機にかけてみたいわね」

とツンツンして応じた。レージンは肩を竦めて、

「ほーら、君の愛しい人が来たぞ」

と教壇の方を見下ろした。するとあれほど威勢のいい事を言っていたカシェリーナが、まるで初恋の人に会った女の子のようにカッと赤くなって下を向いてしまった。

「ほォ。試験が近いせいかな。見慣れない顔が多いようだが」

 教壇に立った男が言った。場内にドッと歓声があがった。男もフッと笑った。歳の頃は三十代半ば。長髪を後ろで束ねて、妙に襟の大きいシャツの上に、スェード地のジャケット。下はジーパン。歳のわりには若々しい感じで、顔は無精髭をきれいに剃ってしまえば男前であろう。

「どうしたんだよ。下向いてちゃ、先生の顔が見えないぜ」

 レージンが冷やかすと、カシェリーナはムッとして彼を睨みつけ、

「うるさい!」

とつい大声を出してしまった。教壇の男がこれに気づき、

「そこ! 痴話ゲンカは外で頼むよ」

 またドッと歓声があがる。カシェリーナは再び赤面し、俯いた。レージンはヘラヘラ笑いながら、

「すみません、教授」

教授。そう、この政治思想史の教授はダウ・バフ・マーンという。政治思想学では若手のNo.1と言われており、数々の論文を発表し、月連邦政府の招きで月の大学で講義をしたこともあるほどの男である。

「さてと。そろそろ本題に入ってもいいかな」

マーンは言い、教壇の後ろにあるスクリーンのスイッチを入れた。

「前回の講義に引き続き、今回も地球共和国と月連邦が分裂した頃の政治思想について話を進めたいと思います」

 マーンはカシェリーナを見て、

「そこのお嬢さん、名前を教えてくれないか?」

「えっ?」

 カシェリーナはすっかりドギマギして立ち上がった。

「カシェリーナ・ダムンです。法律学科ですけど、先生の講義が面白いと聞いて、出席しています」

「そう。それはありがとう。確か、前回もいたよね?」

 マーンはニッコリして言った。カシェリーナは緊張のためか、引きつったように笑い、

「は、はい。毎回出席しています」

「なるほど。重ね重ねありがとう。で、ありがとうついでにね、カシェリーナ」

「はい!」

 マーンはカシェリーナの大袈裟な反応に笑いをかみ殺しながら、

「地球と月が二つに分かれて別の国家を形成するに至った過程で、多大な影響を与えた思想家がいたね。それをちょっと話してくれないか」

「は、はい」

 カシェリーナはすっかり頭の中がパニックになっていた。

「え、えーと、その、あの…」

 焦れば焦るほど言葉は思い浮かばず、顔は紅潮して行く。その時レージンがカシェリーナの形の良いお尻をスッと撫でた。

「キャッ!」

 反射的にカシェリーナはレージンに平手打ちを喰らわせていた。レージンは椅子から転がり落ちた。

「何するのよ!」

 怒り心頭のカシェリーナがレージンを睨んだ。周囲の学生は固唾を呑んで二人を見ている。レージンは涙目でフッと笑い、

「どうだい、少しは落ち着いた?」

と言って椅子に戻った。言われてみれば、さっきまであれほどアタフタしていたのに、今ではすっかり冷静になっている。

「あ、ありがとう」

 カシェリーナは半分納得がいかないながらも礼を言い、再びマーンを見た。マーンはことの経緯をすっかり見ていたが、全く動じることなく、

「さっ、説明してくれたまえ」

とにこやかに促した。カシェリーナは大きく頷いて、

「元は一つの連邦政府によって統治されていた地球と月は、時の流れの中で次第に状況が変化して来て、人々の環境にも決定的な差があり、同じものの見方で政治を行うのでは、どちらの住人にとっても不利益が起こるため、地球と月は分割して統治されるべきだと説いた、アクタイオン・イリドスがいます」

「うむ。アクタイオンは結論としてどうすることが望ましいとしたかな?」

 マーンが質問した。カシェリーナは軽く咳払いをして、

「地球と月はそれぞれ独立して政治をなし、両国に共通の事項については協議会のようなものを設けて、そこで決定することを説きました。つまり、緩やかな連邦国家を提唱したのです」

 マーンは満足そうに微笑んだ。

「ありがとう、カシェリーナ。座っていいよ」

 カシェリーナもニッコリして椅子に戻った。マーンはそれを見届けてから学生達を見渡し、

「今、カシェリーナが説明してくれた部分が、前回の講義の概要だ。前期の試験にはバッチリ出題するから、よォく覚えておくように」

 場内はどよめいた。試験に出すと聞くと、大概どよめくものだ。マーンはニヤリとして、

「まァ、それぞれ焦ってくれ。さてと。今回の講義は、もう一人の思想家、ライオス・パレだ」

「ライオス・パレか」

 カシェリーナは真顔になった。するとレージンが小声で,

「ライオス・パレって、危険思想家って言われている人物だぜ。普通、政治思想史の講義で取り上げられることはない」

「へェ、レージンて意外に物知りなんだ」

 カシェリーナが冷やかし半分で言うと、レージンは苦笑いをして、

「いや、カシェリーナがあの教授のこと気に入ってるみたいだから、俺も政治思想史をやってみようかなって、図書館で調べたのさ。マーン教授は毎年パレのことを三回くらいに渡って講義するらしいよ」

