第2話 変わり者の家主
「お待ちしておりました」と久我が入り口の戸を引くと、午後の日差しのなかにずんぐりした体型の小柄な男が立っていた。歳にして三十代の後半くらい。くたびれ気味のチェックのシャツに色褪せたジーパンを履いた地味な男だ。両手には重そうな紙袋を提げている。その格好は、漫画やアニメのイベント会場か、秋葉原でよく見掛ける人を思い起こさせた。
接客スペースには久我が案内してくれるようなので、チハルはお茶を入れるため奥へ引っ込んだ。
ポットのお湯を湯呑に注ぎ、温度を下げているあいだに急須に茶葉を投入する。湯呑のお湯を急須に移してお茶が出るのを待っていると、応接で談笑する声が聞こえてきた。どうやら、地主が久我に売ってもらったという土地の取引について話しているようだ。
「左様でございますか」「とんでもございません」「存じあげております」
よく通る張りのある声に、時々軽快な笑い声が混じる。さすが、大手さんは口の利き方からして違う。とはいえ、ほとんど久我ひとりの声しか聞こえない。地主は見た目通り、大人しいタイプの人物らしい。
三人分のお茶を運んでいくと、久我と地主は応接セットの下座側に並んで座っていた。それぞれの目の前にお茶を出し、スーツのポケットから名刺入れを取り出した。
「はじめまして、瀧川チハルと申します」
男は目を合わせずに、ひょこ、と頭を下げて片手で受け取った。
「鹿野様、七福不動産さんはこのあたりで一番古い業者で、賃貸の管理に関しても一流ですのでご安心ください。瀧川さん、こちら鹿野様です」
すっ、と久我が立ち上がると、地主の鹿野はきょときょとした様子でゆっくりと立ち上がった。よろしくお願いします、とチハルが腰を折ると、消え入るような声でよろしくお願いします、と言った。
「さっそくではございますが、お持ちいただきました資料がございましたら拝見させていただけますか?」
丁寧な口調で久我が促すと、鹿野は持ってきた手提げ袋の中から、大量の紙の束をゆっくりと取り出した。
古い募集図面と設計図、建築確認申請書、請負契約書だの登記済み権利証だのが、大理石模様の古いテーブルに所狭しと並べられた。どうやら一切合財の書類を、無造作に袋の中に突っ込んできたようだ。ただし、契約書はそれぞれの物件ごとにしっかりとファイリングされている。
「全部で何棟でしょうか?」
チハルが尋ねると、鹿野はだいぶ遅れて「八棟です」と小さな声で返した。
八棟――とチハルは心のなかで復唱した。まだ決まったわけじゃないが、一度にそんなにたくさんの物件を預かれるなんてそうそうない。さっきアパートの契約をキャンセルされたことなんて、吹き飛んでしまうくらいにすごいことだ。
……よし。この話、絶対に逃がしてなるものか。物事は最初が肝心。ここはしっかりと家主の心を掴んで、信頼を勝ち得ておきたい。
「これだけの物件数を今まで全部ご自分で管理されていたんですか? すごいですね」
チハルはとびきりの営業スマイルを浮かべた。すると、鹿野はみるみる間に真っ赤になってソファの上で身じろぎした。
「あーっと……管理、っていうほどのことはあれで……家賃はまあ、入ってこないと困るんでちゃんとチェックしてたんですけど、ちょっと、メンテとかはやってなくて……」
「毎月のお家賃を管理されるだけでも大変なことですよ。鹿野様がしっかりやってこられたお陰でスムーズにお預かりすることができそうです。今現在、滞納されて困っていらっしゃるお部屋はありませんか?」
「……はあ……えと、メゾン・ディアに確か、遅れてるところが……あ、いや、あれはもう入ったんだった。今は……もう、ないかなあ」
チハルと久我はこっそりと顔を見合わせた。鹿野は常におどおどしていて、とてもゆっくりと喋るタイプの男のようだ。これではすべての説明が終わるまでに何時間もかかってしまう。見兼ねた久我が小さく咳払いをして、助け舟を出した。
「アパート経営は鹿野様のお父様がやってらしたんですが、去年亡くなられて相続されたんですよ。これまではご自分で家賃管理もされていらしたのですが、ちょっと手に余るようになったということで、どこか業者に管理をお任せしたいという話なんです」
久我の言葉に、はい、はい、と相槌を打ちながら、チハルは書類を整理した。なるほど、家賃の収入を毎月記入したノートが何年分にもわたってあるようだ。古いノートには年功を経た達筆な文字で。新しいノートには、表計算ソフトで作った表が糊で貼り付けられている。
「管理と一緒に、空き部屋の募集も早々にお願いしたいそうです。話し合いが済み次第、鍵もお預け下さるということで」
「ありがとうございます」
黄色く日焼けした紙の中から、チハルは真新しい権利証を拾い集めていった。権利証は全部で八部。あとで物件の内容が載った登記簿謄本を取りに行く都合上、内容をざっとメモに取っていった。それから、図面と契約書とその他の資料を物件ごとにまとめていく。これまでにいろいろな業者と付き合ってきたらしく、契約書の形式もまちまちだ。こういう場合、きちんと更新契約がされていない場合もあるので気を付けなくちゃならない。
「あの――」
突然鹿野が声を上げたので、ふたりは彼の方を一斉に見た。鹿野は膝のあいだに両手を挟んでモジモジしている。
「だめそうですか……? もしも……無理なら他を当たりますので」
「えっ、無理だなんてとんでもありません。是非当社でお預かりさせていただきたいと思います。……すみません。眉間に皺寄ってました?」
チハルは申し訳なさそうに言って愛想笑いを浮かべた。まだ何も言っていないのに、この自信のなさは一体どこから来るのか。
「いや、そういうわけじゃなくて……。うちは古い物件が多いし、それに……ちょっと問題がありまして」
「はい。なんでしょう?」
「そのなかに、築五十年近い単身者向けのアパートがあるんです。もう壊す予定で、順々に出ていった部屋を何年も募集をかけずにいたんですが……」
そこで鹿野は鼻のあたりを落ち着きなく擦った。
「……実は、空室のはずの部屋に、どうも誰かが住みついてしまっているようで――」
「ええっ」
チハルと久我は同時に声を上げた。
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