「フーン」

 カシェリーナはレージンの話を聞きながらマーンを見つめていた。

(ライオス・パレのことなら、ここにいる誰よりも詳しいつもりよ。確か、全人類は一旦宇宙に出て、地球環境が回復するまで戻るなと説いた、ちょっと極端すぎるほどの環境保護論者だったはず。決して危険思想家なんかじゃない。でも一般の学生はほとんどがライオスのことを誤解している)

 カシェリーナがライオス・パレについて詳しいのには理由がある。彼女の父で、ガイア大学の政治学の教授でもあったシノン・ダムンとライオス・パレは弟子と師の間柄だったのである。それ故、カシェリーナはライオスが世間の人々に誤解されていることを快く思っていなかった。父シノンの教えによるところも大であったが、彼女自身もライオスの著書を読み、彼が決して危険な思想の持ち主ではないことを悟ったのである。

 シノンは大学を退職して、今はニューペキンの郊外で暮らしている。母であるテミスはカシェリーナが大学に入学した時、離婚してニューペキンを去っていた。カシェリーナは、学問に無関心で、世俗的な芸能ニュースにしか興味がないテミスをあまり好かず、かと言ってシノンと同居することもせず、ニューペキンの学生街のとあるアパートの一室を借りて生活している。自立心が強いのだ。

 そんなことだから、カシェリーナはライオス・パレのことを講義に取り上げるマーンのことが気になった。彼個人にも惹かれてはいたが、それ以上にライオス・パレの思想に関するマーンの見解に興味があった。

「みんなも知っている通り、ライオス・パレは今から三十年ほど前にその多くの論文を発表し、地球と月の分離独立に影響を与えた人物だが、その生涯は大部分がよくわかっていない」

 マーンが話し始めた。カシェリーナは身を乗り出してこれを聞いている。レージンはそんなカシェリーナを眺めながら、耳はマーンに向けていた。マーンはスクリーンを切り替えてライオス・パレの写真を映した。それは胸から上の写真で、スーツ姿のライオスが写っていた。髭が頬から顎、そして口の上と顔一面に生えており、結構厳い感じのする人物である。

「人は人相が悪いと兎角損をしがちだ。ライオスもそうだった。彼は環境保護のために人類が一旦地球を離れることを説いた。しかし、それは誤解され、彼は月の独立を支持する狂信的な宇宙論者と決めつけられた」

「あれェ」

 レージンは自分が知っているライオス・パレと違う人物像をマーンが語り始めたので、カシェリーナを見るのをやめて前をまっすぐに見た。

「カシェリーナ、知ってたか?」

「知ってたわよ。私の父は、この大学の教授だったのよ。そして、ライオスの弟子だったわ」

「あっ、そうか。そうだったよな」

 レージンは頷いて言った。マーンはさらに続けた。

「しかし、実際はそうではなかった」

 その時である。教壇脇にある電話がけたたましい音で鳴り響いた。あまりに突然だったので、場内はざわついた。

「マーンです」

 マーンはすぐさま受話器を取って応答した。

「どうしたのかしら?」

 カシェリーナは心配そうに言った。レージンが、

「これで講義が終わることになれば、昼飯にありつけるぜ」

「何言ってるのよ、全く」

 マーンは非常に沈痛な顔で教壇に戻った。そして学生を見渡して、

「今、信じられない情報が入った。月連邦軍が、地球共和国の人工衛星を撃墜して、両国が戦争状態に入ったそうだ」

 場内は完全に静まり返った。皆、マーンの発言がどういうものなのか、必死に考えているのだ。しばらくして質問が相次いだ。

「先生、これからどうなるんですか?」

「戦争はすぐ終わるんでしょうか?」

「ニューペキンが巻き込まれる心配はありませんか?」

 カシェリーナもドキドキしていた。

(戦争? 何故今になって…)

「とにかく、講義はこれで終わりにする。もしかすると、軍の放送で外出禁止令が出されるかも知れないから、すぐに家に帰った方がいい」

 学生達はいっせいに立ち上がり、外へ出て行った。マーンも机の上に広げた資料を鞄に戻すと、教壇を降りた。

「マーン先生!」

 カシェリーナがマーンに近づいた。レージンはギクッとしてカシェリーナを追いかけた。

「カシェリーナか。何かな?」

「先生はこの戦争どう思われますか?」

 マーンはしばらくカシェリーナを見ていたが、やがて、

「それは何故始まったのかということかね?それとも、局地戦で終わるかということかね?」

「両方です」

 カシェリーナは応えた。マーンは他の学生が出て行ったのを見届けてから、

「その答えは私の研究室で話そう。ついて来たまえ」

「はい」

 マーンとカシェリーナが一緒に歩いて行くのを見て、レージンも、

「あ、俺も行きます」

と後から走って行った。

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